青痣の狭間人

濫(仮)

第1話 父の死

 王が死んだ。

 その知らせは、瞬く間に国の隅々まで広がった。

 ナゾルの国は一斉に悲しみに包まれた。

 国中の窓という窓から、次々と真っ黒な布が垂れ下げられていった。

 大喪が始まったのだ。 

 乾いた風は冷たさを帯び始め、砂を浚った。

 そしてまた、不穏な空気をも。


 王子ユグムは呆然とした。

 握りしめる父の手から、少しずつ体温が失われていく。

 半年前には、想像すらしていなかった。

 体調を崩されて、転がり落ちる様に悪化し、一月前には立ち上がることもできなくなってしまっていた。

 ユグムには母がいない。王妃はユグムを産んだ直後に亡くなったそうだ。

 王は新しく妃を作らなかったので、ユグムの家族は父一人だった。

「お悔やみを申し上げます」

 臣下たちが悲嘆に暮れて動けない中ただ一人、宰相を務めるモゾマが王の横たわる寝台に近づき、その亡骸の瞳を閉じさせた。

「静かに眠らせて差し上げなくては」

 ユグムはその言葉にただ頷いた。

 モゾマはユグムの隣に立って、ユグムの肩にそっと手を置いた。

 周囲を見渡し、モゾマはこの場の全員に呼びかける。

「いつまでも立ち止まってはいられないのです。我々は殿下をお支えしなけばならないのですから」

 モゾマの言葉は、しんと静まり返った部屋の中でよく響いた。

「宰相殿のその言い様は、あんまりではありませんか」

 灰色の髭を結った大臣は、肩を怒らせてモゾマに噛み付いた。

 モゾマの言葉は正しい。間違ってなどいない。しかし、敬愛した王が亡くなられて、直ちに気持ちの整理がつけられるほど、人は強くない。

 嘆き悲しむのは至極当然のことであり、その気持ちはせめて、亡くなられた王の手向けとして祈り捧げたい。

 特に灰色の大臣には、宰相の態度は王の死を軽んじているように思われたようだ。

 モゾマは何を言い返すわけでもなく、ただ一瞥をくれるだけだった。

 言いようのない雰囲気が場を包む。悲しみと、緊張と、怒りだ。

 ユグムは殺伐とした空気の中にただ一人取り残されていた。

「モゾマ、葬儀の手続きを。コルボ、『浄』の指示を頼む」

 父親を失ったばかりの王子が、血色のない能面のような顔で言うものだから、臣下たちはおとなしくなるしかなかった。

「承知いたしました」

 臣下たちはその場で一様に深く拝すると、王子の意に従うべく動き出した。


 ユグムの自室の扉がトントンと叩かれた。

「殿下、浄の支度が整いました。失礼いたします」

 柔らかく明瞭な声が聞こえてくる。

 ユグムが入室を許可すると、見知った彼女が扉を開けた。

 長い銀の髪を二つにまとめ上げ、豊かな絹の袖ぐりに細かな金の意匠を施した、ナゾル王国の高位の巫女装束を纏う、ユグムと同じ年頃の娘である。

 金の輪っかのような頭飾りから垂れる長く薄いベールで全身を覆っているのは、彼女が高い地位の巫女であることの証明である。これにより、巫女は不浄から守られているのだそうだ。

 娘は入室と同時にユグムに拝する。頭を上げた彼女は、少し砕けた表情を見せた。

「ごめんなさい、全体でたくさん霊水が必要だったから、あなたの分を汲むまでに時間が掛かっちゃって」

 「この格好、水を汲むのに不便で仕方ないのよね」と娘はユグムの自室に入るなり頭飾りを取った。

 娘はアリーシアという。ユグムの遠縁で、神官長コルボの娘。ナゾル国で王家の次に重要な神官の家系に生まれ、彼女もまた巫女として王に仕える者である。いつも装着している手衣が外されており、白く細い手が露出している。

 アリーシアの後ろには彼女の侍女たち三人が控えており、各侍女の手には清潔で柔らかな絹、香、水を張った薄青色の壺がある。これは全て浄に用いられるものだ。

 浄とは、文字通りに魔を払う行為である。

 死は人ならざるものを惹きつける。

 各国にはそれぞれに大聖霊の加護を受けており、ナゾル国は水の大精霊ゾルノムに深く関わりのある国なのであるが、「死」は周囲の安定を揺るがす大きな影響を及ぼし、ゾルノムの加護をも不安定にすることがある。その衝撃が大きいほど。

 魔を祓ってゾルノムの加護を再び盤石なものにすること。それが浄の目的である。

 ユグムの元にアリーシアが来たのは、おそらくコルボの気遣いだろう。

 ユグムとアリーシアとは旧知の仲であり、数少ないユグムの友人だ。

「あなたたちは下がってちょうだい」

「承知いたしました」

 アリーシアの侍女たちは浄に使う道具を残し去っていった。アリーシアは扉を閉め、この部屋にはユグムとアリーシアの二人だけになる。

「陛下のお部屋は今、お母様が浄に当たっているわ」

 アリーシアはユグムを椅子に座らせた。

 それから窓を開け、香を焚きしめた。いよいよユグムの浄が始まる。

「冷たいけど我慢してね」

 ユグムは半裸にされ、アリーシアは壺の中の霊水に浸した布をユグムの肌に押し当てる。月明かりが部屋の中を照らしていた。

 ユグムは王の死の瞬間、一番近くにいた。一番強く「死」の影響を受けているはずだ。アリーシアは念入りに作業に向かう。

 彼女は巫女として、ユグムの体内に流れる波長を整えようとする。

「……父の死因は判明できていないらしい。一応、病死だと発表することになる」

 ユグムはポツリと話し始めた。その声に覇気はなく、顔色も青白い。

 アリーシアは布をユグムに押し当て、それをまた霊水に浸けてを繰り返している。

「父の後を継ぐ自信がない」

 ユグムの言葉に、アリーシアの手が止まる。アリーシアはすぐに扉を見やって、しっかりと閉じられていることを確認した。

 ほっとしてから、アリーシアは作業に戻る。

「手を貸して」

 アリーシアはユグムの左手を取って、腕をぬぐい始めた。

 ユグムには現在、年齢的な問題を抱えていた。現在ユグムは十五である。成人まで後五年の月日を必要とする。

 ナゾルの国の国主は、王族の世襲制を採用している。ただし、国主となる人物は成人していることが前提だ。

 前例は少ないが、ナゾル王国は長い歴史の中で空位の時代を経験したことがあるらしい。しかし、幸か不幸か五年もの長い期間王座が空くことはなかった。控えとなる王子の成人は、王の崩御から数年と待たず迎えることができたからだ。

 アリーシアはユグムの不安を理解している。ユグムにはもう頼れる家族がいない。

 ユグムには未だ王位を継ぐ準備も覚悟もできていなかった。

 ハリム王は本当に突然、この世から去ってしまった。

「ユグム」

 アリーシアは布を壺の口に掛けて、ユグムの手を両手で包んだ。

 ユグムの手は微かに震えている。

「どうして私たちナゾルの民が絶望していないか、わかる?」

 ユグムはアリーシアの意図がよく分からなかった。頭は上手く働かず、虚に沈んだままだ。

「陛下は気さくで、思いやりがあって、本当に素晴らしい方だった。亡くなられたと知った時、……とてもとても悲しかったわ。でもみんな、絶望はしなかった」

「どうしてだろう」

 ユグムは目を伏せて力なく項垂れている。アリーシアの握るユグムの左手は、どこか力ない。

 アリーシアは言葉を選び、いつもより丁寧で穏やかに話す。

「この国には聡明で、優秀な王子がいるからよ」

 アリーシアの灰色の瞳が揺れる。

 アリーシアはユグムを信頼している。

 ユグムを赤子の頃から知っており、ずっと親しくしていた。

 自分は神官の家に生まれ、自分もまた巫女としてユグムを支える立場にあることも、物心ついた頃には自覚があった。

 故にずっとユグムを見てきており、ユグムが真面目で直向きであることも、民がユグムを敬愛していることも知っている。

 ユグムは素晴らしい王になることをアリーシアは確信しているのだ。

 ユグムは責任感の強い男である。だからこそ、王となるには未成熟な今の状況が耐え難い。

 恐らく彼は、友人である自分にしか弱音を吐くことができない。臣下たちの前でも民たちの前でも、彼は「王族」としての立ち振る舞いを自分に課してしまう。

 支えられるのは、自分しかいない。

「貴方は大丈夫。貴方を支えるためにたくさんの人がいるんだもの。モゾマ様や、お父様、お母様、私もそう」

 ユグムはようやくアリーシアと目を合わせた。彼の瞳は、虚脱感に満ちていた。

 ユグムの黒い前髪が垂れる。目にかかりそうになるのをアリーシアがのけてやる。

「……俺は、人間として、不完全なんじゃないかと思う」

「どうしてそう思ったの?」

「父上が亡くなられた際、涙は一粒も流れなかったし、……ただずっと、あの時は、……死んでいく父上を眺めていたんだ……。危篤状態にあられる父上を前に、別れの言葉も言えなかった……」

 アリーシアはその場にいなかった。危篤状態のハリム王がどうなられてもいいように、準備しなければならなかったからだ。亡くなられたという知らせを聞いたのは聖堂の中だった。

 ユグムの痛々しい姿に、アリーシアは泣きそうになる。しかし、そんなことをしたらもっとユグムに負担をかけることになってしまう。アリーシアは声が揺れそうになるのを我慢して、ユグムに話しかける。

「ユグム、あのね、王族は臣下の前では涙を流せないようになっているのよ。お父上はきっと、厳かに眠りにつけたのだと思うわ」

 ユグムの手が強張るのをアリーシアは感じた。ユグムは瞼を強くつむって、眉間には縦にシワがよっている。恐ろしい夢を見たとでも言いたげに、彼は衝動に耐え忍んでいる。

「すまない、……気分が、悪くて」

 無理もない、とアリーシアは思う。もし自分がユグムの立場だったら、平静でいられないだろう。同じように、あるいはもっと酷い気持ちになったかもしれない。

 だが、そんな単純な事態ではないことに、アリーシアはすぐ気づくことになる。

「ユグム?」

 アリーシアが声をかけると、背中を丸めたユグムは苦しそうに蹲った。息が荒くなり、脂汗が滲んでいる。アリーシアは小さく悲鳴を上げて、直ちにユグムの自室の扉を開けた。すぐ側の廊下には、先ほど浄の道具を運んだアリーシアの侍女たちと、ユグムの近衛が数人控えていた。

「主治医を呼んで!殿下の様子がおかしいの!」

 アリーシアは叫んだ。ユグムは自重を支えられなくなり、大きな音を立てて床に崩れ落ちる。

 アリーシアは侍女たちの力を借りユグムを寝台に寝かすと、香の煙を増やし急いで全身を霊水で拭った。気絶したユグムの汗は止まらず、口からは苦しそうな唸り声が漏れ続けた。


「お父上の死に当てられたのでしょう」

 朝になり、ユグムは主治医の診断を受けていた。

 目が覚めると、ユグムを襲った件の現象はぱったりと治っていた。

 アリーシアに介抱してもらっていたらしいが、そのことは覚えていない。気がついたら寝台の上に横たわり、主治医をはじめとする医官らに囲まれていた。着替えさせられたのか、首もとが緩い楽な格好に変わっている。

 ユグムの診察は、実際に診察する医官の他に、宮廷魔導士や神官が立ち会って行われたらしい。国王の死の直後の出来事ということもあって、細心の注意が払われたようである。

 ユグムの諸症状は、人の死によって発生した、現世と霊界との境界の揺らぎに当てられたことによる『障界症』であると診断された。実際、このような症状は珍しいものではない。

「すまない、心配をかけた」

 ユグムが起き上がろうとすると、周りの医官は慌てて止める。

「殿下、今日はお休みください。葬儀の行程をまとめ次第、モゾマ様が殿下の元に参上なさることになっていますので。今日は我々が殿下のお世話をさせていただきます」

 そのままユグムは複数人の医官たちによってあれよあれよと再び寝かされてしまった。

 医官らの監視のもと、ユグムは自室でただずっと横になっていた。

 今のユグムは、じっとしていることが辛い。とにかく、何かをしたかった。例えば、口頭だけでも国内の状態がどうなっているのか聞きたかったが、「絶対安静に障る」と主治医は頑なで、話をすることも許してくれない。

 ーー民は王の死に不安で仕方がないはずであるのに、その上、王子まで臥せっていたら。その心労はより大きいだろう。

 ユグムは自分を恥じる思いだった。

 もう一つ、ユグムには民を不安にさせる要素がある。彼は、現時点で、国政に関わる権利を持たない。できることは、不在の王の代わりとして、承認の必要な書類に署名すること、宣旨の指示を出すことくらいだ。

 もちろん臣下たちはユグムの意思を汲んで国政に反映してくれるだろう。だがナゾルの国の厳格な法はユグムに味方してくれない。

 ユグムの立場は現在、王の代理人が関の山だ。

 しかし成人していないからこそ、本当の意味で王の代理にさえなれないのである。

 何故にここまで国主が成人であることにこだわるのか。それは王族の持つ大精霊ゾルノムの血脈が関係している。

 この世は大精霊たちの力によって作られたとされている。大精霊たちにはそれぞれ司る力を持っており、世界は大精霊たちの力の作用が張り巡らされていることで存続している。

 ナゾル王国に深い縁がある大精霊ゾルノムは、水を司る。

 かつて人間は、大精霊の力を借りることによって繁栄を得た。

 ナゾル王国建国の父アモラは、ゾルノムと『血の契約』を交わすことによって、砂に溢れていたナゾルの土地に水源をもたらし豊饒の地を作ったとされている。 

 契約を結んだ者の血脈は、大精霊との交信を可能にさせる。大精霊を宿した血であるから、大精霊の血と呼ばれる。

 アモラと大精霊との『血の契約』については、文献資料にその名前が記されているのみであるため、その具体的な詳細は分からない。しかし、その加護が存在していることは明らかだ。アモラの血脈は、大精霊との繋がりを保つために現在まで繋がれてきた。

 だが、血というものは世代を重ねる毎に薄くなってしまうものだ。

 その為、皇太子は成人する際に『交信の儀式』を行う。皇太子が大精霊ゾルノムと初めて交流する儀式で、いわば擬似的な『血の契約』であり、アモラの血を受け継いだ正統後継者であると大精霊に御目通りすることで、再び血の力を賜るのだそうだ。それによって本当の意味で王継承権が認められる。

 ただし、身も心も成熟した器がないと、大精霊の厳格なる精神に飲まれてしまうとのことである。

 その儀式を迎えるべく皇太子は日々鍛錬を積み、大精霊の精神を受け止める心身を養うのである。

 だから国主は、成人であることが必要とされる。

 時が流れるにつれ建国の物語は伝説となった。

 だが儀式の重要性は、古来から依然として変わらない。

 王族と大精霊の絆により、砂の大地に水の都が存在していることは明白であるから。

 ユグムは自分の未熟さを恥じた。

 例えそれがユグムの意思ではどうにもならないことでも、彼は王になるべくして生まれた存在であり、そのことに責務を感じているからだ。

 齢十五の王子は医官らに囲まれながら、寝台の上でただ天井を見つめていた。


・    ・    ・


 浄は徹底的に行われた。指揮をするコルボは大変忙しかった。

 平たく言えば王城の大掃除。目的はもちろん王宮から『死』を遠ざけようとすること。手衣を外した巫女らがこぞって右往左往していた。

 最初に香をもうもうと焚きしめてから、窓という窓を開け風を通し、霊水で隅から隅まで磨き上げる。ただでさえ国王が亡くなったということで、死の影響はより大きい。これを怠ると、『外なる』という言葉を冠する、怪物や獣といった、大精霊に属することを許されない化け物が発生する可能性がある。

 ひたすら浄の指示を出して、自らも禊を終えた後、コルボは宮廷の中央部にある、議会場へと向った。

 大喪の行程をまとめなければならなかった。

 赤く厳かな大扉を開けると、王の座す筈の議長席を除いた、殆どの臣が既に着席していた。

(以降、彼があそこに座ることはないのか……)

 コルボは私的にも王と親しかったので、空席に虚しさと悲しみを感じた。

 議長席は王のみが座ることを許されている。空の議長席は、王子が戴冠するまでこのままにされるだろう。

 王の代わりに本日の議会進行役を務めるのはモゾマだ。モゾマはいつも通り、議長席に隣接された副議長席に座っている。

 本来なら今回の会議にユグムも参加するはずだった。彼は副議長席に座り、モゾマがその側に控えることになる筈だったが、王子は障界症により倒れてしまった為、今回は不在のままに進められることになった。

 コルボが入室したことに気がついたモゾマが、席を立って彼の元へ向かった。

「会議が終わった後に、お時間をいただけますか。神官長殿に相談があるのです」

 それだけコルボに伝えると、モゾマはそよそよと裾を引きずらせ再び彼の席に戻っていった。

 はて、とコルボは思った。コルボの考えるモゾマという男に、「相談」という言葉が似つかわしく無かったからだ。

 もちろん今は非常事態であるからして、素早く対応しなければならない多くの事柄がある。時には誰かの協力を求めなければ解決できないこともあるだろう。

 だが、モゾマの場合は違う。モゾマは特別有能な男である。彼の決断力と先を見通す目はすざまじいものがあった。凡人である自分と比べ、彼は超人のように感じられるほど、どんな仕事でもやってのける胆力と鋭い知見を持っている。

 そんな彼が、相談を必要としている。それはつまり、コルボの意思が必要になる案件があるということだろう。そこまで考えると、一つだけ思い当たることがあった。

(まあ、実際そうであるかは、話を聞かないことには分からん)

 コルボの読みは結論を言うと当たっていたのだが、この時その正否を知る術はなかった。


・    ・    ・


 夜になった。

 ユグムは相変わらず寝台の上に寝かされていた。いい加減に一人になりたいと抗議したが、自分が来るまで寝かせているようにとモゾマにきつく言われていると主張され、本当に一日を寝て過ごす羽目になった。

 何をすることもできないユグムは、仕方なく窓の外の景色を眺めていた。

 今日は雲が少ないのか、月がよく輝いて見えた。素晴らしい満月だった。

 そのうちに、部屋の扉を控えめに叩く音がした。ユグムについていた医官の一人が立ち上がって、扉を開けて応対した。

 来客はモゾマだった。彼は葬儀の手続きに関する書類を持っていた。

 モゾマは部屋に通されると、医官らに「二人にさせてもらいたい」と頼んだ。

「一応、体力のいる話になるので、貴殿らはそこの廊下にて待機してもらいたい」

 そのように指示を受け、ユグムを介抱した医官らはユグムの自室から出ていった。

 ユグムはモゾマから葬儀に関する書類を受け取り、ある程度の説明を受けながら目を通した。時折質問を交えながら、二人は確認作業に時間を費やした。

 ユグムは寝台からようやく離れることができた。署名のためのペンが必要だからだ。

 ユグムは懐から鍵を取り出すと、机の小さな引き出しの鍵を開け、中身を取り出した。

 収められていたペンはユグムにしか扱うことができない特殊なものだ。このペンで線を引くと、自身の血液がインクとして先から滲み出される。これを『契の筆』という。

 国の根幹に関わるような、大きな案件を取り扱うときに使用される。

 ユグムが握ると、契の筆は反応する。表面に赤く模様が光を纏ってぼんやり浮かび上がる。自分の主人の存在を認識したのだ。

 契の筆で書面を擦ると、じわじわと赤い線が滲む。

 名前を書き終えると、書類をモゾマに返した。モゾマがそれを懐にしまうと、ユグムはようやく解放されるような気がした。しかしモゾマは部屋から立ち去ろうとはしなかった。

「もう一つ、殿下にお話ししなければならないことがあるのです」

「何だろうか」

 少しでも早く自由な時間を過ごしたいユグムは残念に思ったが、同時に自分が必要とされているように思えてほっとした。

 モゾマはちらりとユグムの顔を伺ってから、話を切り出した。

「殿下のご婚約についてのお話です」

 予想外の話題であり、ユグムはモゾマに何を言われたのか、飲み込むのに時間がかかった。

 面を食らったユグムを意に返さず、モゾマは話を続ける。

「以前から王国議会にて取り上げられていた議題なのですが、いよいよ殿下のお相手を決めても良いだろうと、殿下にお伝えしなければと思っていたのです」

 ユグムを置いてあくまでも淡々と話を進めるモゾマに、ユグムは慌てて静止に入る。

「話に水を差すようで悪いと思うが、私はまだ十五だぞ」

「確かに、少々早いと言わざるを得ません。しかし、早すぎることはないと思われます。特に、このような状況になってしまっては」

 このような状況、つまり王の不在のことだろう。ユグムはそう言われると言葉に詰まる。

「殿下が王位を継ぐまで、最低五年の月日が必要となります。その間、大精霊とこの国との絆が大なり小なり不安定になることが予想されるのです。もし国の根幹に関わる何かが起こってしまった場合、殿下が一人で立ち回ることができますでしょうか」

 モゾマは有無を言わせない。彼は正論でしかものを語らない男だ。

 ユグムは思わず視線を逸らした。机の上の洋燈の火は頼りなく揺れている。

「もちろん、私をはじめとする臣たちは殿下をお支えしようとするでしょう。しかし、臣の中には野心を持つ者も少なくありません。自分の親族を殿下のお相手にして、どうにか王家に自身の血を混ぜようと考えている輩も多いでしょう。そうなった時に、どうしても様々な派閥が生じます」

 つまり、争いの種は早めに摘んでしまえと言いたいのだろう。気乗りしないものの、国にとって必要なことだと理解はできる。

 だが、唯一の肉親であった父を失ったユグムには、そんなことを考える余裕はない。

 父の葬儀もまだ終わっていない。そんな折に突然婚約しろと言われて、「はい、わかりました」とその提案を受け入れることはできるだろうか?

「話はわかった、しかし、この件は葬儀が落ち着いてからにしないか?」

 ユグムは提案した。しかしモゾマは首を振った。

「葬儀が終わってすぐにでも、殿下のお相手について議題に取り上げられるでしょう。国が混乱した状態にある今、派閥間で争う暇はありません。そうなる前に、殿下のご婚約については予め決めておく必要があるのです」

 ユグムはうんざりした。確かに体力のいる話だと頭を抱えた。

 実際に小さく頭痛がしてきたし、うっすら脂汗も浮いてくる。そういえば病み上がりだったとぼんやり考えた。

「私を含めた数人で話し合いをした結果、アリーシア様がお相手としてふさわしいのではないかという結論に至ったのです」

 アリーシアの名前が出てきて、ユグムは再び驚いた。

「殿下にとっても、幸いな話かと思うのですが」

 確かに、ユグムにとってそれは幸いと言えるのかの知れない。

 少なくとも、いきなり名前も顔も知らない誰かと婚約させられる、といったことはない。アリーシアとは旧知の仲だ。それに関しては間違いなく不幸中の幸いであろう。

 それでもやはり、戸惑いはある。アリーシアとはきょうだいのように接してきた。ユグムとアリーシアの二人の間には、少なくともユグムにとって、男と女の差はなかったのである。

 さらにもう一つ疑問があった。

「アリーシアの家は神官の家だろう、それに、あちらにはアリーシアの他に世継ぎがいない」

 アリーシアの家もまた特殊な家柄である。彼女の父は神官長という立場にいるが、彼女の家は女系の家系だ。体の構造的に命を宿す器となることができる女性の方が、男性と比較して大精霊との交信が容易いと言われており、神官の家の家長は大体が巫女、つまり女性が担っているのである。

 アリーシアの母はこの国の最上の巫女の称号、『仙』を冠しており、次期にそれはアリーシアが継ぐことになっている。神官長という役職は、忙しい『仙』の代わりに議会場に出席したり雑務をこなす為の役職であり、『仙』の配偶者という立ち位置に過ぎない。

「殿下もご存知の通り、本家である王家と比べては劣るものの、神官の家もまた建国の父の血を強く継承している家系でございます。大精霊との絆が不安定になると予測される今、民の不安感と、その後の安寧とを考えた時に、王家の血を濃くすることは大変に意義があると思われるのです」

 モゾマは丁寧に説明を続ける。 

「二つの家系は、元は一つの血筋でありました。再び一つになり、それが再び分化したとしても、それは歴史を繰り返しているだけに過ぎません」

 ここまで話し通すと、モゾマはようやくユグムの出方を待った。

 ユグムは一人の男子として戸惑いが大きいが、一方で国の父とならなければならないことを考えると、モゾマの言葉には納得せざるを得なかった。

「今すぐ結婚するわけではありません。しかし、婚約の相手ということであれば、なるべく早いうちに発表することが最善だと思われます。ですから、そうなさるにせよ、しないにせよ、早めに殿下のお気持ちを知りたいと思っています」

「わかった」

 そのように言ったものの、ユグムの頭は半分考えることを拒否していた。アリーシアはこの話を聞いたのだろうか。モゾマは当人であるユグムの気持ちについて尋ねてきたが、実際にはお気持ちなんてどうでもいいのだ。強制力が働くだろう。この話が通ってしまったら、ユグム以上に、アリーシアは強制させられる。このことを彼女はどう思うだろうか。彼女の気持ちはどうなのだろうか。彼女が慕う男はいなかったか。これから自分たちは、今までと同じように接することができるのだろうか……。

「なるべく早く、結論を出すことにする」

 喉の奥に力を入れて、絞り出すようにユグムは返答した。

「承知いたしました」

 モゾマは立ち上がって、深く拝した。退出するらしく、ユグムは見送ろうと彼を追った。

 部屋から出る前に、モゾマは再びユグムに向き直った。

 まだ話すことが残っていたのだろうかとユグムは思ったが、モゾマは黙ってユグムをじっと見つめるまま動こうとしない。

 モゾマの視線が耐え難い。観察されているような気分だ。

 もう強がっていることがバレたのだろうか、頼りなさに失望されたのだろうか。

 ユグムは息が詰まりそうな気持ちになる。耐えられなくなって、ユグムは「まだ何か?」と尋ねた。

「いいえ、また何かお体に不調がございましたら、私めにお伝えください。早くに安寧が訪れることをお祈り申し上げます」

 モゾマは再びユグムに拝して、廊下に侍っていた医官らに念のためユグムを診察するようにと指示を出してから、長いローブをするすると引き摺らせ去っていった。

 ユグムは再び診察を受け、問題なしだと告げられてから、ようやく一人になることができたのだった。

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