風にそよぐ雑草、仁助にはそれしか見えない。不忍池を指さす女の姿形も見えなければ、泣き声も聞こえない。

 霊を信じないとは、己の言の葉だ。

 自分には見えないから信じない。……その事実がまことであると思っていた。

「あんたは、おいねの友達なのか?」

 どうして否定的な態度をとらないのかと戸惑いながらも、まだ慎重に、うたは様子をうかがっている。

 本意を確かめるのが怖くて仁助のことを見れないとでもいうのか、誰もいない雑草へとうたは視線を移した。

「……わからない。…………でも私は、友達になりたかった」

 おいねの勤めている店の善哉ぜんざいが格別に美味しいとは、茶屋巡りをしていたうたの感想である。餡子あんこの甘さもちょうど好みの味で、何日も置かずに店に通えば、おいねとも顔見知りになった。

 分け隔てなく、おいねは他の人と同じように話してくれたことがうれしかったと、うたは語る。

 そんな当たり前のようなことをうれしく感じてしまうところに、やはり仁助は彼女の寂しさを垣間見た。

「はじめは上手く話せなかったけど、おいねちゃんはいつも優しくしてくれて……一緒にお花を見に行こうって言われたときは、おかしいけど泣きそうなくらいだった」

 その約束の日が昨日で、つまりおいねが失踪した翌日であった。

 おいねを迎えに店に行って、そこでうたはおいねの失踪を知り、方々を探し回った。そして不忍池に来たときに、おいねを見つけたのだという。

 まさか霊だとは思わなかった。だが、不忍池にいるおいねの様子はおかしい。何度話しかけても泣いているばかりで、たまらず触れようとしたら、その手はむなしくすり抜けてしまった。

「子どものころから霊が見えたんです。おいねちゃんはもう、私にしか見えないんだってわかってしまった」

「おいねは殺されたのか?」

 うたはそれもわからないと、首を振った。

「必死に不忍池を指さしているだけで……」

 確証はなかったけれど、もしかしたらおいねは自分を探してほしくて訴えているのだと思い、投げ文をしたのだと、あとの言葉を聞かずとも仁助は理解した。

 不忍池でうたと会ったとき、あれは独り言ではなく、おいねに語りかけていたのだ。

 そこまで考えて、仁助は内心苦笑する。霊を信じないときっぱり断言していた自分が、うたは嘘を吐いていないという勘だけで、あっさりと受け入れてしまっているからだ。

 しかし、仁助には霊なるものは見えない。だから霊の存在を肯定したというよりは、おいねの無念がうたには見えるのだと解釈している。

 おいねの死体があると、堂々と仁助に伝えるなり番屋に行くなりすれば、なぜ知っているのだと問われることは必定である。私には霊が見える、その霊が教えてくれたとはとても言えない。でもおいねを早く見つけてあげたいという心が、投げ文をするにいたった。

 投げ文にしろ、勇気のいる行為だったはずだ。しかも仁助に霊が見えると打ち明けたことも、さらに勇気が必要だったに違いない。霊が見えるという少女を叱りもせずに鵜呑うのみにしてしまう同心は、おそらく仁助一人だ。ただしうたは、仁助がお気楽者と陰口を言われていることは知らない。叱られることは承知のうえで、でも他に手立てはなかったから、ここで仁助が来るのを待っていたのだ。

 友達だと即答できないくらいの関係で終わってしまっても、うたはおいねを救おうとしている。

(まさか……)

 仁助は懐に入れたままであった簪を取り出した。

 簪は、昨日ここで拾ったものである。不忍池においねの死体があるとすれば、簪がおいねの物であっても不思議ではない。それともうたが落とした物なのか。仁助の声に出していない問いに、うたが振り向き答えた。

「それ、おいねちゃんの……」

「嘘から出たまことの方だったか」

 番屋で叱られていたうたを助けるために吐いた咄嗟とっさの嘘が真実であったことに、うたに霊が見えると打ち明けられたときよりも、驚いてしまった。

「好きた人からもらったって、うれしそうに見せてくれたことがあるので覚えています。今度の約束の日に、その人について教えてくれるって言ってたのに……」

 叶うなら、約束を果たしたい。でもうたは、その願いが叶わないことを自らの能力で知っている。

「ごめんなさい。私をかばってくれたから、貴方が叱られてしまって……」

「気にするな。あの人は怒るのが趣味なんだ」

 今さら吹田に怒鳴られたくらいで、もう慣れている。

 だが、またすぐに叱られることになるだろうと、仁助は予見した。吹田に許してもらえなかったおいねの死体捜索をすると決めたからである。

「ともかく、おいねの死体があるかもしれないとわかった以上、捜してみるしかない。あとで報告するから、あんたは家に帰れ。家の人も心配して……」

 いけないことを言ってしまったと思った。どこかいびつだった家族は、娘のことを本当に心配しているのか。そんな考えは杞憂きゆうであってほしいが、うたの表情には影が差している。

「私は……」

 うたはそれ以上を言わなかった。


「責任も人足代も俺がもつ。くまなく探してくれ」

という仁助の宣言のもと、不忍池でおいねの捜索が始まった。

 そして一刻ほどして、冷たくなったおいねの死体が発見された。

 首にはくっきりと指の跡がついていて、恋をしていた少女の顔は苦悶くもんに歪んでいる。水は多くを飲んでいない。つまり、絞殺死体であった。

 しかも爪の間には凝固した血痕がはさまっている。おいねの首には、首を絞められたときに抵抗して引っかいた傷はないので、でなければ犯人に対抗したときのものに違いない。とすれば、犯人はどこかしらに傷を負っているはずだ。有力な手がかりの一つだが、傷がふさがってしまえばそれまでである。

 今頃、娘の死体が見つかったという悲報を聞いているであろう家族のために、そして何よりもおいねのために無念を早く晴らしてあげたいが、犯人は誰か、まったとくいってわからない。わかっているのは、おいねには好いた男がいたというだけで、その男が犯人かどうかも判断がつかなかった。ただし犯人ではなくても手がかりになるかもしれないと、仁助は伝吉にあることを頼んでいた。

 おいねがもらったという簪をたどれば、贈り主がわかるかもしれないと、近くの小間物屋を探るように伝吉を走らせているのであるが……

「おいね……!」

 家族よりも先に、おいねの死体にすがって泣いた男がいた。

「お前は……」


 部屋には無数の折り鶴が散らばっている。そのすべてはおいねの供養のために折ったもので、一心に、おいねがくれた優しさに感謝をして、一羽一羽を丁寧にうたは折り続けている。

 昔から、折り紙ばかりで遊んでいた。

 あるときから外には出してもらえなくなったので、家の中で一人遊ぶには、折り紙が適当だった。言えば好きなだけ折り紙は用意してくれたし、大人しくしていればうとまれることもない。病気で外に出られない子どもを演じていた。

 幼いころは、家族に捨てられたくないという思いで必死だった。窮屈な生活を我慢して、ひたすら大人しくしていた。だけど成長するにつれて、外の世界にあこがれた。

 同じ年頃の娘は、病気でもなければ家に閉じこもった生活をしていない。忙しくて、楽しくて、辛いこともあって、人並みに目まぐるしい日々を送りたかった。

 こっそりと家を抜け出すようになって、両親たちは気づいていたのだろうか。少しでも可哀そうと思ってくれて、見逃してくれていたのか。それとも、もう興味がなくて、知りもしなかったのだろうか。前者だったらいいと思いつつ、外に出たうたは茶屋巡りを始めた。もともと甘い物が好きで、だったら自分で美味しい店を見つけようと探しているうちに、おいねと出会った。

 同年代の友達も、知り合いすら一人もいなかったから、戸惑った態度をとってしまいおいねを困らせていたのだろう。恋する気持ちもまだ理解できていないというのに、いや、できていないから、好きな人がいると言ったときのおいねがまぶしくて、うらやましかった。

 側で笑ってくれたおいねに顔が赤くなったのは、きっと恋ではなくて、おいねが友達だったらと想像してしまったからだ。

「うた」

 降ってきた声に、うたはびくりと顔を見上げる。彼がここに来ることは知っていたはずなのに、どうしてここにと尋ねてしまったのは、それほど動揺してしまったからだ。

 仁助も伊達に同心をやっていないので、うたの気持ちを読み取って答える。

「何度か声をかけたが集中していたようでな。家人に見られたらまずいだろう、中に入れてくれ」

 裏木戸から声をかけると打ち合わせていて、だからうたは部屋の障子戸を開け放って裏木戸が見える位置に陣取っていたのに、仁助が来たことに気づかないほど折り紙に夢中になっていたようだ。

 うたは申しわけなさと恥ずかしさで、仁助を部屋に招じ入れる。次いで自身の座っていた座布団を仁助に差し出して、彼は二刀を置いた。

 仁助の言葉で、瞬時にうたは冷静になる。

「おいねの死体が見つかった」

 うれしいのとは違う、複雑な胸中で事実をうたは噛みしめる。仁助も次の言葉を考えて、近くに散乱している折り鶴の一つを手に取り、やがてつぶやいた。

「誰かに首を絞められて、池に沈められたらしい」

 うたは自身の首を触って、想像もできないおいねの苦しみに目を伏せた。

「それと、おいねの好い男がわかったぞ」

 おいねの死体に縋って泣いていた男が、そうであった。

 乾物問屋の手代で、いつものように仕事の暇を見つけておいねに会いに行けば、今日になっておいねが行方不明になっていることを知り、しかも不忍池で死体を捜索していると聞いて、飛んできたわけである。泣く泣く男は仁助に事情を訴えて、事件は振り出しに戻ってしまった。

 仁助は丁寧に、うたに説明した。

「浅戸屋の直次なおじさん……」

 それが男の名前であった。

「何度もおいねの名前を呼んで、泣いていたよ……」

 直次の慟哭どうこくは、今も耳に残って離れない。直次だけではない、おいねの両親も弟も、無惨な死体を目にして、受け入れられなくて、家を出たときのおいねは帰ってこなくて、残された者たちは涙を流すことしかできなかった。

 同心なれば、これからも同じような光景を目の当たりにする定めである。だからこそ、死者の無念は晴らさなければならないのだ。

「伝吉には無駄足をさせてしまったな……」

 おいねの男について探索を命じていたが、直次が見つかった以上、余計な手間を与えてしまったことになる。現在も探索中の伝吉がどこにいるのかはわからないので、早く伝えてあげたくとも、どうしようもなかった。

 簪は直次に返してあげた方がいいのかとも思ったが、その簪は伝吉が持っている。つくづく持ち主にも贈り主にも返らない簪だった。

 そのあと、仁助はそそくさと部屋を後にして、うたは裏木戸まで見送った。仁助の姿が見えなくなっても、しばらくその場から動けなかったのは、自身を巡る様々な思いにとらわれてしまったからである。

 おいねの死体が見つかったと聞いても、涙は出なかった。そもそもおいねの霊を見たとき、すでにこの世にはいないとわかったはずなのに、涙腺は緩まなかった。きっと仁助には、冷たい人間だと思われている。表情にこそ出さないが、霊が見える気味が悪い人間だとも。

「やっぱりあの子は取り替えられたんだ……」

 昨夜、番屋から帰ってきたあとで、母はそう言って泣いていた。今日になってもまだ寝込んでいる。

 こういうとき、うたは自分が何者なのかがわからなくなる。私は私だと断定できないほど、自分は確たる存在ではない。

 母を泣かせ、家族の中に不和をもたらし、親しくしてくれたおいねは死んでしまった。

(私は、周りの人間を不幸にする……)

 もしも本当にそうだとすれば、ずっと家に籠っていた方がいいのかもしれない。他人に迷惑をかけるよりも、虚しくなる気持ちに耐えるべきか。

 でも……せめておいねは救ってあげたい。手を伸ばして見せたところで、何ができるのか。答えも見出せないまま裏木戸を開けようとしたところで、うたは呼び止められた。

「何をしている」

 身体が委縮するような聞き慣れた声は、兄兎之介うのすけのものである。

 兄は怖い……けれど兄もまた、妹を恐れている。

 兎之介の視線を恐れて、うたは振り向けなかった。

「また出かけようとしてたな。大人しくしていた方が身のためだぞ。座敷牢に入れようかって、親父たちが話してたぜ」

 座敷牢、その言葉で振り向いたとき、兎之介はすでに背を向けていた。

 うたの伸ばした手は降下して、その手は再び折り鶴作りに精を出す。日没も夜明けも、すべては外の世界の話だ。


 夜半よわ、八丁堀の屋台で肩を並べているのは、仁助と伝吉である。

「こんな刻限まですまなかったな」

「どうってことねぇです。あ、でも、もう一本くれたら明日も旦那のお役に立てますよ」

 一本目の半分を飲み干している伝吉が調子よく言う。今日一日、無意味に走りまわしてしまった負い目があるので、仁助は断らなかった。そして一応の報告を聞いた。

 まず伝吉は、おいねの住まいや上野周辺の小間物屋をしらみつぶしにあたり、おいねの簪を売っていなかったかを尋ね回ったのだが……

「湯島天神の近くにある駒木屋ってとこの主人が言うには、これは飾り職人の金太が作ったものに間違いねぇって話で」

 飾り職人のくせを、自分の店で仕入れている物ならなおさらわかると、主人は断言した。

「ただ、この簪は店で売ったことがねぇ。でも金太が作った物だって言うんです」

 金太が作る簪は駒木屋でしか仕入れをしていないそうだ。

 簪は直次がおいねに送った物である。簪が店で売っていなかったとすれば、直次は直接、金太という飾り職人に依頼して作ってもらったのだろうか。そう考えるのが妥当で、伝吉も同じことを考えているようだ。

(何か、すっきりしない……)

 根拠はなかったが、仁助の頭の中では一本の線に繋がらなかった。釈然としなければ直次に尋ねてみればよい。しかし仁助は……

「金太はどこに住んでいる?」

「上野広小路あたりにいるって聞いてます」

「悪いが二本目は今度だ」

 伝吉にはそれだけで、仁助の意図が読めた。

「旦那の感は意外と当たりますからね」

「意外とは余計だ」

「あの娘の言うことを信じたのも勘ですか?でなきゃ、霊なんか信じねぇって豪語してた旦那が……」

「待て、なぜお前が……」

 うたに霊視の能力があること、おいねの霊が見えて投げ文をしたことも、伝吉には教えていなかった。うたが自身の能力について打ち明けたときも伝吉を遠ざけていて、それはひとえにうたへの配慮のためである。

 霊が見えるという特殊な能力を他人に知られたくはない。能力を持つ全員がそうというわけではないだろうが、うたは知られたくないという気持ちが強いから、投げ文をしたのだ。私には霊視の能力があると打ち明けられて、必ずしも皆が仁助のように受け入れるわけでもない。だから伝吉にも教えず、一人胸の内にとどめておこうとしていたはずなのだが……

「いや、あの娘が自分から教えてくれたんですよ。旦那の相棒に隠したくはなかったって」

「そうか」

 心の底からおいねを救ってあげたいという、うたの気持ちに、仁助が穏やかに笑ったのを伝吉は見逃さなかった。

「もしかして、単に旦那の好みだったから信じてあげようって気になったんで?」

 明日は遅れるなよと言って腰を上げたときに、伝吉のにやけた顔が見えてしまった。

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