第12話

 7月に入った。どちらかといえば北側の地域にいるものの、昼間は猛暑日になる日も少なくない。日本はもう、亜熱帯と名乗って良いのではないかと凛果は思っていた。


「日本はもう、亜熱帯って名乗って良いよね」


「えっ」


「どうしたの凛果、そんな鳩が豆鉄砲喰らったような顔して」


「私が今考えてたことを、一字一句同じまま、小夏が喋ったから」


「え、そうなの? やだぁ凛果、私達テレパシー使えるかもじゃん」


 同期でチームを組み、プレゼンを任され会議室を借りているのだが、雰囲気は学生のままだ。大学を卒業して、まだ4ヶ月。学生気分がまだ抜けないというか、抜きたくないというか、そんな気持ちであった。

 エアコンの温度をさらに下げたかったのだが、ビル全体で一括管理されているようで、28度より下にすることができない。特に柔道でインターハイ出場経験がある坂井圭太は、額の汗がこちらからもよく見えるくらいで、先ほど自販機で買ってきたスポーツドリンクをガブガブと飲んでいる。


 今凛果達のディスカッションをまとめてくれているのは、同期で最も優秀とされている、田口颯斗だ。彼はB級グルメ探索が好きで、休みの度に様々な都市へドライブに行っている。


「方向性としては、少し見えてきたかなって思う。今大きく二つの案が出たよね。一旦この二つそれぞれに合わせた資料を作ってみてもいい気がするんだ」


「確かに、いくつか作っておけば鋭く突っ込まれても何とか切り抜けられそう。さすが田口くん」


 小夏が颯斗に賛同したことで、みんなも賛同の雰囲気になる。凛果は小夏と、颯斗は圭太とペアを組んで一緒に資料を作ることになり、解散となった。


 ただ会議室を出た途端、血相を変えて走ってくる松井杏香と目が合う。


「先輩?」


「あぁ、内田さん! 探してたの! 内田さん、この前の取引先に渡した見積もり資料作ってくれたのよね?」


「はい、そうですが……」


「ごめんね、私も確認が甘かった。あれ、数字間違ってたの。発注する商品の数の記載が、本来600の部分が400になってて、今日届いた商品の数が違う! って先方の担当者さんがお怒りで……」


「えっ……! ごめんなさい! 200足りてないってことですよね、どうしましょう……」


「とにかく、まずは電話で謝っておいた。これから車で全部届ける手筈になったから、内田さんにも手伝って欲しいの」


「承知しました。本当に、ごめんなさい……」


 深く頭を下げる凛果の背中を、小夏がそっとさする。杏香は、「頭を上げて」と言った。


「私もこういう失敗、何度かしちゃったことあるの。だから萎縮しすぎないでね。とにかく今はやるべきことやって、誠心誠意謝ろう。で、終わったら美味しいものちょっと食べよう。ねっ」


「先輩……ありがとう、ございます……」


 凛果はデスクから自分の鞄をひったくり、商品の箱を抱えて杏香と共に駐車場へとダッシュした。トランクに荷物を全て入れ、杏香からキーを受け取った凛果は一つ深呼吸をして、エンジンを入れた。




 ◇




 不足していた商品とお詫びの品を渡したことで、何とか事態は収まった。杏香も何度も謝ってくれた。その上、「さっきの約束。反省は大事だけど、引きずりすぎないでね」とアイスまで奢ってくれた。彼女には何度お礼を言っても言い足りないだろう。


 車中で二人揃ってアイスを頬張ると、杏香は「はぁぁ生き返るぅぅ!」と笑った。


「本当に、ありがとうございました。……あと、ご馳走様です」


「いえいえ。それにしても、暑いね」


「小夏……宮崎さんも言ってました。日本はもう亜熱帯じゃないかって」


「ふふっ、そうねぇ。いっそのこと、髪切っちゃおうかなぁ」


「え、切っちゃうんですか」


 杏香といえば栗色の髪を低い位置でまとめたシニヨンで、それが変わってしまうことが、凛果には想像できなかった。きっとショートも似合うと思う。でも変わってしまうことが、少し寂しいと思うくらいには、この先輩を人として好きになっている。


「内田さん。私さ、一年以上髪切ってないの、実は」


「え?」


「前はポニーテールとかハーフアップとかしてたの。でもそれでも長さを持て余すくらいに、長くなっちゃって。長いとドライヤーもセットも大変だから、切った方が絶対にいいのに、なかなか切れなくてさ」


「なんで、ですか? 無理して答えなくても大丈夫ですけど……」


 杏香はアイスの最後の一口を頬張って少ししてから、話し始めた。


「元彼がさ、忘れられないんだよね。なんか髪を切ったら、あの時付き合ってた自分が自分じゃなくなる気がして、怖くて……」


 ドキッとした。その瞬間、アイスの冷たさが一層増して凛果の神経に届く。


「元彼さん、長くお付き合いしてたんですか」


「そうねぇ。三年くらい? 私もこの年だし、結婚は意識してて、匂わせることも言ってた。でもあっちはさ、結婚も子どもも望んでなかったの。だから私から振った。この三年は何だったのって思いながら振った。でもさ、嫌いになったわけじゃないんだよ。人生に対する価値観が違っただけで、嫌いになったわけじゃない。だからもらったプレゼントも捨てられない。この髪も切っちゃったら、あの頃の時間が嘘になっちゃいそうだって。でもそうやってウジウジしてたせいで、仕事で失敗が続いて、本社からこっちに来たのが半年ほど前」


「元々、本社に……」


「本当、情けないよね。元彼がいないと自分が成り立ってなかった。離れて行った瞬間、形をなくしていくの」


 凛果の膝にかけられていたハンカチの上に、溶けたアイスがぽたりと落ちた。



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