第四節 民族の解体

 タァンと大きな音がして、その後沈黙が訪れた。男は雪の上から立ち上がり、撃ち殺したヘラジカの元へ歩み寄った。横たわる大きな獣の腹を手早く裂き、腸を傷つけぬよう慎重に内臓を搔き出す。内臓は雪の下に隠れていた土を掘って埋めた。手についた黒く湿っぽい土を落とすと、彼はヘラジカの茶色い毛皮を剥ぎはじめた。

 男――ハウルは、うつくしい豹柄の模様に彩られたオレンジ色の被毛を持つガタだった。彼はその緑の目で獲物を捕らえ、構えたライフルで確実に獲物を撃ちぬく優れた猟師だった。

 解体が終わると、彼は荷物を整理しはじめた。弾薬の入っている箱の中身を見ると、弾数がかなり減っていることが分かった。銃弾は有限だ。一つも無駄遣いをしなかったとしても、必ず減っていく。彼は長い息を吐いて、空気を白く染めた。



◇◇◇



 朝の冷たい空気が風となって馬上のハウルの頬を冷やした。彼の後ろから妹のバークの乗る馬の蹄が土を蹴る音が聞こえる。

 二人は、銃弾を補充するために少し遠い町にある銃砲店へ向かっていた。銃砲店は彼らの村からほど近い炭鉱街にもあるのだが、ヴァーブはその店には絶対に行かない。危険だからだ。その店の客は主に炭鉱警察の警官なので、うっかり鉢合わせて何かトラブルでも起こしてしまえば留置所に入れられるかもしれないし、最悪撃ち殺されるかもしれなかった。山を掘りたい炭鉱会社と山に住むヴァーブは相反する立場にいる。炭鉱会社の配下にある炭鉱警察は、ヴァーブと対立的な関係にあるのだ。


 ハウルは、ヴァーブの村の外へ出るのが好きではなかった。ヴァーブの村の中では彼は普通の人間だったが、村の外へ出るとそうではなくなってしまうからだ。町をただ歩いているだけでも嫌な経験をすることが度々あった。

 以前こういうトラブルがあった。ハウルとその父親が銃砲店の店主と取引をしていると、ドラコの客が店に入ってきた。その男はまるでハウルと父親がそこにいないかのように店主に話しかけた。それに対して、店主もまたその男に先に応対するのが当然であるかのように振る舞ったのである。ハウルが彼らに文句を言おうと口を開くと、父親は慌てて彼を止めた。

 またハウルは、店主がドラコに対して銃弾を売るときの値段と、ヴァーブに売るときの値段が違うことにも気づいていた。ヴァーブには何割か高い値段で売りつけてくるのである。だが彼はもう、それに対して抗議するつもりはなかった。

 このようなことがあっても町へ出なくてはならないのは、銃弾が無ければ狩りはできないからだ。狩りができなければ生活が成り立たないのである。

 ハウルは一人で銃砲店へ行くことも多いのだが、今回は同じく猟師であるバークと同じタイミングを選んだ。バークが父親かハウルのどちらかと共に銃砲店へ行くのは、殆ど暗黙の了解であった。彼女には男の恋人がいたが、その人は猟師ではなかったので、銃砲店には用が無いのだ。ヴァーブにとって男が家の仕事をしたり女が狩猟を行うことは大してめずらしいことではなかったが、ユーゴニア人にとってはそうではない。ユーゴニアという国家は、女の猟師に一人で銃砲店へ行くことさえ許さないのだ。



 彼らは買い物を済ませると、銃砲店から出た。近くに繋いでいた馬に乗り、帰路につく。特にトラブルもなく銃弾を補充することができたので、二人の間の空気は行きよりも穏やかなものであった。

 ところがユーゴニア人の農場の側の道を通っていたとき、馬に乗ったドラコの男とすれ違った。

「端を歩け!山耳め」

 男は二人に向かって悪態をついた。ハウルは男と顔を合わせず、下を向いたまま馬を急がせた。

 「山耳」はガタやペラ――犬のような長いマズルを持った種族――など、先端の尖った形状の大きな耳を持つ種族の身体的特徴を揶揄するために使われる侮蔑的言い回しである。ハウルがまだ幼い頃、村の端にある蔵の壁に「山耳」の強調された人間の絵が落書きされていたことがあった。すぐに消してもまた落書きがされるということが数度繰り返されたので、村には苛立ちと不安が広がった。そのときの大人たちの暗い表情を、ハウルはよく覚えている。

「何だ。文句でもあるのか」

 後ろからドラコの男の尖った声が聞こえたので、ハウルは振り返った。

 バークとドラコの男が、馬を止めて睨み合っていた。

「すみません、なんでもありません」

 ハウルは慌ててそう言いバークを急かした。二人は馬を軽く走らせてその場を去った。

 しばらく馬を走らせて男の姿が見えなくなると、二人はスピードを落とした。



◇◇◇



 炉から立ち上る煙が、家の天井に開いた穴から外へ出て、黒い空を灰色に濁らせていた。ハウルとバーク、そして彼らの両親は炉を囲んで食事をしていた。

「それで、道具は補充できたの?」

 母が兄妹に問うた。

「銃弾を買ったらもう金が残らなかったから、罠猟の材料は買えなかった。弾も無駄遣いできない」

 ハウルが答えた。

「故郷が奪われてさえなかったら、トウモロコシが作れたのになあ」

 父親がそうため息をついた。

 ハウルの親やその上の世代は、頻繁にその言葉を口にした。トウモロコシが作れたなら、今のように狩猟に頼った生活をせずに済んだのに。現在彼らヴァーブが住んでいる山際の狭い土地では、民族全体を養えるほどの作物を育てることはできなかった。ヴァーブが農作物の栽培のできる広い土地を持っていたのは、ハウルが生まれる前の話である。

「戦争に勝っても、結果がこれじゃあな」

「土地があってもどうせ作物を安く買い叩かれたろうから、大した違いは無いだろう」

 ハウルはため息混じりに言った。

「いいや、土地があれば『大飢饉』は起きなかっただろう。そうしたら俺たちはここまで数が減って肩身の狭い思いをしながら生活することもなかったのに」

 ヴァーブの人口は、彼らが元々住んでいた地域からエーデルワイス州へ移住した直後から急激に減少し始めた。数年に渡って発生した飢饉がその原因だった。

 彼らのエーデルワイスへの移住は、「ガタ自治州」への強制移住をめぐる対立と、それにより起きた戦争が発端だった。ヴァーブの故郷のあったシャムロック州の肥沃な土地を欲したユーゴニアは、彼らに自治州への移住を強制しようとした。しかし愛着のある故郷を相手の一方的な都合に従って去りたいと願う者などいないだろう。当然のこととして、ヴァーブはユーゴニアの要求を拒絶した。

 かろうじて戦争に勝利した彼らはしかし、多大な損害を被っていた。ユーゴニアとヴァーブは、ヴァーブがシャムロックの隣に位置するエーデルワイス州の山脈地帯の土地に移り住むことで互いに妥協することにした。少なくともユーゴニア最北端に位置する自治州と比べればエーデルワイスは遥かに故郷の地に近かったし、だからこそ移り住むための移動にかかる負担はかなり少なくなる。ヴァーブ達は、他のガタの民族の多くが自治州への移住の長い旅路で命を落としていたことを知っていたのだ。

 だがその妥協は、ヴァーブに地獄の時代をもたらした。農耕によって支えられていた人口を支えきれなくなったヴァーブは、数年に渡る大規模な飢饉を経験した。その結果、現在の人口は大飢饉以前の半分以下にまで減少している。

「これならむしろ、『冷蔵庫送り』のほうがマシだったかもしれないね」

 母親がため息をついた。

「あそこはここよりもずっと寒くて何もない。それこそ作物だって作れないだろう」

 バークは眉をひそめながら言った。「冷蔵庫」は、ガタ自治州/ティスルの俗称である。寒冷な気候に資源の少ない土地であることから、その地域に元々住んでいたガタの民族以外には人があまり住んでいない場所だった。だが数十年前、「種族統一法」の元でユーゴニア各地の自治区で生活していたガタ諸民族をティスル州に強制移住させる政策が取られた。それまで民族単位でユーゴニアと接してきたガタの諸民族は、これ以降表面上はガタという種族を一つの共同体としてユーゴニアと接していくことになる。だが彼らは歴史的に、ガタという一種族ではなくそれぞれの民族に対する帰属意識を強く持つ存在だった。民族的アイデンティティに重きを置くガタ諸民族の伝統は、現代に至るまで途絶えていない。とはいえ、ハウルたちの生きた時代にティスル以外の場所で生活するヴァーブのようなガタの民族は少なかった。

「でも、少なくともドラコたちに嫌がらせされることは無かったでしょう」

 母が小さくつぶやいた。火の光が弱まり、家の中が暗くなったように思えた。



◇◇◇



 ハウルは雪に覆われた森の中で、自身が仕掛けた罠を確認していた。最後の罠の場所まで移動していたとき、ふと樹々の向こう側に多数の人影が見えた。彼は眉をひそめた。集まっているのがドラコ達だったからだ。彼らは狩りや登山をしに来たという雰囲気ではなかった。銃を持っていないし、何より登山をしているのなら休憩するでもなく一か所をうろついているというのは少し違和感がある。彼らは何かを調査しているように見えた。

 以前から山にドラコが無断で入ってくることはよくあった。あまりにも頻度が高いので、そのうち誰もが注意して追い出すのを諦めるようになってしまった。村の中では、鉱物資源が埋蔵されていないか調査しているのではないかと噂されていた。もし何か見つかったら色々と面倒なことになるから何も埋まっていなければいいのにと、皆話している。


 翌日、狩りの準備をして家の外へ出たハウルは、外気の冷たさにぶるりと震えた。山へ向かって歩いていると、村の様子がいつもと違うことに気づいた。首長の家の周りに人が集まっているのである。ハウルはその中の一人に何事かと問いかけた。

「隣の村から使いが来ている。西ユーゴニア炭鉱会社が、山を買い取ると言っているらしい」

 ハウルはその言葉に目を見開いた。

「何だと。どうして今更!」

「山脈を調べたら、石炭が見つかったそうなんだ。より広範囲に調査すればもっとたくさんあるかもしれないって」

「では首長は会議に行くのか?いつ?」

「二日後に。俺たちはこれから長老のところへ話し合いをしに行くところだったんだ。お前も家族を呼んで来ると良い」

 男はそう言って、長老と呼ばれる老婆――首長を罷免する権限を持った村の年長者の女性――の家へと向かった。



◇◇◇



 西ユーゴニア炭鉱会社が山を狙っていることが明らかになってから数週間が過ぎていた。ある日の朝、ハウルが馬小屋に向かうと、馬が一頭倒れていた。駆け寄ってみると、首から血を流しており、既に息絶えていた。先週には鳩の死骸が村の前に捨てられているということが起きたばかりだった。まるで次は人間を襲うぞと脅されているようでもあり、恐ろしかった。

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