第十三湯 教習所!(技能編)



 結局その日は、学科を4つほど受けて帰ることにした。

 帰り支度をするあたしの元に教官のお姉さんがやってきた。


「今日は学科だけですか?」


 たくさんの教本やテキストを抱えて小首を傾げる姿が可愛かった。スーツ姿ということもあって大人の女性の雰囲気を感じていたけど、近くに寄るとあたしと同じくらいの背丈だし、パッチリとした瞳が子供っぽくて年下にも思えた。


「はい、今日はこれからバイトがあるので。……あと、まだちょっと技能を受けるのが恐くって」


 苦笑しながらそう答えた。

「そうですか」とお姉さんは少し残念がるように眉尻を落としながら微笑んだ。


「やっぱり、はじめての運転は緊張しますよね。事故を起こしたらどうしよう、と不安になる方も多いです」


 お姉さんは窓の外に目をやり、教習所のコースで走る車を温かい眼差しで眺めながらそう言った。そして、あたしに向き直ると胸を張って明るい笑顔を向けた。


「でも、誰にでも最初がありますし、その不安な気持ちが安全運転にも繋がります。何よりも、それをサポートするのが私たちの役目です。安心して技能教習も受けてくださいね」


 元気づけられたあたしも自然と笑顔になっていた。


「はい! ありがとうございます!」


 教習所を出たあたしは、そのまま喫茶レリーフに直行してアルバイトした。

 オープンから1ヶ月ほど経って、少しずつではあるけどお客さんも増えてきた。普段無表情なマスターも嬉しそう。少し口角が上がってた気がする。

 18時を回って夜のシフトの子に伝達を終えると、マスターのご厚意でカレーをいただいた。貧乏学生にとっては、まかないが出るのは非常にありがたい。この写真も撮ってインスタに上げておこう。#カフェ店員 #まかないご飯


 家に帰ってからは、お風呂に入って疲れた身体を沈めた。足も伸ばせない小さなバスルームだ。

 これ、疲れ取れてるのかな? 早く運転できるようになって、広々とした温泉に行きたいなぁ。

 お風呂から上がり、ベッドにダイブして仰向けの状態でスマホをいじる。そして技能教習の予約画面を開いた。

 明日は大学の講義もバイトもない。教習をじっくり進める日にしよう。

 時間帯をタップすると教官の選択肢が表示される。どの人を選べばいいんだろう? 正直よくわからないので『指定なし』を選んでおいた。

 予約完了。最初の教習は9時半。普段どおり7時に起きれば間に合うね。

 スマホのアラームを7時にセットする。そのまま充電器につなげて、部屋の電気を消した。


「明日は初めての運転。楽しみだけど、緊張もするなぁ」


 遠足の前のワクワク感とドキドキ感。今日はあんまり寝れないかも。早朝の時間を予約しちゃったけど大丈夫かな────



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 爆睡だった。

 スマホのアラームがじんわりと聞こえてきた。起き上がってスマホを手に取る。

 ぐっすり寝れて気持ち良い目覚めだ。腕を上に伸ばしながら、


「よーし。今日もがんばるぞ!」


 アラームを止めて時計を見る。8時半。うん、教習が始まるまであと1時間か。


「……って寝坊してるじゃん!?」


 ど、どうしよう。朝ごはんを食べる時間はない! と、とにかく出掛けられる格好にならなきゃ! あぁもう! 優雅なGRWMを見せようと思ったのに!

 ヘアアイロンの電源ON。顔をバシャバシャと洗い、フェイスパックを装着。文字通り蒼白な顔で歯磨きをシャコシャコ。温まったアイロンで波巻きを作る。後ろでお団子を作るけど、本日は時短のため普段より低い位置で束ねる。パックを外す。BBクリームを伸ばしてコンシーラーでカバー、そしてパウダーで蓋して完成!

 部屋を飛び出して、アパート1階に停めてあるクロスバイクに乗る。

 まだ時計は9時を回っていない。全力でペダルを回せば間に合うかな?


 全速力で車道を走らせる。車に追い越される度に焦りが募る。もっとスピード出さないと!

 赤信号で止まってしまうとかなりのタイムロスになってしまう。黄色信号でも全速力で交差点に突っ込む。横断歩道を渡ろうと待機していた男の子がびっくりしながら通り過ぎるあたしを見送った。驚かせてごめん。でもあたし急がないといけないんだ!


 教習所に着いたのは9時半ぴったり。受付で教官の名前を訊いて指定の場所へ向かう。

 屋内から出たところで、40代くらいのおじさんが足を組んでベンチに座っていた。走ってくるあたしを確認すると、笑顔で出迎えてくれた。


「あら、やっと来たぁ」


「お、遅くなりましたぁ、お世話になりまぅ、茅野夏帆で……ゴホッ!」


 ゼイゼイと息しながら地面に向かって挨拶した。

 教官のおじさんは高笑いしながら立ち上がり、


「まぁまぁ、とりあえず落ち着いて。そこに座って呼吸整えておいて」


 ベンチを指差して座るように指示し、どこかへ歩いていった。

 あたしはベンチに倒れ込むように座った。

 他の教習生はすでに車に乗って教習所内のコースを走っている。残されたあたしだけがぽつりと寂しく座っている。

 技能初日から盛大にやらかした……。教官のおじさんも愛想つかしてまともに教えてくれないかもしれない……。

 溜め息をついていると、教官のおじさんが戻ってきた。顔を上げると目の前にペットボトルのお茶が差し出されていた。


「はい、これ飲んでね」


「えっ? あ、ありがとうございます……」


 ちびりちびりと飲む。冷たいお茶が喉にじんわりと広がっていく。あぁ、生き返る……。

 あたしがほっと一息つくと、教官のおじさんは横に座った。


「少しは落ち着いた?」


「はい、だいぶ」


 教官のおじさんは笑顔で頷いた。それっきり、視線を前に向けて教習所内をグルグル走る車を眺めていた。

 あたしは時計を見上げる。到着してから10分ほど経っている。それからゆっくりと口を開いた。


「ごめんなさい……寝坊して遅れてしまいました。……今からでも教習は受けられますか?」


 教官のおじさんは、こちらに顔を向けて優しく微笑みながら答える。


「もちろん、これからでも間に合うよ。でもね、車に乗るには充分な心の余裕が必要なの」


「心の余裕、ですか?」


 教官のおじさんは静かに顎を引いた。


「そう。今のあなたみたいに、時間に追われて焦っていたり、疲れた状態で運転するのは、とても危険なことなの」


「たしかに……」


「他にも、病気だったり、家族の不幸、失恋のときとかね。体調や気分がすぐれない時は乗らないほうがいいわ」


 おじさんはヨッコラショと立ち上がる。


「とはいえ、多くの場合、時間に余裕を持たないことが原因で事故にあうの。他の事情はどうであれ、時間に関しては自分でコントロールできるところよね」


 それを聞いて、あたしは教習所に来るまでの運転を反省していた。とても危険な運転をしていた気がする。

 あたしの暗い顔をのぞきながら、明るい声でおじさんは言う。


「これから先、車に乗るときは、必ず心の余裕を確保すること。これ、おじさんとの約束ね」


 あたしはこくりと頷いた。

 これからは焦っているような時は、別の交通手段を使おう。


「はい! 十分に気をつけます! 運転のこと、もっと教えてください!」


 おじさんから許可が出て、技能教習がはじまった。

 さっそく車に乗って運転開始!

 ではなく、はじめに車周りの安全を確認する。ぐるりと回って障害物や人がないことを確認。そして車の下にも何も居ないことを確認する。猫とか子供が遊びで潜っているかもしれない。

 安全を確認できてから運転席に乗り込む。ちなみに降りるときは後方をよく確認して、少しドアを開いて降りても大丈夫なことを確かめる。

 乗り込んだらすぐに発車……ではない。身体に合わせてシートを動かしてブレーキを踏みやすい位置にする。背もたれの角度も調整してハンドルを握りやすい場所でセットする。ハンドルを握ったとき、肘が軽く曲がるくらいが良いみたい。

 ハンドルの位置って変えられるんだね。あと、ペダルって3つもあるの……踏み間違えそうだよ。この左のペダルがクラッチってやつか。一体何者なんだいキミは?

 助手席に座った教官のおじさんは楽しげに話しかけてくる。


「じゃあ車を始動してみようか」


「は、はい!」


 教官のおじさんは、あたしの足元を指しながら指示をくれた。


「右足は真ん中のブレーキを踏んで、左足はクラッチを思いっきり踏み込んでみて」


「こ、こうですか」


 あたしは恐る恐る踏み込んだ。真ん中のブレーキは踏みやすい。クラッチはどこまでも踏み込める感じがした。


「そうそう。そしたらハンドルの右下にあるキーを回してみて」


「はい。……うおぉ!!」


 キュキュキュッと車が震えて、ブォォォンと大きな音があたしを包んだ。エンジンがONになったのだ。自分で動かしてるのに、結構おどろいた。


「いいね。じゃあ次は車を前に動かそう。右足のブレーキを離してアクセルを踏んでみよう」


 アクセルをゆっくり踏み込んでいく。徐々にエンジンの音が大きくなっていく。

 あれ? 車は一向に進む気配がない。


「これってどこまで踏めば進むんですか?」


「そう、このままでは進めないの。今はエンジンとタイヤがつながっていない状態だと思ってね」


 エンジンとタイヤ? よく分からないけど、それって最初から繋がってるものじゃないの?

 あたしが首を傾げていると、おじさんは「そうだなぁ」と視線を右上に向けた。


「茅野さんは自転車のる?」


「はい、ここに来るときも自転車に乗ってきました」


「それなら想像しやすいかも。自転車にギアがあるように、自動車にもギアがあるの。発進とか坂道を登るときは低速ギア。スピードを上がってきたら、ギアも一緒に上げてあげると走りやすくなるよね」


 おじさんは中央にあるレバーを指しながら言う。


「今はN(ニュートラル)、ギアに動力を与えない状態。これを1速にあげてみよう。左前に押し込んでみて」


 左手でレバーを押し込むと、ギアがコトンッと1速に入った。


「これで動力を伝えてあげると進める。アクセルを踏むのは、ペダルを回すイメージね」


「なるほど! これで動きますね」


 あたしはそっとアクセルを踏んでみる。

 ……エンジンは唸るけど、前には進まない。


「進まないです……」


「そうなの。今はチェーンがギアから外れてる状態だと思って」


「えぇ……。それだといくら回しても進まないですね」


 自転車のチェーンは、外れるとかなり面倒くさい。走りながらギアをいじって直せる場合もあるけど、リアのローギア側にチェーンが落ちると一人で直せる自信がない。


「なので、ギアとチェーンをくっつける必要があるの。それを行うのが『クラッチ』」


「でた! クラッチ!」


 教官のおじさんは左手でギア、右手でチェーンを何となく表現しながら説明する。


「クラッチを踏み込んでるときは、ギアとチェーンが一番遠い状態にある。逆に、クラッチを戻してくると……」


「ギアとチェーンが近づいてくるってことですね」


「そゆこと。ペダルを回しながらチェーンを近づけてくるイメージでやってみよう」


 あたしは頷いて、頭をフル回転させながらハンドルを握った。


「えっと、ペダルを回すから右足でアクセルを踏んで、チェーンを近づけるから左足は緩める……」


 エンジンが唸る音の中、ゆっくりとクラッチを緩めていく。するとググッと車が震えて前に動きはじめた。


「う、うごいたぁ!」


「いいね! 茅野さん、才能あるねぇ~」


「えへへ〜。それほどでも~」


 力が抜けてアクセルを緩める。

 すると徐々に進まなくなって、ガタガタと地震のように揺れてからドンッと止まってしまった。


「ぬぬっ! なにがおきた!?」


「あちゃー、壊しちゃったね」


「ぬぅっ!?」


 おわった……あたしの教習所ライフおわった……。こんな高価なもの、弁償できる気がしない……。

 あたしが口から泡を吹いて固まっていると、おじさんはアハハと笑いながら肩を叩いてきた。


「うそうそ、これはエンストね。エンジンの回転数が足りてないと止まっちゃうの。落ち着いてエンジン始動からもう一回やってみよう」


 そ、そうなんだ、これがエンストか……。というか、ただでさえ初めてで緊張してるんだから驚かせないでよ! 夏帆のライフはゼロよ!

 教官のおじさんを軽く睨み、一息ついてからやることを思い出す。


「えーと、ブレーキとクラッチを踏んで、キーを回す……」


 エンジンが始動する。針が安定してからギアを1速にする。


「アクセルを踏んで、クラッチをゆっくり戻す……」


 ゆっくりと車が動き出した。やったー!

 しかし、しばらくするとガタガタと音を立てて停止してしまう。


「あっ……」


「そこでアクセルを緩めない! はい、もう一回」


「は、はいっ!」


 10mほど進んで止まるを繰り返しながら、初めての技能教習が終わった。

 まともに走ったわけではないけど、車を動かせたことがとても嬉しかった。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 10分休憩をはさみながら、その後も教官のおじさんとの教習が続いた。

 はじめの2時間は、発進と停止の度にエンストを起こしたので何度も繰り返し練習した。それからギアチェンジしながら教習所内のコースをゆっくりと走った。曲がり角で縁石に乗り上げてしまうので次回の課題になってしまったけど……。

 ベンチで休憩していると、一人の女の子が近づいてきた。


「なんや、半クラの姉ちゃんも技能教習か?」


「ぬっ! その声は、この間の!」


 赤メッシュの女の子、雨宮さんが仁王立ちしていた。というか半クラの姉ちゃんって……。

 雨宮さんは隣に腰掛けると、


「大丈夫やった? 半クラも知らん状態で運転して」


 クククッと笑いを堪えながらそう言った。


「もう知ってますぅ。ちなみにエンストは、エンジンストップじゃなくてエンジンストールの略っていうのも知ってますぅ」


 あたしは頬を膨らませながらブーブーと言った。

 雨宮さんは「へー、そうなんや」と感心しながらあたしの横顔をのぞいてきた。


「もしかして姉ちゃんエンストしたんか?」


 苦笑いしながらあたしは答えた。


「まあね。いやー、難しいよね。全然進まないし、縁石乗り上げちゃうわで大変だったよ」


「ウチはエンストせんかったで。乗り上げも今のところないし。姉ちゃん、もしかして下手なんちゃう?」


「えぇ……そうなのかな……。みんなそんなもんかと思ってた」


「まあ、ウチが上手すぎるってのもあるかもな!」


 フフンとドヤりながら雨宮さんは言った。

 ぬーん! 自分より年下の子に自慢されるなんて悔しい!

 雨宮さんは足をブラブラさせてから、


「まぁ車によって半クラのやり方も変わったりするからなぁ。こればっかりは慣れるしかないかも知れんな。こう、足の裏側でエンジンとの噛み具合を感じるんや」


 クラッチをフミフミするように左足を動かした。

 あたしは手のひらで説明を制して立ち上がった。年下に教えを請うのはまだ早い。


「大丈夫! 初めてだから失敗しちゃっただけだし、すぐにあなたのレベルまで上がってみせるよ!」


「ほぅ? ウチと勝負するんか。その気概は買うで! ほな、どっちが先に免許取れるか勝負するか?」


「望むところだ! 見てなさいよっ!」


 ビシッと指を指し、挑戦状を叩きつける。

 いま思うと、あたしはなぜ年下の子にこんなにも意地を張っているんだろう……。


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