琴峰千早の距離が近い

錠月栞

第一話 桜の舞い散る裏庭

 熱気を帯びた夏の空気が肌を撫で、赤黒いものの混じった汗を流してゆく。どれだけ呼吸を繰り返しても、早まった心臓の鼓動と、荒い呼吸が落ち着くことはなかった。

 山の澄み切った空気と、木の葉が風に揺れる音だけが聞こえる森の静寂。時折聞こえてくる野鳥の鳴き声に気づくこともできずに。

 僕は広がった血だまりの中に座り込んで、目を見張って吐きそうなくらい吸って吐いてを繰り返し、目の前に立つ人物を凝視していた。

 血だまりを作ったのは、その男だが。血だまりの原因となっているのは、僕本人ではない。

 周囲に散乱する、クラスメイトだったもの。赤黒く生臭い、内臓の色と香り。人形のように切断され、無造作に投げ出された四肢や指先。

 僕の目の前には、一人の少年の首が転がっていた。彼は真っ先に殺されそうになった僕を庇ったことにより、目の前の男にバラバラに切り刻まれたのだ。少し離れたところにある肉塊が、彼の体だったものだ。首だけになった彼の顔は、向こうを向いていて見ることが出来ない。

「……ああ」

 血だまりと肉塊の花畑の中、麻痺した僕の目の前で、この惨状を生み出した男は片手に持った血まみれの鉈を下ろし、もう片方の手でくしゃくしゃになった髪の毛をぼりぼりと搔きむしる。

「我慢してたんだけどな、ずっと。このところ調子よかったんだけどな、ほんとに」

 言葉は後悔しているようだったが、声色は逆に楽しそうだった。もし僕の心が完全に死ぬ前だったら、きっと不気味に感じていたに違いない。

「仕方ない、仕方ないよ、運命なんだ、これは」

 口笛を吹き、鉈を持った男は振り向く。振り向いて、黒色のスクエア型フレームの眼鏡を掛けた、優しそうな顔いっぱいに楽しそうな笑みを浮かべ、一歩、一歩ずつ、動けない僕に近づいてくる。

「運命だから仕方ない。僕がこの学校に赴任したのも、僕が君たちのクラスを受け持つことになったのも、林間学校の行き先にこの山が選ばれたのも、全部、全部全部全部、運命なんだ」

 うっとりと。血まみれの手で自身の頬を撫でてから、恍惚とした表情はそのままに男は鉈を振り上げる。

 この半年間。担任教師として勉強を教わって来たこの男に、まさかこんな恐ろしく悍ましい裏の顔が隠されているとは思いもしなかった。男の擬態が巧妙だったと言えばそれまでだが、内に孕んだ狂気を、あの優しい態度で包み隠していたと思うと、吐き気がして気を失いそうになる。

 何で今まで誰も気づかなかったのか、違和感に気づいていたとしても見て見ぬ振りをしていたというのか。

 硬直した頭の中で、何とか思考を巡らせようとしても、もはやすべてが無意味だった。

「ああ、その顔。その顔いいね、最高だ」

 楽しそうに、嬉しそうに、愉快そうに、男は僕に向かって鉈を振り下ろす。衝撃と激痛。己の体を構成していたものが飛び散って、何か大切なものが失われ消えていくのが分かった。

 鉈は絶え間なく振り下ろされてゆき。絶え間なく聞こえる男の言葉も、次第に何を言っているのか分からなくなってきた。

「いいね、これでこそ、教師をやっていた甲斐がある……運命に乾杯!!!」

 確か、最後に聞こえたのがこれだ。以降は全部ぐちゃぐちゃになって、僕の体と頭もぐちゃぐちゃになって、ある時電源ボタンを長押ししたかのように、ブツンと視界が暗転し、消えてしまった。


 身の程知らずと分かっていても、応援してやりたくなる恋というものはある。

 そんなわけで、森弓也もりゆみなりは親友の上北沢友広かみきたざわともひろと共に、校舎の陰から下井戸恭二しもいどきょうじの一世一代の告白を見守っていた。

「絶対射止めろよ、恭二」

 校舎の陰でガッツポーズをする友広に、弓也は両手を頭の後ろに回して、呆れたように言った。

「いや、絶対無理だろ。いくら恭二でも今回ばかりは分が悪い」

「うるさい。俺が勝ったら、ステーキ串おごりだからな、くれぐれも約束破るなよ」

「はいはい、分かってるって」

 四月の桜咲き誇る校舎裏はロマンチックだが、雰囲気だけで告白をのませられるほど、恭二の想い人は優しくない。

 恭二は顔も頭も運動神経も比較的いい方だし、性格も気さくでいいやつだ。だがそれでも今回ばかりは、「足りない」と言えるのだ。

「確か一目惚れだったんだよな」

 緊張気味に咲き誇る桜を見上げる恭二を眺めながら、弓也は隣の友広に声をかけた。

「ああ。よりにもよって、あの琴峰千早ことみねちはやに一目惚れしちまうなんて、恭二も難儀なものだよな」

「人の恋路を悪く言うつもりはないが……一理ある」

 弓也が頷くと同時に、遠くで足音が聞こえてきて、件の彼女が桜の舞い散る裏庭にやってくるのが見えた。無視しないでやってくるところは彼女らしいが、無視された方がどんなに良かった、と後に思うというのが、玉砕した男たちの感想である。

「やあ、待たせてしまったかな」

 程よい長さのショートヘアーに、きっちりと着こなしたセーラー服と、その上に羽織った純白の白衣。健康的な色をした素肌に、やや凛々しさを感じさせる線の濃い顔立ち。

 恭二の前にやって来た彼女、琴峰千早は。片手を上げて、申し訳なさそうにそう言った。

「い、いえ。全然待ってませんでした」

「そうか。それならよかった」

 にっこりと、千早は笑って見せる。この笑顔に矜持を含めた一体何人の男がやられたことだろうか。

「それで、私に『どうしても伝えたいこと』が何なのか、教えてくれないかな」

「そ、それは……」

 普段は仲間の中で、一番男らしいところがある恭二が、この様である。どぎまぎとした様子で俯く恭二の顔を、千早は静かに覗き込んでくる。

「躊躇えば躊躇うほど、言いづらくなるぞ恭二……言え、ズバッと言ってしまえ」

 陰から応援とも野次ともつかない言葉を投げかける友広の隣で、弓也も二人の動向に注目する。勝ち目のない勝負だとは分かっているし、成功したら友広に1500円税別の特上ステーキ串を奢ることになるのだが、恭二の友として彼の恋路を応援してやりたいのだ。

(いけ、恭二……)

 心の中で応援しながら、弓也がぎゅっと拳を握りしめた時。恭二が勢いよく顔を上げて、目の前の千早を真っ直ぐ見つめた。

「あ、あの……」

「……」

 無言で恭二の言葉を待つ千早に対して、耳まで真っ赤になりながらも、恭二は己の想いを口にする。

「好き、です。よかったら俺と、俺と付き合ってくれませんかッ」

 勢いよく頭を下げ、恭二は片手を差し出す。これ以上千早のことを凝視していたら、恥ずかしさに耐えられないというように。

「よくやった、恭二ッ。あとは向こうの返答次第だが、果たして……」

 真剣な表情で見守る友広の横で、弓也はごくりと息をのむ。告白しているのは恭二なのに、なんだか自分まで緊張してきてしまった。

 数十秒間の沈黙。舞い散る桜の花びらが二人を包み、春の心地よい風と空気が、緊張感をゆるりと解きほぐしていった。

「……そうか」

 それが、琴峰千早から返って来た第一声だった。彼女は少し考え込んでから、頭を下げて手を差し出した姿勢で、硬直していた恭二に視線を戻す。

「顔を上げてくれないか、下井戸恭二くん」

「は、はい」

 恭二が慌てて顔を上げると、千早は至って真面目な顔をして、恭二に言った。

「もしよかったら、どうして私のことが好きになったのか、その理由を教えてくれないか」

「これは、脈ありなんじゃないか?」

 陰から覗き見る友広が、期待を込めた眼差しを送るものの。弓也としては、まだ分からないというか、割とその逆な予感がするというのが正直なところである。

「そ、それは……」

「それは?」

「ええと、一目惚れ、といいますか。理科室でたまたま見かけたあなたの姿に、ぐっときてしまったといいますか……」

「そうか」

 頷いてから、千早は少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「だったら申し訳ないが、私は君と付き合うことは出来ない。容姿に好意を抱くのなら、他に美しい女子生徒はたくさん存在する。何も私でなくともいいだろう」

 あまりにも鮮やかな一刀両断に、恭二はもちろん、陰から見ていた友広と弓也も言葉を喪う。噂には聞いていたが、実際に見るとやはり違うものだ。

 成績優秀・品行方正。容姿も十分整っていて、その上誰にでも分け隔てなく接するコミュニケーション能力の持ち主。

 それが樽見第二中学校二年A組所属の女子生徒、琴峰千早なのであり。彼女に魅了される生徒は、当然ながら男女ともに多数存在する。

 存在するのだが。普通に友人・知人として接するならいいのだが、彼女に「恋人になって欲しい」と告白した者は、例外なく玉砕して心に傷を負うことになるのだ。

 当事者たち曰く、「きつい言葉で断られた方がまだよかった」だの、「縋ったらとても悲しそうな顔で見つめられてしまった」だの、「想いを否定せず、かといって肯定もしない。一番しんどい断り方」だの、聞いているだけで恐ろしくなる噂の数々が語られてきた。

 それでも彼女に告白しようという生徒は後を絶たず、恭二もそのうちの一人だったわけなのだが……結果は見ての通りである。

「新たな恋を見つけてくれ、下井戸恭二くん」

 硬直したままの恭二の肩を叩いて、千早は背を向けて歩き出す。残された恭二は何とも言えない表情で、振られた彼女の背中を見つめていた。

「これが……これが噂に聞く、『初恋殺しファーストラヴ・キラー』か……」

「いや、聞いたことないけど。それよりも、友広」

「ん、なんだよ」

「ステーキ串、楽しみにしてるからな」

 賭けに負けた友広の肩を、弓也が叩いた時。立ち尽くしていた恭二が地面に膝をついて、慟哭を上げるのが見えた。

「どうする、励ましに行ってやるか」

「いや、逆効果だろう。そっとしておいてやろうぜ」

 花弁がびっしりと埋め尽くした、地面を殴りつける恭二に、弓也はそっと背を向ける。今の彼にどんな慰めの言葉をかけても、傷口に塩を塗ることになるだろう。

「そうだな……」

 友広も頷き、弓也と同じく恭二に背を向ける。

 ある程度時間が経って落ち着いたら、後でコーラでも飲みながら、あいつの悔しさをじっくりと聞いてやろう。それが、友人というものなのだから。

 だから今は、立ち去ろうとして、弓也は友広と共に歩き出したのだが。

「覗き見とは、感心しないな」

 校舎の陰から離れ、校庭に面した正面へと移動する直前。目の前からそんな声が聞こえてきて、弓也は思わず立ち止まった。

「琴峰、千早……」

 目の前に立っていたのは、他ならぬ琴峰千早だった。確か逆方向に歩いて行ったはずなのだが、どうして今、彼女が自分たちの目の前に現れるのだろう

「な、なんでお前がここに……」

 わざとらしく動揺して見せる友広に、千早は事もなげに言った。

「下井戸くんと話しているとき、君たちの視線を感じてね。気になったから、ぐるりと回り込んできたんだ」

「わざわざそんなこと……い、いや覗いてたんじゃなくて、これは親友の恋路を陰から応援していたんでしてね……」

 露骨な弁明を重ねる友広は無視して、弓也は目の前の千早を真っ直ぐ見つめる。せっかくいい機会なのだ、恭二の為にも、言っておきたいことがある。

「なあ、琴峰。たとえ一目惚れだとしても、恭二は他にいる可愛い子じゃなくてお前を、お前だから好きになったんだぜ」

 たとえ逆効果だとしても、千早が出来る限り恭二を傷つけないために、あの振り方をしたのは分かっている。千早に恭二に対する恋愛感情がないことも。

 だが勇気を出した親友の為に、これだけははっきりと言っておきたかったのだ。

「……」

 千早は一瞬目を見開いてから、やや目線を伏せる。

「……君に、それを言われるのか」

 小声で千早が何かを呟いたのが聞こえたが、弓也には何を言っているのかまでは聞こえなかった。

「ん、今、何か言ったか」

「……なんでもないさ。それよりも」

 顔を上げた千早は、弓也へと一歩踏み出し、顔を近づける。

「な……」

 距離の近さに、つい動揺してしまう弓也に対して。千早は至って真面目な声と顔で静かに告げた。

「彼の気持ちはちゃんとわかっているさ。でも分かったうえで、私には応えられないんだ」

「それは……」

「私にも私の、想い人がいるから……なんてね」

 少し笑って片目を瞑り、千早は弓也から離れると、立ち尽くす彼に対して背を向けた。

「それじゃ、部活があるから。また明日学校で会おう、弓也くん」

 足早に立ち去った千早の背中を、友広と共に呆然と見つめていたのだが。

「え……え?なに、あの態度。それになに、あの発言?お前琴峰千早と一体どういう関係なわけ?」

 衝撃から復帰した友広に、矢継ぎ早に聞かれて。やっと我に返った弓也は、慌てた様子で片手を振って見せる。

「い、いや、何もないから。強いて言えば小六の時クラスが一緒だったけど、大して親しくもなかったからな?」

「え、マジ?お前琴峰千早と幼馴染なの?マジで?」

「だから本当に、何もなかったって!」

 何もなかった、何もなかったはずなのだ。それなのに今の千早の態度は、単なる同学年の男子にするものにしては、明らかに距離が近すぎる……気がしないでもない。

 そして先程親友を振ったばかりの彼女に、距離を詰められてつい動揺してしまう、そんな自分がちょっぴり悔しかった。

「というかマジか、『なんてね』なんて言ってたけど、あれ絶対冗談じゃないぞ。大ニュースだぞ、これは」

「おい、あんまり噂広げるなよ……」

 鼻の穴を膨らませる友広を牽制しつつも、弓也は自分の中に、もやっとした気持ちが生まれていることに気が付いた。

 多分恭二を振ったばかりの癖に、自分を惑わすようなことをした千早が気に食わなかっただけだと思う。別に千早の想い人が気になるとか、何で自分との距離を詰めてきたのか知りたいだとか、思ってしまったわけじゃない。

「て、なんなんだ、俺は」

 思考を切り替えるように息を吐いて、弓也は友広に顔を向けた。この変な気持ちに真面目に向き合うより、スパッと切り替えてしまった方が建設的だろう。

「それより、ステーキ串食べに行こうぜ、早く」

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