第10話

「何を話そうかしら」

「姉さん、まずは授業が先だからね」

「分かってますー。でも桂花ちゃんと話すのが楽しみで仕方ないんですー」

 これが実際に行われていた会話だ。

 だが、桂花は一応は初対面の二人の唇の動きを凝視して会話に入るわけにもいかず、その表情と大まかな動きで内容を想像した。


 きっとこんな感じだろ


「今日の夕ご飯は?」

「昨日の残り物があるので作りません」

「ちぇー。新しい一品ぐらい欲しいなー」

 二人は夕飯のことを話しているんだろうと桂花は思いながら、静かに離れて手前の扉を音も立てずに(そのつもりで)開け、講義室の中へと侵入する。

 開始まであと5分なのに相変わらず人はまばらで、彼女が座る席もいつも通り空いていた。


 どうしたものか。

 着席し、ノートを開きながら始まった講義を見ながらも桂花の脳内にはこの言葉しか思い浮かばなかった。


 え、だって私、人と話すの多分大学受験以来? だよ?


 スライドを使って分かりやすい解説をしながら授業をする教授を見ながらもノートにはひたすらどんな会話をするかについての話題を書き連ねる。

 その間も、桂花は中ほどの列で授業を聞く百音の背後を注視した。

 背筋を伸ばし、熱心に解説に耳を傾けているのだろう。と思った。限りなく不純物の混じっていない白色で、錐のように鋭利な形を保っているそれは、かつてのオリンピック選手の一部が浮かべていた物に近しかったからだ。


 まさか生で見れる日が来るとは思ってなかったからなあ


 少し前のことを思い出しながら、ふと、それを題材にしてみるのもいいのではと思い付いた。

 早速ノートの白紙部分にそれを書き、二重丸で囲んで強調させる。


 まずは一つ


 桂花は手応えを覚え、この調子で他の話題も書こうとした時、視線を感じた。

 反射的に見られたと感じた場所へ視線を向け返すと、斜め前に座っている男がいた。

 男はヒソヒソ声で桂花に喋りかけているため、彼女は何を言っているのか理解できずにいた。


 まずい。どうやって誤魔化すか


 桂花が考えている間にも男はしきりに彼女へと話しかけてくる。

 それからすぐにノートのページを破り、そこに[私語がバレたら教授に絞られるからここに書いて]と書いた紙を男へと渡した。


 頼む。これで納得して


 桂花の思いは通じ、男は文章を読みながら頷いてそこに返事を書いて渡してくる。

[シャーペンの芯を補充したいんだけど0.5のやつ持ってる?]


 なんだシャーペンの芯かよ焦った〜


 危機はひとまず脱したと分かり、筆箱から芯の入ったケースを手渡すと男は2本取り出して自身のシャープペンシルの中へと入れ、ケースを返してきた。

 その時、男は「ありがとう」と言ったのを桂花は見逃さず、ニコリとだけしてノートへと再び視線を落とした。が、視界の外から嫌が応にも流れてくる露骨なピンク色のハート型を見ながら自身の誤りを悔いた。


 席と時間ずらすかあ。てか、今どきピュアな人もいるもんだね


 珍しく純愛を体現したような形を評価していると、それを押し流すように教室全体が緩やかな色で満たされる。

 講義が終わったのだ。

 千歳桂花、現在の装備は話題一つ。

 彼女は絶望した。

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