第一章 ホムスビの娘【3】

 身体中を清潔な布に巻かれた少女は痛々しくしとねに横たわっている。ときどき、苦しそうな呼吸をする以外は安定しているように見えた。命に別状はないが、安静にせよと医師から見立てられている。

「……まだ目覚めませんのね」

 ため息をついてクスがそう言い、少女の額に優しく触れた。あれから少女は滾々と眠り続け、そろそろ日が沈む頃合いだ。

「また火傷の痕が残ってしまうのでしょうか?」

 ナツハナも心配で仕方がなく、少女の顔を覗き込む。このまま二度と目覚めなかったら、と危惧してしまうのだ。あんなに綺麗な夏の緑をたたえた瞳がもう開かないなど、考えたくはない。怨霊は怖くないが、少女が目覚めないのはとても怖い。まだ名前も年齢もきいていないし、どんな食べ物が好きかも知らないのだ。あるいはオジカなら名前ぐらい知っていそうだが、いくら父親の上官であった男でも皇子の腹心である。たやすく会える人物ではない。

「多少は仕方がないでしょうね……婚姻前の若い乙女なのに、気の毒だわ」

「こっ!」

 婚姻と言われて、ナツハナは慌ててクスの方を向いた。十三歳のナツハナには思いもよらぬことだったからだ。

「あら、この子はたぶん適齢期よ。十五、六ではないかしら。お顔立ちは凛々しくて素敵だし、首長の娘子ですもの。未婚を貫く女王候補とは言え、許婚殿がいるのかもしれなくてよ」

「……そう、ですよね」

 この少女は姫君なのだから、許嫁がいてもおかしくはない。ナツハナはわけもわからず、大変うなだれた。そしてこの少女の夫になる人物などあまり想像ができない、絶対に誰もふさわしくないと勝手に憤る。そうは言っても、少女が婚礼の衣装をまとった姿は見てみたいと思ってしまうのだった。

「がっかりしないで。わたくしの想像よ」

「がっかりなんか! いえ、その……」

「ナツハナや、もしかして初恋かしら」とクスは面白そうに笑うので、ナツハナは顔を真っ赤にさせてうろたえた。急に恥ずかしくなり、そろそろと少女から離れる。

「……恋というものは、どのような感情ですか?」

 おのれが抱くはじめての感情を初恋と揶揄され、ナツハナはやけになってたずねた。あるいは恋だとして、そうだと肯定できるほど経験もない。

「わたくし、生まれてこの方、一度も誰かに恋したことはございませんのよ。しいて言うなら、陰陽道に恋しているわ。たずねる相手が間違っていてよ。イヨ殿あたりにきいてごらんなさい」

 さすがだ、とナツハナは呆気に取られてクスを見つめる。きっとあまたの男たちから求婚されるだろう容姿であるのに、クスの性格はきっぱりはっきりとしている。生成色の肌はなめらかで傷ひとつないし、白磁色の髪の繊細なことと言ったら、宮中を探しても同じ髪を持つ者がいない。クスの美しさは、鈴の宮でも墨の宮でも有名なのだ。よく浮き名を流す貴族たちから声がかかることもあるが、クスは徹底して断っていた。

 未婚であることを求められる星の巫女たちは貞節が絶対条件だが、例外も多々ある。一定の期間を勤め上げて巫女の任を降り、結婚していく者たちもあった。貴族同様の教養と礼節を身に付けた巫女たちは、結婚相手としても人気が高いのだ。玉の宮付きの童郎わらしろのように、娘を嫁入り前の花嫁修業として巫女にする家も一定多数いるのが実情であった。

「でもそうねえ、後先考えず身体が動いてしまうほど、相手を思えることができたら……それはもう恋ですわ。ねえ、ナツハナ?」

 首を傾げてクスがからかうので、ナツハナはむすっとしながら言う。

「からかわないできいてくれますか? ──僕、はじめて会った時から、ずっとそばにいたいと思ったんです。名前さえ知らないのに。今もこうして近くにいると、すごく落ち着きます。僕の手足の先から、この子に何か流れているような……そんな気がして」

 じっと少女を見つめた後、ナツハナはゆっくりとおのれの手のひらに目をやった。

「……それは、何が流れているのかしら?」

「わかりません……何かです」

 目に見えぬので説明しようもなかったが、あきらかに自分と少女の間には何かが流れているのだ。あるいは蓋をされたものをこじ開けられるような、そんな感覚を覚える。

「おそらく五行相剋ごぎょうそうこく水剋火すいこくかと考えれば、合点がいきます。この子は人より火の気がとても強いのです。つまり五行が安定していないのね。あなたが強い水の気を持つ者なら、この子の強すぎる火の気を抑えることであなたも安定している……そういうことかしら。でも、あなたに強い水の気は感じませんし」

 ナツハナも首をかしげる。何か特別な生まれでもない限り、人の五行はある程度まで安定しているものだ。生まれ年と日によって多少の差はあるが、生きる上で支障はない。

 人は「木、火、土、金、水」という万物を構成する五大元素を身体に持ち、それぞれ木は燃えて火を生じ、火は燃えて灰が土となり、土は金を生み、金は表面に水を宿し、水は木を育てる。これを陽の作用、五行相生ごぎょうあいしょうという。

 対して五行相剋ごぎょうそうこくとは陰の作用で、相手を打ち消すことをいう。すなわち、木は土から養分を取り、土は水を汚し、火は金を溶かし、水は火を消し、金で出来た刃物は木を切り倒すのだ。

 互いに生む「相生あいしょう」と互いに抑える「相剋そうこく」が働くからこそ、正しい状態での五行の関係が成り立っている。水剋火すいこくかとは水の作用で火をおさえることをいう。

「僕は普通の人間ですから、この子みたいに苦労したこともないし」

「ただ好きだから、そばにいたいのかもしれなくてよ」

 図星につかれてナツハナはふたたびクスを勢いよく見た。クスはおかしそうにひとしきり笑うと、ゆっくりと立ち上がる。

「あなたの夕餉を持ってきてあげましょう。お行儀は悪いけれど、ここで食べなさい。守っておあげと言ったのはわたくしですしね。ただし、眠るのは別になさい」

「わ、わかってます!」

 軽やかに去ったクスを見送り、少女と二人きりになったナツハナは落ち着かない様子でもぞもぞとした後、勇気を出して少女の手を取った。

 手に巻かれた布からは強い薬草の匂いがし、少しばかり血が滲んでいる。ときどき薬を塗り直して、布を交換しなければならないが、その役目は誰か他の巫女がよいだろうと思う。クスが言うように少女は婚姻前の娘だ。いくらナツハナが成人前だと言っても、男は男であることだし、おいそれと触れてよいわけがない。

 しかし、今は誰も咎めないだろうと気が大きくなっていた。少女の柔らかな手を握り、目をつむる。早く目覚めて、と心のなかで投げかけ、少女が目覚めた後の宮中を思った。少女は交渉の道具として連れてこられたというが、回復をしたら大王の前に差し出されるのだろうか。ナツハナでさえ大王の好色ぶりは知っている。その様子を想像し、どうしても許せないと思った。

 あるいはホムスビの力を利用され、無理やり鉱脈を探させるのだろうか。それも許せない。森の中で快活に生きる牝鹿のように、少女は誇り高く生きてほしいのだ

「……僕が守るよ」

 ナツハナは決意を口にし、今度は両手で少女の手の平を包んだ。触れた先から、やはり何かが少女へ流れている。少女の力を安定させることができているのだろうか、それが勘違いでないといいのに。

 しばらくそうしていると、少女がかすかに呻いて動いた気がした。

「………っ!」

 少女のまぶたが痙攣し、やがてじわじわと開く。萌葱色の瞳が宙をさまよい、ナツハナを射止めた。

「目覚めたの!」

 手を握ったままナツハナは少女に投げかける。少女は焦点の合わない目でナツハナを見つめ、小さく「ここは?」とたずねた。

「星の巫女たちが住まう玉の宮だよ。成人した男はオグト皇子でさえここに入ってこられないんだ。クス殿がモモソ様に交渉して、君を匿うことにして……だから、だから、もう大丈夫だよ!」

 目覚めたばかりの少女に、ナツハナは一気にまくし立てる。とにかく少女に安心をしてほしかったのだ。少女は聞いているのかいないのか、ゆっくりまばたきをして、握られている手をじっと見た。

「……お前が手当を?」

「あ、その、ごめん! これは医師殿が手当をしてくれて。僕はそばにいただけ」

 慌てて手を離し、ナツハナは冷や汗をかきながら言った。ずっと手を握っていたことを知られて、穴があったら入りたい心持ちである。少女はそんなナツハナの心情を汲み取る気力もないようで、かすれた声でそっとつぶやく。

「────わたしは助かったのか。もう死んだかと思った」

「うん、オジカ殿がここまで連れて来てくれたんだよ。しっかり休んで、怪我を治してね。きっとクス殿とモモソ様が故郷に帰してくれるから」

 少女は天井を見つめると、目を閉じる。まだ目覚めたばかりで、喋るのもつらそうだったが、ナツハナはどうしてもききたいことがあった。

「僕はナツハナっていうんだ。君の名前は?」

「……アヤだ」

 念願かなって名前をきいたナツハナは、小さく「アヤだね」とつぶやく。しなやかな草木のようで、芯の強い少女にぴったりの名前だった。ナツハナは嬉しさで何度もまばたきをし、立ち上がる。

「まだ寝ていて。クス殿に粥と薬湯を持ってきてもらうようにお願いしてくる!」

 アヤを守るという大役を仰せつかったのだ。傷を癒して、早く元気になってもらいたい。もっと喋れるようになれば、話したいこともたくさんある。脱兎のごとく駆け出すナツハナを、アヤは呆然と見つめるしか出来ないのだった。




「ナツハナや、そんなに見つめてはアヤ姫が粥を食べられませんよ」

「……ごめんなさい!」

 ナツハナはクスが持ってきてくれた夕餉を食べることも忘れ、粥の入った木の碗を持つアヤを凝視していた。ほぼ重湯である粥だが、喉に詰まってはと大事だと心配になったのだ。

「まったく、しょうのない子だこと。アヤ姫、ナツハナはこの通りあなたのことがとても心配なのです。勘弁してくださいね」

「いや、かまわない」

 アヤは少しだけ口の端を上げて笑い、木のさじでゆっくり粥を口に含んで、満足そうに飲み込んだ。ほっとした様子で「おいしい」とつぶやく。

「……まともに食べ物を口にしたのは一週間ぶりだ。八又門やまとから連れて来られてから、ほぼ休めなかったから。それに餓死をしてやろうと思って、飲まず食わずでいたんだ。あのオジカという武人が強引に水を詰め込んで来て、すべて吐き出していた」

 視線を落としたアヤをクスは苦々しい表情で見つめる。それに気付いたアヤは「すまない、あなた達には感謝している」と苦笑した。

「まずは歩けるようになるまで、何も考えずにお休みなさい。けして悪いようにはいたしません」

「……歩けるようになったら、わたしは大王に召し出されるのか」

「そうならぬように、あるいはそうなったとしても、玉の宮が守ります。あなたは稀なるホムスビなのです。女神カグチの娘であり、人が支配することなどおこがましい。かならずカグチと朱雀の元へ、ひいては赤の国へ帰しましょう。これはわたくしだけではなく、玉響たまゆらの乙女の願いでもあるのですよ」

 クスの言葉に耳を傾け、アヤは悲しげに言った。

「……ホムスビとして生まれて、カグチの恩恵を受けたと思ったことは一度もない。人より鼻は効くが、八又門やまとに鉱脈はなかったから役にも立たなかった。父や兄、それに民たちはわたしを神懐姫かむなつひめと呼んでくれたけれど、扱いづらいだけだ。星の巫女のあなたなら知っているだろう、ホムスビはおのれの力を制御できず、十五歳をむかえる前に死んでしまう。わたしは今年数えで十六歳になる。生きているのが不思議なくらいなんだ。あと一度でも身体中が燃えたら、とうとう耐えきれずに死ぬだろう」

 アヤは本来は物静かな少女らしく、芯の通った声で喋る。

「……そんなこと言わないで!」

 たまらず、ナツハナは言葉を遮った。

「だが、事実だ」

 残酷な追い打ちにナツハナの顔はぐしゃりと歪む。初めて出会った時、鮮烈だと思った萌葱の瞳が、凪いだ草原のように静かだ。そんな悲しいことを言わないでほしくて、ナツハナはアヤに近づこうとした。

「ナツハナ、おやめ」

 クスがナツハナの肩を掴んで制す。ナツハナは下を向いて、ぐっと耐えた。

「────僕、そんなの嫌だ!」

 無性に泣きたくなり、ナツハナはまぶたをこする。せっかく名前を教えてもらって、言葉を交わせるようになった。元気になるまで守ると、クスと約束をしたのだ。何もできないであろう自分にも腹が立ったし、アヤに傷つくことを肯定してほしくはなかった。生きていてここまで激しい感情を抱いたことがないナツハナは唇を強く噛む。

 父親を亡くした時はひたすら寂しく悲しい気持ちだったが、今はとても憤っていて、ナツハナ自身が戸惑っている。

「……僕、嫌だから!」

 すわと立ち上がると、「アヤは絶対に生きて! 僕が守る!」と叫ぶ。

「あらまぁ、ナツハナ……」と驚くクスと、瞳をぱちくりとさせるアヤにかまわず、ナツハナは「すもも、食べるよね! 取ってくる!」と部屋から走って出て行った。

 ナツハナが嵐のように去った後、クスはたいそう驚きながらナツハナの駆け出す足音を聞いた。控えめで賢い少年を、ここまで変えられる恋とはおもしろいものだと思う。

「……あの子は普段、ああではありませんのよ。名誉のために申しますけど、出来すぎなくらいよ」

 申し訳なさそうにふるまいながら、口の端が上がってしまうのをこらえて、クスは愉快でならない。なんとかわいいのだろう。

「あ、ああ」とアヤもしばらくを遣戸やりどを見つめて、戸惑ったように頷いた。

「あなたが気絶をした後、オグト皇子から身を挺してかばったのはナツハナなのです。あの子の気持ちもわかってあげて。さあ、粥を食べたら薬湯をお飲みなさい。少し苦いけれど、ナツハナがすももを持って来てくれますからね」

 クスは小さな茶器に入った白く濁る薬湯をアヤに手渡す。医師から言付けのあった薬草と、安眠作用のある薬草を煎じたのだ。幼い頃から父たちの手伝いをして来たクスにとって、慣れたことだった。アヤは苦い薬ときいて多少嫌そうにしたが、素直に勢いよくあおる。存外に聞き分けの良い少女のようだ。

「……本当に苦いな」

「嘘をついてどうしますか。でもきっとよく眠れるはずですよ」

「────悪夢も見ずに?」

「ええ、ぐっすり眠れます。怖い夢が心配でしたら、わたくしが控えておりましょうか。悪夢よけの霊符を書いて差し上げることできますよ」

 アヤはわずかに首を横にふると、「クス殿を信じよう」と言った。

「ナツハナという子、なぜあそこまで怒ったのだろう?」

「あら、鈍いのですね!」

「何が鈍い?」と眉を寄せて不思議そうにするアヤに、クスはナツハナ少年の恋路はそこそこ苦難の道であることを察した。しかし、それはそれでそっと見守る楽しみがある。しかも相手は他国の姫で、ナツハナは一介の宮に仕える童郎わらしろだ。身分違いの恋、というものではないだろうか。同僚のイヨに話したらたいそう興奮するだろう。もちろん言うほど、クスも野暮でない。

(わたくし、自分の恋心はわかりませんけれど、人の恋心は良いものだってわかりますわ。はたしてナツハナはどう育てるのかしら)

 ひとりであれやこれやと想像していると、さっそく薬湯が効いてきたアヤの瞳がとろんとしているので、クスは優しくアヤから茶器を取り上げて、しとねに寝かせた。

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