「旦那、大変てぇへんだ……!」

 うたが大怪我をしたという伝吉の一報に、矢もたてもたまらず、仁助は飛び出した。

 そっちじゃなくて深萩神社にいると、後ろから伝吉が大声で叫ぶ。脇目も振らず、身体を反転させて、息が苦しくなっても仁助は足を止めなかった。

 神社に辿たどり着いたとき、町廻りで鍛えられた足は悲鳴を上げていた。悲鳴を前に、やっとのことで足を動かす仁助を、宿禰がうたの元へ案内した。

 波川屋でとてつもなく恐ろしい超自然現象を味わったうたは、現象が収まったとき、ひど火傷やけどを負ってしまった。火に近づいた覚えもなければ、火傷をしてしまう状況下ではなかったというに、右頬にはしっかりと痕が刻まれていたのだ。

 痛みはなく、突然に浮かび上がったと言って、誰が信じるだろうか。少なくともその場に居合わせた井楢屋香七郎と波川屋久兵衛は、信じざるを得ない。

 幽霊が見えてしまうということはあっても、自らの身体に影響を及ぼしたことは一度もなかった。

 火傷の痕は波川屋を離れても消えず、救いを求めてうたは香七郎とともに、深萩神社を訪れたのだ。

「うた……!」

 呼ばれて反射的に、振り向いてしまった。何度も呼ばれたことのある声で、その人が誰であるかを瞬時に感じた。だから、助けを求めたくて、無性に側にいてほしくて、身体は正直に彼の方を向く。けれど本心を断ち切り、うたは顔をらした。

 遅い。振り返ったときに、顔は見られてしまった……

 嗚咽おえつが込み上げたのは、傷痕ができてしまったことではなく、仁助に火傷の痕を見られたことが嫌だったからだ。

「誰が、こんなことを……」

「何もされていないんです……声が聞こえて、たくさんの……いつの間にか……」

 うたの言葉が要領を得ないのも、無理はない。

 仁助はまだ、ことの次第を詳細には把握していなかったとはいえ、一体誰が、と聞くよりも、同心の前に言わなければならない言葉があったのに。

 自分を責めて、後悔してばかりなのは、同心としても人としても未熟な証左なのだろう。

 いつまでうたを泣かせるつもりなのか。未熟な自分は、涙の止め方さえわからない。放っておけないと、いつも想っている。すべての感情のおもむくままに、うたの細い身体を背中から包み込んでいた。

「傷は痛くないか……?」

 仁助はゆっくりと、うたの返事を待った。傷痕のある顔を見られたくないという、うたの心情も知らぬまま、彼女の頬をそっとぜる。涙と冷たい頬に触れる指を、うたはからめ取った。

「……痛くない、です。私のこと、怖がりませんか……?」

「どうして……?」

「だって……」

 うたは絡めたまま、仁助の手を傷になぞらせる。やっと仁助は、うたの気持ちをみ取ることができた。

「どこに傷があろうが、うたはうただ。怖がる理由なんてねぇよ」

 慰めるときは、伝法な口調になるのが定石となっていた。仁助が同心を笠に着るのは、このときだけである。

 うたはくるりと向きを変えて、仁助に向き合った。と思えば、涙を拭いてぎゅっと抱きしめ返した。

「仁様、もう少しこうしていてください。落ち着いたら離します」

「え……!あ、存分に……むしろ……」

 仁助の心を知らず、罪なうたである。

 しまった。走り通しで来たから、汗臭いかもしれない。離れた方がいいか、いや、離すことなどできない。しかしうたは無防備だ。もしも他の男に同じようなことをされれば、このように甘えてしまうのだろうか。断じてそのようなことはあってはいけない。後でよく言い含めておこう。しかしそうしたならば、二度と自分に甘えてこなくなるのではないか。

 仁助にとって不幸なのは、あれこれ余計なことを考えて、うたの匂いを堪能たんのうしていないことだ。

「ここで違う世界に迷い込んだときも、仁様がいたから大丈夫になりました」

 そして今も、同じように仁助に慰められて、立ち直った。

「俺は皆が言う通りの、お気楽者だからな」

「そんなことはありません。とても、頼もしいです」

「俺の方が慰められるとは……」


「親分さん」

 ふすまに聞き耳を立てている伝吉に、宿禰が軽くたしなめる。

 隣の部屋には仁助とうたがいて、はじめは泣き声が聞こえていたが、どうやら落ち着いたようだ。

「何を話しているのかは聞こえませんが、きゃっきゃやり合っているようで。宿禰さんこそ、いつの間にこさえたんですか?」

 宿禰の膝の上には、幼い少年が収まっていた。深萩神社で見かけたことはなく、宿禰は妻帯していない。伝吉は冗談で言ったのである。

「そうでした。この子のことで、親分さんたちを訪ねようと思っておりましたのです」

 隣の部屋で話をしていた二人が戻ってきて、まず井楢屋香七郎がうたの顔にさらしを巻いてあげた。いくら本人に痛みも感じず、誰も嫌な顔をしないとはいえ、傷を見せることには抵抗がある。晒を巻けば重傷を負ったような装いになってしまったが、それほどまでの傷には違いないのだ。

 神官を呼んだ宿禰が、少年を別の部屋に連れて行かせた後で、うたと香七郎が波川屋での出来事をすべて話した。

「おそらく神子みこ様は、波川屋にいた霊の影響を受けてしまったのではないでしょうか」

 神子とは、うたを指している。深萩神社の儀式において神子に選ばれたうたは、それ以来、深萩神社の人間には神子様と変わらず呼び慕われていた。

「つまり、その霊の中には火傷を負ってしまった方がいて、同じ症状になってしまった……」

 許さないという数多あまたの声からして、波川屋にいる霊は一人だけではない。火傷を負った霊がいるとして、それが久兵衛の仕業によるものなのかは不明だが、確実に久兵衛によってむごい仕打ちを受けた霊が、一人いた。

「うたが蔵の中で見た男の霊は……」

 誰にやられたという、うたの問いに、男は旦那様と答えている。

「あの方は火傷をしてはいませんでした。それに、私が波川屋の主人に会う前に、成仏したと思います」

 蔵から出たいという男の願いを、うたは叶えていた。しかも、男は久兵衛に対する恨みよりも、暗い蔵の中から抜け出したいという思いが強かったように感じる。

「気になるのは、私は知人の霊しか見えないはずなのに、波川屋ではたくさんの霊が見えたことです」

 友人、家族の霊を見たことはあっても、会ったこともない人間の霊は見えたことがなかった。

 霊が見えるということは、本来、あの世に近い風景になるのではないかと、うたは波川屋にいたおぞまましい光景を見て、思うところだった。知人の霊しか見えなかったうたは、霊を見て、恐ろしいと感じたことがない。うたにとってはいい塩梅あんばいに、日常を過ごせていたのだ。

 だが、なぜ波川屋では、見えてしまったのだろうか……

「よほど思念の強い霊……それなら井楢屋さんたちにも見えていたはず……それとも、他の力が働いているのかもしれません」

「他の力……」

「確証はありませんが……」

 宮司だからといって、この世ならざる存在の定義までもはわからない。この世に存在する限り、知ることはできないのだろう。

「いずれにせよ、蔵に閉じ込められていた男、火傷を負った誰かも、久兵衛から惨い仕打ちを受けていたと考えられる」

「まったく、とんでもねぇ化けもんだ」

 事件の捜査をするうちに、久兵衛の本性が浮かび上がった同心と御用聞きは、忌々いまいましそうに吐き捨てた。

「波川屋さんがそんなことを……」

 久兵衛に対しては同じ商人であり、大店の主くらいの認識しかしていなかった香七郎は、衝撃を受けているようだ。

「どうもやぶをつついて、とんでもねぇもんが出てきたらしい」

 久兵衛を調べることで、次々と出てくる事実と疑念は、まさに悪の限りだった。

「……蔵にいた方が言っていました。女中たちが供物されるのが耐えられなかったと……まさか、何かの生贄いけにえにされていたのでは……」

 うたが神子を務めた深萩神社の儀式ではかつて、神子が生贄にされていたという過去があった。宿禰の前で悪いと思いながらも、想像してしまったことを口にする。

 しかし顔を見合わせている仁助と伝吉には、供物の本当の意味を理解してしまった。

 二人は順を追って、捜査で判明したことを説明した。

 波川屋の奉公人が次々と辞めていると、北町同心の及川貞之進から聞いた仁助は、伝吉と辞めてしまった元奉公人を訪ねてみることにした。波川屋には幽霊がいて、辞めたのもその理由によるものだということだったが、実際には、幽霊の気味悪さに辞めているのが半分、あとの半分は、心に深い傷を負った者たちであった。

 傷を負っているとはつゆ知らず、当時を尋ねれば取り乱す者、思い出したくなくて口をつぐむ者、中にはすでに自害してしまった者もいて、すべては女性である。二人は察しただけに過ぎなかったが、うたの話を聞いて、確信に変わったようだ。

「誰かの……なぐさみ者にさせられたんだ」

 仁助は供物という言葉を飲み込んだ。

 事実だとすれば、久兵衛の所業は人間だとは思えない。

「二年前に波川屋の手代が一人亡くなっていて、幽霊のうわさが出始めた時期と一致する……てことは、蔵の幽霊はその手代で、久兵衛の仕打ちをとがめたから蔵に閉じ込められた……」

「人を、何だと思っているんだ……」

「その誰かも、許されざる方に違いありません」

 紐解いた伝吉も、香七郎と宿禰も、静かな怒りをたたえてつぶやいた。

 供物、と表現したからには、久兵衛は女中をに捧げていたということだ。

 久兵衛とその誰かには、人をないがしろにできる術を持ち合わせていて、善も悪もないのだろうか……

「確証はないが、相手は老中かもしれない」

「今回ばかりは旦那の勘が当たらないでほしいぜ……聞いて驚くな、波川屋の後ろ盾になっている老中、海野うんの左衛門佐さえもんのすけの娘……っていっても養女みたいだが、その養女は西崎兵馬の許婚いいなずけなんだ」

「西崎様は、同心の……」

 稀代きたいの同心とうたわれている彼は、有能なのかもしれないが、どことなく冷たい印象の持ち主である。

 うたは以前に兵馬と会ったことがあり、彼のするどい目つきや尋問を思い出していた。

「失礼ですが、同心の方は老中のお子を妻にすることができるのでしょうか?」

 同心と老中では、同じ武士でも石高が格段に違うというものである。言わば身分違いもはなはだしい縁組に、香七郎が聞いた。

「あり得ない。たとえ西崎さんが与力になったとしても、老中の娘をめとるなど、夢のまた夢だ」

 そもそも同心、与力というのは世襲職である。

 仁助や兵馬の父が同心であったように、二人もまた同心職を継いでいる。兵馬は与力への昇進がささやかれるほど有能ということだが、老中の娘を妻に迎えることは万が一にもないはずだ。

 波川屋を調べる中に、後ろ盾になっていう老中の存在や、兵馬との繋がりが判明したのだが、どうも調べれば調べるほど、わからないことが増えるばかりである。手代が殺されたのであれば、それは別の事件であるし、いつ子が目撃した殺人事件の手がかりは、何一つつかめていない。

 もう一つ、深萩神社にも謎がひそんでいた。

「実は……」

 いつの間にか、あの子が私の隣に寝ていたのですと、宿禰が説明した。

  深萩神社にいた見慣れない少年の名は一太いったといい、一人で神社に、しかも寝ている宿禰の布団にもぐり込んでいた。

 今年で五つだという幼い少年は、二親の顔を知らない。知っているのは、母の名がおみのということ、母は一太が産まれてすぐに亡くなっているということだけだった。母方の親戚にあたる又良またよしという男と小梅村に住んでいるが、又良からは邪魔っけにされていて、一太が宿禰に語ったときは、はっきり「嫌い」と言っていたそうだ。

 ある日突然、一太は又良に連れられて江戸に出てきたという。もう数日前のことだ。波川屋という店に行くのだと又良が告げて、江戸で好きなものを買ってあげると、めずらしく優しくされたものだから、言われるままについてきたそうだ。

 二人は旅籠はたごに泊まっていたが、夕方に出かけた又良が夜になっても帰ってこない。その日は仕方なく一人で寝た一太は、早朝、不思議な存在に導かれて神社に連れていかれたのだった。

「こんなことになっているとは存じませんで、私は一太くんを連れて、波川屋に行こうとしたのです」

 一太が泊まっていた旅籠にも行ってみたが、又良はまだ帰ってきてはいなかった。事件が起きたことをまだ知らなかった宿禰は、目的地だという波川屋に行こうとしたのだが……

「深萩神社におわす神様が、波川屋に言ってはならぬと申されました」

 きっとみこ様のことだと、仁助とうたは思った。二人は深萩神社にいるみこという神の存在を見知っている。

「波川屋に関わっているとはな……」

 いつ子が目撃した事件、うたの身に起きた心霊騒動、一太という少年、どれもが波川屋と関係していた。

「又良という男、もしかしたら……」

 一太を波川屋に連れて行くと言っていた又良は、空き家で久兵衛に殺された男ではないだろうか。さらに宿禰から詳細を聞いたが、歳も同じくらいで、旅籠を出た日付も、一致している。

「掘り返して見せるわけには……」

「左様なこと、若子に決してさせてはなりません」

「へ、へい……」

 又良が殺された男と同一人物なのか、確実なのは、死体を掘り返して一太に確認してもらうことだが、宿禰は断固として反対する。いくら又良を嫌っていたとはいえ、ましてや殺された男が又良でなければ、一太の精神に傷を負わせてしまう恐れがある。伝吉にしろ、本気で言ったわけではない。

「あ!いい手がありますぜ」

 ひらめいた伝吉はびゅんと、風の如くその場を去っていった。

 災難に見舞われたうたは、心霊がらみということもあって、深萩神社に身を預けることにした。女の子なのに、このまま顔に傷が残ってしまったらと、しきりに気にかけてくれた香七郎も、神聖な神社にいるのが一番安全だと納得して、神社を後にする。

 うたの火傷の原因が霊によるものならば、原因たる霊を成仏させることができれば、傷痕も消えるはずだと、神道に通じている宿禰は、うたを安心させるように言った。

 宿禰は伊達に宮司をしているわけではないので、いわゆるおはらいで無理矢理に霊を祓うこともできるのだが、うたが固辞した。何度か霊と携わったことのあるうたは、霊に成仏してほしかったのだ。

 まったく気にしていないというわけではないが、仁助に慰められたいま、今は顔の傷痕を見ても平静でいられている。

「真っ先に深萩神社に来たのは正解だったな。心強い」

 うたは深萩神社の神子に選ばれたときに、この神社で生活を送ったこともある。宿禰の人柄も承知している仁助にとっても、うたが深萩神社にいてくれるのは、安心できるというものだ。

「波川屋にいた用心棒の方に、深萩神社に行くように助言していただいたんです」

「用心棒が……」

「はい。たしか、織本おりもとさんと……」

 部外者のうたに、蔵の鍵を貸してくれたのも織本であった。

 実は織本という浪人は久兵衛と通じていて、うたを危険な目に合わせた、ということも考えられるが、神社に行くように助言したとなれば、純粋にうたの手助けをしたということだろうか……だが、うたの傷を見て神社に行けと助言したことには、引っ掛かりを覚える。織本はうたが心霊現象に巻き込まれたのだと、瞬時に判断したことになる。今まで心霊がらみの事件に関わったことのある仁助やうたが思うならともかく、一体、織本という人物は何者なのだろうか……

 まさに複雑怪奇だ。

 一太が何者かから逃げるようにうたの元に駆け込んだのは、仁助が去ったあとのことである。

「おねぇちゃん!」

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