第5話 ありのままの自分になって、楽になっちまえよ。

 明けて月曜日、運命の放課後が来た。


 翔は気合を入れるためにトイレで顔を洗った。そして急いで教室に戻った。


 月曜日は多くの運動部が休みを取り入れている。教室ではいくつかのグループが談笑していて、やれカラオケだタピオカだと盛り上がっていた。ぽぽも運動部の女子たちと何やら楽しげに話していて、高橋冬彦とは別行動をしていた。


 高橋は一人で帰宅準備をしていた。机から教科書やノートを取り出して通学リュックに押し込んでいる。


 翔は破裂しそうなほどに脈打つ胸を無視して、落ち着いている風を装って高橋に声をかけた。


「おい、高橋」


 高橋が振り向く。


 翔は左右に伊織と陽斗を控えさせた状態で、教室の後方、人の群れからは少し離れたところから高橋を手招いた。高橋が一瞬挙動不審になってきょろきょろとあたりを見回した。


「ちょっと来いよ」


 高橋が「なに」と言いながらおそるおそる近づいてくる。そんなにおびえることだろうか。いや、自分たちは三人ともスポーツ刈りで日焼けしたガタイのいい男だから、女の子ならもしかしたら怖いかもしれない。しかし翔たちに高橋を萎縮させる意図はない。むしろ逆だ。自分たちは彼を解放させるために今ここにいるのだ。


「話があるんだけど」

「何の?」

「人に聞かれたくないことかもしれないから、もうちょっとこっちに寄れ」


 三人で高橋を囲んだ。


 翔は覚悟を決めて口を開いた。


「オレ、見た」

「何を?」

「お前、ぽぽの家の近くのドラッグストアでぽぽと化粧品買ってたよな」


 高橋が眼鏡の向こうの目を丸くした。


「いや、悪いことじゃない。金は払ったんだろ」

「そうだけど……」

「オレら考えたんだけどよ」


 勇気を振り絞る。


「ありのままの自分になって、楽になっちまえよ」

「どういう意味?」

「お前、セクシャルマイノリティってやつなんだろ?」


 陽斗が加勢した。


「あんまり思い詰めるなよ。ぽぽちゃん以外にも受け入れてくれるやついるよ。オレらとかさ」


 伊織も口を開いた。


「オレらクラスメートじゃん。つまり友達だろ。差別とかしないから安心してくれよ」


 二人も言ってくれると、翔は楽になった。


「お前も今までつらい思いをしてたかもしれないけど、ぽぽを利用するのはちょっと違うと思うんだよな。ぽぽの優しさに甘えちゃだめだ。これからはみんなでお前のことを支えるから、ぽぽをカモフラージュに使うのはやめろよ」


 気がつくと周りに人が集まってきていた。クラスメートたちが「なになに?」「いじめ?」と言いながら覗き込んでくる。心外だ。自分たちは善意と良心と正義からこういう行動に出たのだ。


 そう思ったのに――高橋は拳を握り締めて震えていた。


「……高橋?」


 次の時だった。


 高橋の両腕が伸びてきた。


 あまりにも突然のことだったので、翔は対処できなかった。


 高橋の左手が翔の胸倉をつかんだ。

 高橋の右手が翔の左頬にめり込んだ。


 殴られた。


 びっくりした。


 翔が左によろけると、高橋はのしかかるようにして迫ってきた。机や椅子の上に翔の体が落ちていく。派手な音がした。


 女子たちの悲鳴が上がった。


 床に転がった翔の上に高橋は馬乗りになった。また拳を振りかぶる。喧嘩などしたことのない真面目なスポーツ少年の翔は恐怖を感じた。鍛えられた体躯は痛みを乗り越えられるが、これから何をされるのか、どうすべきかは思いつかない。


 二発目、三発目が打ち込まれた。


 怖い。


「冬くん!」


 ぽぽが駆け寄ってきた。泣きそうな声、泣きそうな顔をしている。


「冬くんどうしたの? やめてよ! カケルを離してよ!」

「殺してやる!」


 こんな悪意をぶつけられるのなど生まれて初めてだ。


 どうしよう。


 殺される。


 ようやく伊織や陽斗が間に入ってきてくれた。二人がかりで高橋を翔から引き剥がした。途中伊織や陽斗にも高橋の拳が振り下ろされたが、体格のいい二人が痛みを訴えることはなかった。そうこうしているうちに他の運動部男子も近づいてきて止めに入った。みんなで団子になって興奮している高橋を押さえつけた。


「何してるんだ!」


 男性教師の野太い声が響いた。生徒たちがさっと道を開けて彼を教室の中に通した。


「高橋くんが急に興奮して持田もちだくんを殴って」

「高橋と持田が喧嘩したのか」


 一部始終を見ていたらしいクラスメートの女子が代わりに話してくれる。


「いえ、持田くんは殴られているだけでした。なんでか高橋くんがすごく怒ってて」

「そうか。じゃ、まずは高橋から話を聞くか。持田、お前は保健室で待ってろ」


 運動部男子が束になって押さえつけていた高橋の腕を引っ張り、教師が教室から出ていった。


 二人の姿が消えると、クラスメートたちが一斉に翔のところへ押し寄せた。


「大丈夫? 血が出てるよ」


 翔は足が震えそうになるのを堪えて、極力平気そうな顔をしてみせた。


「ああ、なんともない」

「何を言ったの」


 ぽぽの声がしたので、彼女のほうを見た。目を真っ赤にして泣いていた。


「冬くんがあんなに怒るなんてありえない。カケル、変なこと言ったんでしょ」


 彼女の目から涙がこぼれ落ちて頬を濡らす。女の子の涙だ。大して可愛くはない。悲しいだけだ。


「変なことか」


 翔は善意のつもりだったのだ。


 しかし今この場で口にすることはできなかった。大勢の無関係なクラスメートたちも注目しているからだ。翔はここで高橋のセクシュアリティについて勝手に喋ってはいけないということはわかっていた。たくさん検索したから知っている。それをアウティングという。


「保健室行くわ」


 外から見てもわかるほど出血しているらしい。おそらく唇が切れているのだろう。口の中で血の味がするし頬はひりひりしている。何より静かなところに行きたかった。


「オレもついていく」

「オレも」


 伊織と陽斗が後をついてきた。ぽぽはそんな三人の後ろ姿をにらみつけたまま立ち尽くしていた。


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