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  • 編集済

     僕はこの手の言葉は、「美辞麗句」だとなんか美しい感じがするだけで足りないように思うので、「聴こえのいい欺瞞」と呼んでいます。
     「騙し」と言っても差し支えないもので、まあ非現実の流布が本分である創作の分野じゃあ、非常に有用なのですけれども。
     願わくば、これを創作の外に出さないでおいて欲しいものです。
     現実と創作の区別がつかない人、というのがよく槍玉に挙がりますけど、実は大半の人がそうなんじゃないかって疑ってます。

    作者からの返信

     現実か創作かにかかわらず、昔から耳にしているとレトリックに疑問を抱かなくなってくるのでしょうね。ある意味では、社会の「当たり前」をいちいち疑問に思わなくなることが「大人」になるということかもしれません。
     とはいえ、「当たり前」は常に疑われるべきものですし、過度の一般化や無根拠な楽観、それらによる思考停止や価値観の押しつけ合いは、本文にも書いた通り、悲惨です。
     偉そうにこんな記事を書いた僕としても、レトリックに惑わされない注意深さを養っていきたいものだと思っています。

  •  〝感嘆符の後ろはスぺース空ける、なんてルールあるのか〟という意見については正直、いったいどの文章作品を見て言ってるんだと不思議になりますが、さておき。

     〝文が途切れない場合でも空ける〟というほうについては、昔から疑問に思ってはいました。
     感嘆符の後ろにスペースが必要なのは、〝「、」「。」などの句読点は文を区切らせるために字形からしてマージンがあるのに対して、感嘆符にはそれが無いから〟だったはずで。
     途切れさせるわけでもないのにスペース入れるのは、中黒点「・」や範囲符「〜」の後ろにスペース入れるようなものだって思えたわけですね。
     一方で、まあ慣れの問題かもしれませんが、たしかに文が途切れない場合でも感嘆符の後ろは空いてたほうが、見やすい気もします。
     感覚の話なので、判断難しいですね。

     ただ、Webでの文章だと印刷面積とか気にする必要なくて、改行もし放題ですから。
     地の文ではすべての文末で改行する、という体裁も割と普及してきているので、そのお蔭で感嘆符の後ろにスペースがあっても文は途切れていない、って事を明示できるようになったかなあと思います。
     でもこれも、スマホとかの小さな媒体だと、余白が多すぎるとかえって見づらい、って事になったりもしますし。
     そもそものところ、媒体それぞれで別々のマスタリングが必要になるはずなので、体裁を統一してしまおうっていうのは無理な相談なのかもしれませかん。

    作者からの返信

     返信が遅くなってすみません。

     感嘆符の後ろに空白を作らないのは、Twitter(現X)やニコニコ動画などネットの書き方という気はしますね。昔の掲示板やブログもその辺りのルールにおおらかなイメージがあります。漫画の感嘆符は一区切りついていることが多いですが、(少なからぬWeb小説と同様に)「……」は「・・・」と表記されているのがほとんどです。というわけで、紙の本をあまり読まず、ネットや漫画の方に親しみがある人なら、感嘆符や三点リーダーなどのルールを知らなかったり、面倒に思ったりするものなのかもしれません。
     たまに自主企画の概要説明で、句読点がなく細かく改行している文章を見かけますが、あの書き方はブログに近い気がします。ネットに公開するものということで、ブログ感覚でWeb小説を書く人が結構多いのかもしれませんね。

  • 主語と述語③ 対応関係への応援コメント

     これって僕でしたら、複文で叙述するには複雑すぎると判断して、もう単文にバラしてしまいますね。
     翻訳というのは理解できる言葉に直す事だと思うので、原文でそうなってるってだけの理由で、読み手を路頭に迷わせやすいシロモノを出してくるのはあまり、感心しません。
     原作者だって、そんな事は望んでないはずでしょうし。

    作者からの返信

     1文が長くなりそうなときに複数の短い文に区切るのはいわば定石ですが、そう言えばこの小論ではだいぶ後になってから、さらりと紹介した程度ですね。軽率でした。
     僕は外国語が苦手な上に頑固者なので、「論理的な欧米語のニュアンスは、非論理的な日本語では表現しづらい」といった話を耳にするたび、「工夫すれば日本語でだって表現できるはずだ」と思ってきたんですよね。もちろん今回はそういう話ではないわけですが、意識がそっちに引っ張られて、「1文では分かりにくいものを、1文のまま分かりやすくする」ことに固執していた気はします。
     くり返しになりますが、たてごとさんのおっしゃる通り、こういう場合、シンプルで短い文に区切るのが正攻法だと思います。翻訳だからと原文のニュアンスを偏重して、分かりにくい文章を提示するのが得策でないのも、その通りだと思います。直訳や逐語訳だけで済ませるばかりでは、原文が持つ文章としての美しさからは遠ざかってしまいますからね。

  •  なんとなく、こんな傾向もまた有るように思いました。

    ・前部により重点のあるものは「が」
    ・後部により重点のあるものは「は」

     〝リンド夫人が住んでいた〟と〝リンド夫人は住んでいた〟の違いについては、これで説明可能だと思います。
     かつこれは、(1)(2)の基準が発生する理由でもあるかなあと。

    作者からの返信

     こちらにもコメントありがとうございます。

     その傾向・区別はたしかにあると思います。
     実はこの小論を書き始めたとき、その区別を知らなかったのですが、分かりにくい基準を5つも紹介するより、ひとまずそちらで考えた方が楽なのではないかという気もしています。
     ただ、僕自身の中でこの区別が(第三者に理屈で説明できるほど)はっきりしていないので、今に至るまで紹介できていません。はっきりしたら、この小論でも紹介したいと考えています。

    編集済

  • 編集済

    主語と述語① まとまりへの応援コメント

     こういう問題はいつも、すごく悩みます。
     特に「意外と」などの、副詞の多くがそのまま接続詞として独立可能なので、解釈が一段か二段複雑っていうのは間違いないです。
     そうでなかったら、〝その後の文すべてにかかっているという見方もできなくはない〟という但し書きは発生しないはずですしね。

     ただ、正統な文法にのっとる事で、より正確に伝わりやすく仕上がるっていう利点がある一方、そういう事にこだわらない相手に対しては、一定のクセに対する愛着を感じにくくなって退屈させる、という欠点も出てくると思いまして。
     そもそも崩しって、そういう目的でするものだと思いますし。
     これはきっと状況に応じてのバランスの問題で、なので一定の基準というのはたぶん作り得ないんだろうなあとか、そんなふうには思ってます。


     しかし何と言いますか、〝多くの人は「主語と述語が大事です」と言われて「そんなの分かってるよ」と思うはず〟が、まず自分には当てはまらなかったりしまして。
     どちらかというと「ほう、してその心は?」のような感じでしたので、やっぱり僕ってどっかおかしいんだろうなあと。
     つまり自分の感覚は、あんまり人からは共感してもらえないんだろうなあと、イジケてたりはしましま(

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     おっしゃる通り、言葉の意味や文法は時間と共に変化するだけでなく、意図的に崩されることもあるものなので、小説を書くとき正確な意味や文法に固執しすぎるのも、それはそれで表現の幅を狭めることになります。
     ただ、別の書き方があること、別の書き方をした方が伝わりやすくなる可能性に気付くことが文章チェックの第一歩だと思います。
     本文では説明不足かもしれませんが、そういうちょっとした注意喚起くらいのものと思ってください。

  • 主語と述語④ 切り替えへの応援コメント

    キタコレー!!
    俳句的な要素のやつ!!
    失敗すると「何言ってるかよく分かんない」に
    なるやつ!!
    かつてのトラウマがぁぁぁ!!!

    作者からの返信

     泉さん、過去に何かやらかしたんですか(笑)
     日本語は不思議な言語で、実は(というか、こう言ってよければ伝統的には)主語と述語(用言)の対応をそんなにくっきりさせない書き方が多いんですよね。受験勉強で読んだ古文も、「(私が)……と申し上げたところ、(○○様が)……とおっしゃるので、(私が)……したら、××さんがどうのこうの」といった具合だったと記憶しています。主語をズバッと言わず、ニュアンスで読み取らせるのが粋、という感性があるのでしょうね。
     俳句のことは、率直に申し上げて僕にはよく分かりませんが、文字数の都合で断片的な情報だけを置くことになるでしょうから、主語の切り替えが激しくなるのも分かる気がします。個人的には、日本の短歌や俳句はそれが詠まれた文脈を前提にしているものでしょうから、文脈を何も知らない人にとって「何言ってるかよく分かんない」事態になるのは当然だと思いますが、プレバトとかを見ると、短歌や俳句にも巧拙があるようで、文芸の世界は難しいなと思います。

  • 主語と述語③ 対応関係への応援コメント

    確かに、これは高等テクニックだ。
    出来る自分と、妙な自信を持ち出した頃にやらかすヤツ……。←自覚あり

    作者からの返信

     『カラマーゾフの兄弟』の例は、注意深く読めば正確に伝わる(はずの)文なのですが、文法的には間違っていなくても読みやすいとは限らないという話ですね。読みやすい文章を書くためには、「間違っていない」の先を目指す必要があります。
     ただ、海外作品の翻訳の場合、訳者さんの多くは原文の文法をなるべく尊重して邦訳を組み上げることになりますし、明治・大正の文豪やその影響を受けた作家たちも自然と海外作品の影響を受けた書き方になっていることがあります。泉さんのおっしゃるように、読書家の方や、小説を書き慣れてきた書き手さんほど、Web小説としては難しめの書き方に違和感を持たなくなっている、ということはあるかもしれませんね。

    編集済
  • 主語と述語① まとまりへの応援コメント

    何を伝える? から始まり、どうつたえる?って、考えると大事ですよね

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。

     小説は、良い意味でも悪い意味でも、「中身が伝わればそれでいい」わけではありません。そこが難しいところですね。
     泉さんの作品『皇帝の剣』に関しては、主語と述語が対応していない箇所はなかったと思いますし、そういった意味でこの小論は、泉さんには退屈な話の方が多いかもしれません。ただ、読者が何を足掛かりに文章を読むのかということを意識するための、ちょっとした確認・注意喚起として、今後もこの小論をご活用いただけると幸いです。僕も、少しでも役に立つ記事を書けるように努力します。

  • 主語と述語④ 切り替えへの応援コメント

    すごい……勉強になります。

    作者からの返信

     ありがとうございます。

  • 主語と述語① まとまりへの応援コメント

    自主企画へ参加いただきありがとうございます!
    文章チェックという地味だけど(すみません……)、めちゃくちゃ大事なことについて書かれている方は見たことがなかったので、ぜひ参考にさせていただきます!

    作者からの返信

     ありがとうございます。
     そうなんです、文章ってめちゃくちゃ大事なんです(笑) 僕もまだまだ勉強中の身ですし、他人様の小説にいちゃもんを付ける中で気付かされることも多いですが、少しでもお役に立てるよう、頑張ります。

  • 主語と述語① まとまりへの応援コメント

     きれいな文書、とっても大事なことだと思いますよ。

    小説でもなんでも発見があることは楽しい。
    その発見のきっかけは違和感からだと思うのです。
    でもその違和感の原因が、誤字だったら? 文法のミスだったら?

    そして次に現れた矛盾が面白さと判断されるか、ミスと判断されるか、大きな違いになると思いませんか?


    ついでも好みの問題ですが、
     「意外とこれは微妙な問題です」
    一人称なら地の文でもありで、三人称だと微妙かな。

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。

     例文「意外とこれは微妙な問題です」については、この記事を掲載した後になって「やっぱりセーフかも……」と思い始め、何日か唸る羽目になったのですが、結局「修正した方が無難」というところに落ち着き、今もそのままにしています。
     感覚的な話にはなるのですが、紙の本(たとえば小川洋子さんの小説かエッセイ)を読んでいるときに「これは意外と微妙な問題です」という1文が出てくることは想像できても、「意外とこれは微妙な問題です」は想像しにくいといいますか、もし出くわしたら違和感を覚えるのではないかと思います。
     また、同じ構造の文、たとえば「意外と彼はたくましい男だ」を考えても、文字で見るなら「彼は意外とたくましい男だ」の方がしっくりくる気がします。
     なぜしっくりくるのか、どういった場合なら文頭に「意外と」を持ってきて良いのか、自分でも厳密には分からないのですが、ともかく、「話し言葉と書き言葉では文法の重要性が違ってくる(→だから主語と述語のまとまり、副詞と形容詞の文法的なつながりが大切)」というのがこの記事で言いたかったことです。

     例文「意外とこれは微妙な問題です」について、一人称の地の文ならセーフというのは仰るとおりで、その辺りの匙加減が、小説で美しい文章を追求することの難しさにもつながっていると思います。

     小説における「発見」が違和感から発している、だから誤字や文法ミスによる余計な違和感は削っておいた方が良い、とのご指摘は目からうろこです。美しい文章にこだわり続けることに対し、自分でも「そんなに神経質になるべきじゃないのでは?」と思うことがよくあるのですが、背中を押していただけた思いです。ありがとうございます。

  • 主語と述語④ 切り替えへの応援コメント

    とても良い学びをしております。このような機会を頂き感謝いたします。
    Web小説と文学作品の隔たり。書けないのか、書かないのかはさておき、学のない私にはとても貴重な機会となっております。とかく、同じような表現を重複して描写してしまう未熟さを、この機会に、幾らか進歩させたいと思います。以後もしっかりと拝読致します。

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。
     至らぬ点が多い小論だと思いますが、そうおっしゃっていただけて幸いです。

     Web小説の全体的な傾向として、読者も書き手もコストパフォーマンスを追求しているような節がありますね。「頭を空っぽして読める」くらい、頭を使わずに済む、情報として単純化された描写によって構成される娯楽を読者は求めていますし、書き手もまた、人気が出て、広告収入が入って、書籍化できるなら、文章のニュアンスなんて気にしないという方が多いように思います。
     もちろん、需要と供給があって双方が得をするなら良いという考え方もあるわけですが、小説を書くのが楽しくて始めたはずの創作活動が、ネットの波に揉まれてそういう方向に変わっていくのだとすれば、ちょっと悲しい気がしますね。

  • 主語と述語③ 対応関係への応援コメント

    お疲れ様です。姫川です

    非常に勉強になります。主語と述語が対応していない文章だったり、回りくどい表現を用いたりは、私もよくしてしまうので、耳が痛いです(この文章がすでに添削対象ですね笑)。こういう日本語の文法の話にコメントを残すのはすごく怖いです。

    ロシア語は知りませんが、ドイツ語は定型第2位(動詞は必ず2番目)とか、枠構造とかそういう原則があるので、どれだけ長い文章になろうとも主語述語の対応がわかりやすいです(場合によっては動詞が部文末に来るので、その点は日本語と似ていたりもしますが)。英語も基本的に主語述語の順で並んでますしね。慣れるとドイツ語とか英語みたいなラテン語系?の言語の方が、扱いやすいんだろうなとは思います。紹介されていた「は」と「が」を代表とする助詞が、どう考えても難し過ぎるんですよね。知りませんけど。

    また、ドイツ語の翻訳をしていて日々感じるのはやはり「関係代名詞」の扱いです。英語もそうですけど、これのおかげで長ったらしく且つ主語述語関係がわかりにくい翻訳文が出来上がります。よろしければこの関係代名詞と日本語の関係を取り上げてもらえると私が喜びます。

    作者からの返信

     コメントを下さり、ありがとうございます。

     文章チェックのポイントなどと題したこの文章、書いた僕もビクビクしながら投稿しました。お互いにビクビクしながらお話をしているわけですね(笑)
     お褒めの言葉を頂けて、ひとまず安心しました。

     文の基本は主語と述語ですから、発話・記述の早い段階でそれらを提示してしまえるヨーロッパ系の言語は、おっしゃる通り、「扱いやすい」言語だと思います。言語の構造自体が、最初に結論を言ってから理由を付け足すような語り方を促すので、その意味でも、ヨーロッパ系言語の方が「分かりやすい」話ができますし、姫川さんが取り組んでいらっしゃる論文の類は、まさにそういう語り方を前提としているように思います。
     知ったかぶりで私見を申し上げれば、日本語的な分かりにくい語り方の良いところは、感情のすり合わせに向いていることだと思います。
     たとえば、
    「AがBというわけではないのだ。Cでもない。Dかと言うとそれも違う。E。そう、Aは実のところEなのではないか」
     というような文があったとします。
     かなりもったいぶった言い方ですが、このとき語り手は、聞き手の感情を誘導して、結論に至るまでの感情の道すじを疑似的に共有していると思うんですね。こういう狙い(感情の動きを呼び起こすという目的)がある語りの場合は、主語の直後に述語が来る言語よりも、述語が文末に来る言語の方が向いているのではないかと思います。
     まあ、そんなことを考えていても論文を上手く書けるようにはなれないでしょうし、おそらくそういう書き方はWeb小説にも向いていないと思うのですが。

     関係代名詞を含むヨーロッパ言語の翻訳については、残念ですが、僕ではあまりお役に立てないと思います。
     名詞(特に主語)を修飾する部分が長くなりすぎる場合の対処法についてなら、何か書けるかもしれませんが、僕が考える最も手っ取り早い方法は文を分けてしまうというものですから、原文の意味を忠実に書き出すことが求められるであろう学術書の翻訳には必ずしも適さないように思います。
     英語的でありながら日本語としても理解しやすい書き方をしている文章としては、古いですが、夏目漱石『三四郎』の冒頭を例に挙げて良いと思います。

    ――――
     うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。
    ――――

     さすが漱石先生というか、情報量が多いにしては、すんなり読める文章に仕上げています。ポイントは、文を細かく分けていることと、所々で主語を省略していることでしょうか。ただ、やはり小説的な言い回しで、話の全容が直積的にまとまっているかは微妙ですね。
     お役に立てず、すみません。

     美しい文章の書き方については、今後も思うところを書いていきたいと思っていますし、一つひとつの記事は短くまとめるつもりなので、何か参考になる部分を探していただければ幸いです。