第3話

 全長15㎝、刃渡り4㎝の凶器を腹に蓄えた老人は、病室で嘘のように眠りこけていた。

「切ったのはどこだ?」

 ベッド脇に佇んだまま、和博は小声でささやく。彼は起きない事を願うように老人を凝視した。

 円華は老人の布団を乱雑に剥ぎ取り、

「ここ、よ」と老人の胃よりも少し下の場所をポンと叩いた。

 慌てる和博に円華は性格の悪い笑みを浮かべ、声を殺して笑った。

「そんな慌てなくても、そう簡単には起きやしないわよ。眠る前に、ちょっち多めの睡眠薬を飲ませてあげたから」

 緊張がほどけ、全身を虚脱させた。強い苛立ちで睨み返したが、彼女が意に介した様子はなった。

「私のプランはこう。本来、開腹手術をするなら全身麻酔が妥当。でも、お互い麻酔医でもないし知識もない。それに、全身麻酔はリスクも高い。だから、睡眠薬で眠らせた後、局所麻酔で手術する。それなら、私にもできるし、リスクも最小限」

 吟味している余裕もそんな暇もなかった。ほかの方法など、こんな状況で思いつくはずもない。

「どこで手術する」

「何のために、私が第四病棟にいたと思ってるの? あそこなら、普段は誰もいないし、勝手に手術室を使っててもバレる心配はないでしょ? ほら、分かったら担架に乗せるの手伝って」

 老人をそっと抱き起すと、和博は円華の用意した担架ストレッチャーに乗せた。


 病室を抜けだしながら、自宅のマンションについて考えた。妻や息子、そして自分の地位、今やそれらはあまりにも細く、脆い糸でぶら下げられていた。いよいよもう引き返すことは出来ない。もし、巡回中の看護師が角から現れれば、それまでだ。十数年かかって手に入れた平穏な日々はたちまち崩壊してしまう。

 担架を押す手にじわり汗が滲みだしてきた。

 円華は担架を押す和博を先導し、廊下の角々を先回りして確認していたがそれでも全身に張り付く緊張感は拭うことが出来ない。

 静寂な病棟に響く、呻き声やすすり泣く声が、担架の車輪が回る音を上手くカモフラージュしてくれることを願った。


 来た道を戻るには倍以上の時間がかかった。

 エレベーターはボタンを押すとすぐに開いた。段差で音をたてぬように円華が担架を少しだけ持ちあげ、籠の奥へと引っ張り込む。奥行きのある医療用のエレベーターへ、担架を押し込み終えると、束の間の安堵が和博の肺を圧迫し、嘆息をつかせた。

 彼は意図もなく振り返り、廊下の方を一望する。

 暗く三十メートルほど真っすぐ続く廊下の床に、避難誘導灯の冷たい明かりが反射していた。廊下は突き当りで左右に分岐し、一方は病室へもう一方はナースステーションに続いている。


 乾いたその音がどちらから聞こえてきたのか、最初分からなかった。コッと床を叩く音。それが連続し、一定のリズムで聞こえ始めてなお、音の正体を理解するには時間がかかった。

 コッコッコッという規則的な音は間違いなく、ヒールが床を叩く音だった。右左、どちらかは分からない。しかし、それは確実に近づいてきている。

 毛穴が収縮し、息が詰まった。かごの中にもう一度目をやると、一番奥へ押し込められた円華がエレベーターのボタンを押すように目で合図をした。

 開閉ボタンを押さなくては。自分の手元にあるスイッチに伸ばしかけた手とその意識は硬直し、廊下の先にある非常灯へ吸い寄せられる。やがて、ピクトグラムの隙間から漏れ出す白い光の中に一つの光景が浮かび上がってきた。

 湿ったアスファルトと街路に灯った水銀灯。どこまでも続く道路の先から、眩い二つの光を伴って何かがこちらへ向かってくる。それらの映像が一瞬のうち、脳裡に浮かび上がり視界を遮った。

 現実から乖離した彼の思考を呼び戻したのは

「大須 和博ッ!」という円華の声だった。

 思い出したように和博は開閉ボタンを連打する。

「どうしたの?」

 扉が閉まるや否や円華は言った。その口調には行動の真意を責め立てる怒りが含まれていた。

「い、いや……なんでもない」

 それは虚勢だった。



つづく

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