第29話 彼女のためにできることは

 日野先生と生徒指導室で話した後、僕は家に帰り、リビングの椅子に座って、会話を思い出していた。


雪乃ゆきのさんは、事件に巻き込まれている可能性が高いです」


 どこか現実感がない日野先生の言葉を一つずつ確かめるように心の中で反復していた。ふと、母さんの写真に視線を移す。母さんが死んだときも全然信じられなくて。朝起きたら、きっと母さんが起こしに来てくれるだろうと、信じて眠りについていたのを覚えている。


「母さん、雪乃になにが起きてるの?」


 気づいたら、そんなことを写真に向かってつぶやいていた。


 母さんは今の僕を見てなんて言うだろうか……。雪乃を助けてあげてって、言ってくれるだろうか、それとも危険なことはしないでと言うだろうか。でも、どっちにしても母さんは僕のためを思って、その言葉を言ってくれるのだろうと思う。


 何故か一瞬だけ、母さんがうなずいてくれたように感じた。そして、「大切な人だったら全力で守ってあげなさい」と、こう言ってくれたように感じた。


「大切な……か……母さんが言うと説得力あるな……」


 僕がそんな独り言を言っていると、インターフォンがなった。


「はい」と、インターフォンに出ると、かえでが映っていた。


「急にごめん、昨日のことで話したいことがあって……」


 楓は家の中に入ると、リビングの母さんの写真の前に立った。


「楓、お茶でいい?」


「うん、ありがと」


 そして楓は手を合わせた。


「ごめ――さ――」


 楓が何かをつぶやいた。


「え? なに?」


「なんでもない……」


 楓は母さんの写真から目を離さず、そう言った。


「昨日の話って、雪乃の弟君から聞いたことだよね」


 僕はそう言いながら、楓にお茶を出して椅子に座った。


 楓も椅子に座り、お茶を一口飲んだ。


「うん、それとね、今日、先生からも結衣ゆいのこと言われてさ、春人はるとにも言ったって先生が言ってたから」


「うん、聞いた。雪乃が事件に巻き込まれている可能性があるって言ってたけど」


「それなんだけどさ、啓介けいすけ君、気になることを言ってたの」


「気になることって……いったい」


「結衣の今のお父さん……そのお父さんが、たまに変な目で、結衣や啓介君、そしてお母さんを見るんだって」


「変な目?」


「詳しくはわからないけど、その目がとても怖いって。でも、出会った時は優しかったみたいでさ、前の、本当のお父さんと同じくらい、啓介君たちもこの人とだったらって思ったみたいで……でも、再婚して、だんだんその優しさが消えてしまった。もしかして何かあるんじゃないかなって……」


「何かって、もしかして、その人が何か」


「うん、たぶん」


「雪乃はそんな人と一緒に住んでて、大丈夫なのか」


「結衣がさ、男子のこと、苦手だって知ってるでしょ?」


「うん、まぁ、よくわからないけど、僕には普通に話してくれるみたいだし」


「春人は……ちょっと特別なのよ、結衣、男子にしつこく告白されると、その、蹴っちゃうじゃない」


 雪乃のハイキックは男子の間では有名な話だ。去年、雪乃は男子から毎日のように告白され、しつこい男子にはハイキックを返していた。そして雪乃は男子とは距離を取っている。僕も少し前までは雪乃と話したことがなかった。


「結衣が男子のことが苦手なのって、そのお父さんのせいみたいなの」


「それって……」


「言っておくけど、襲われたとかじゃないわよ、結衣のために言うけど」


「じゃあ、なんで」


「中学二年の時、お母さんが再婚してすぐ、そのお父さんが結衣に暴力を振るったの、それが一回や二回じゃなかった。あたしも、その時ちゃんと気づいてあげられなくて……痣があったのはわかっていたのに、もっとちゃんと……」


 楓は言葉には涙が混ざっていた。そして楓は言葉を続ける。


「その時から、結衣は男子と目を合わせられなかったり、必要以上に近づかれたりすることが苦手になったの、きっと思い出して怖くなってしまうんだと思う。身体を触れられようものなら、反射的に蹴っちゃうみたい」


 僕が最初に雪乃にハイキックをされたのは先日の交差点だ。あの時僕は雪乃と衝突してそのまま覆いかぶさってしまった。彼女はそれを苦手としていて、嫌な思いや、怖い思いををさせてしまった。それは僕だけじゃなくて、今まで雪乃にハイキックを返された男子全員に言えることであって。彼女が今までどんな思いで日々を過ごしてきたか……。


「アルバイトも、お父さんに言われたことなんだってさ、アルバイトでもらったお金も全部、お父さんに渡しているって、お父さんは何に使っているかは教えてくれなかった」


「そこまでして、なんでまだ一緒にいるんだ」


「結衣も啓介君も、お母さんも、また優しい時の姿に戻ってほしいって、そして戻ってくれるって信じてるんだって」


 雪乃は学校の屋上で僕に答えた。アルバイトして何か欲しいものはあるのかと僕が聞いたとき、とても大事なものと。その大事なものは優しい時の義理のお父さんであって、変わってしまった今の姿を見てもなお、あの日の姿に囚われている。それは前のお父さんと今の義理のお父さんとを重ねているのではないだろうか。


 抜け出せない、何かの殻に覆われて、身動きが取れない状態になった雪乃を救い出すために僕は一体何ができるのだろうか。




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