虐殺の国

既知のツンドラ

第一章 権力構造、あるいは歴史的背景

第一節 炭鉱街

 女の口に火がついている。それはアンドロ教典の有名な場面を描いた絵画だった。女は原初の奴隷ギュノスで、口が燃えているのは神が火をつけたからだ。口を失くしてしまったので、この奴隷は言葉を話せなくなったのだった。

 その絵はアルストロメリア炭鉱警察クローバー分署の休憩室の壁に飾られていた。恐らく現在の、あるいは歴代の署長のうちの誰かの趣味であろう。

 ユリシーズ・マザータングがその煙草くさい休憩室で同僚と雑談をしていると、扉が開いて彼らと同じ群青の制服を着た男が顔を出した。

「ユリシーズ、新人が来たぞ」

 部屋に入ってきた男――アダムはユリシーズに声をかけてきた。

「ああ?」

「そうかてめえ、今日から新人のお守りだったか。頑張れよ、マザータング一等巡査」

 のそりと立ち上がるユリシーズを、さっきまで彼と共に下らない話をしていたパブロが揶揄った。

「サボりを巡査部長殿にチクられたくなきゃさっさと仕事に戻りな、バードストライク一等巡査」

 てめえも同罪じゃねえかあ、というパブロの笑い声を背に、ユリシーズは部屋を出た。彼は廊下の冷たい空気に思わず肩をすくめた。窓枠の形に切り取られた夕方の光が、ユリシーズの吐いた息を金色に染めた。


 ユリシーズはエントランスで待っていた赤い鱗の男――ダニエル・レイクサイドに声をかけた。

「今日からお前の教育係になるユリシーズ・マザータングだ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 ダニエルは柔和な顔立ちをした、背の高い青年であった。赤い鱗に大きな二本の角を持ち、長く伸ばしたたてがみを首の後ろでゆるくまとめている。彼はユリシーズと同じ、ドラコという種族だった。ユリシーズはといえば、短い複数本の角が左右対称に生えたドラコだ。たてがみは三つ編みにしてきっちりまとめており、警官の服に身を包んでいるので一見身だしなみは整って見えたが、軽薄な態度や粗暴さが何もかもを台無しにしているような男だった。彼らが同種なのは偶然ではない。ここで働く警官は皆ドラコだ。

「ひとまず今日は署内と炭鉱、それから街のほうを案内する。俺らの仕事は椅子に座ってるより外を走り回る方が多いからな。できるだけ早く土地勘を掴んでほしい」

 はい、というダニエルの固い声がエントランスに響いた。


「まずは保管庫から行くか」

 ユリシーズはそう言って、署の地下に続く階段に足を延ばした。ダニエルが後ろに続く。階段の先には狭い部屋があり、鉄製の頑丈そうな扉の両側に警備担当のドラコの男が二人立っていた。

「ちょっと新人に説明するから、開けてくれ」

 二人は解錠された部屋に入った。そこにはライフルが立てかけられたラックが物々しく並んでいた。ダニエルが壁際に目を向ければ、大きなロッカーがこちらを睨みつけるように整列している。ユリシーズはラックとラックの間を歩いて部屋の中を進みながら、困惑した様子で銃を眺めるダニエルに声をかけた。

「お前も明日から持つんだぞ」

 突如として物騒な部屋に通されてぎょっとしているダニエルに対し、ユリシーズはけろりとした様子だった。二人の間には大きな感覚の相違があるようであった。

「銃を持ったことはありません」

「なら特訓が必要だな。みっちり教え込んでやるよ。銃が扱えなきゃ話にならねえからな……」

「実際に撃つ機会があるんですか?」

 ダニエルの声は僅かに揺れていた。ユリシーズは思わずといった様子で噴き出した。

「そりゃあそうだろう。しょっちゅうあるよ。ここじゃあ坑夫どもの暴動は日常の一部だからな」


 二人は署内をあらかた巡った後、最後に署長室に向かった。ノックの後すぐに入れという声が聞こえたので、ユリシーズは扉を開いた。テーブルを挟んだソファに二人の人間が座っており、ユリシーズはそのうちの一人――黒い鱗をした痩身のドラコ――を見て背筋を伸ばした。

「いらしていたのですか、ライムライト所長。後にしますか」

「いや、いい。どうせ後で事務所のほうに来るつもりだったんだろう?」

 彼はそう言って立ち上がった。同時にもう一人の中肉中背の男が腰を上げる。

「ではこのまま。レイクサイド、こちらが西ユーゴニア炭鉱会社クローバー炭鉱の所長であるラースロー・ライムライト氏、こちらはアルストロメリア炭鉱警察クローバー分署署長のキラーホエール警部補だ」

「レイクサイドだね。僕が炭鉱の所長をやっているライムライトだ。遠くから大変だっただろう」

 ライムライトはダニエルに手を差し伸べた。彼は羊のそれのように側頭部で円を描いて曲がった角を持ち、骨のような顔をした男だった。顔立ちにふさわしくその手もまた細長い骨のようだった。

「いえ。これからお世話になります」

 二人は握手を交わした。

「ムーンライトのやつは元気かな」

「ええ、至って健康で、元気に働いていらっしゃいますよ」

「それは良かった」

 ライムライトは笑顔で頷いたが、ふと暗い顔をした。そして「彼から聞いたが、大学を辞めなくてはならなかったんだろう?残念だったね。勉強したいこともたくさんあっただろうに……」と同情を浮かべた顔で続けた。

「そうですね。でも、家族のためなので」

「そうか。何か困ったことがあれば相談してくれて良い。僕は君のような未来あるドラコの青年の役に立ちたいと思っている」

「ありがとうございます」

 ライムライトとの挨拶を終えたダニエルがキラーホエール警部補と話し始めるのを、ユリシーズは黙って眺めていた。


 署長室から出た二人は階段を降り始めた。靴底がコンコンと冷たい音を響かせていた。

「ぶっちゃけた話、」とユリシーズが切り出す。

「警察署長なんてのはお飾りみたいなもんで、俺たちの本当のボスはライムライト所長の方なのさ」

 彼はどこか誇らしげだった。

「何故です?」

「そりゃあ、うちに金を出しているのは炭鉱会社だからさ。誰を警官として雇うかを決定しているのも実質的には炭鉱所長のほうだしな。お前もライムライト所長に助けられたんだろ?」

 彼は後ろを振り向きながらそう口にした。ダニエルは黙っていた。ユリシーズはその態度を気にすることもなく顔を前に戻し、笑った。

「ここはラースロー・ライムライトの王国で、俺たちはあの男のための兵隊なのさ」


 警察署を出ると、二人はそれぞれ馬に乗って炭鉱の敷地内に向かった。広い敷地の中にいくつもの建物や煙突、それから鉄骨製の機械がまばらに建っていた。形が全く同じな五つの建物が見えてきたところで、ユリシーズはそれらを示しながら口を開いた。

「あそこは選炭所だ。ここで原炭を必要な部分と不要な部分に分けるんだ。力が要らない仕事だから女ばかり働いている」

 彼はそう言うと再び馬を進ませた。時折木々の上に煙突が顔を出す景色の中をしばらく進むと、山中に突如としてコンクリート造りの巨大な箱のようなものが現れた。ユリシーズは後ろを振り向いてダニエルを見た。

「あれは原炭ポケットだ。採掘した原炭は選炭所に送る前にここに貯めとくのさ」

 しばらく行くと、鉄骨製の塔のようなものがいくつか建っている場所に着いた。塔の足元からはレールが伸びている。

「あれは竪坑櫓だ。ここの坑道の入り口は垂直式なんで、あれで坑夫の出入りと石炭の引き上げをしている」

 ユリシーズがそう話している間にも、地下から引き上げられてきた炭車が、労働者たちによってレールで運ばれていった。ダニエルが隣の竪坑櫓に目を向けると、その正面に馬車が待機しているのが目に入った。車体の側面には救急車/ambulanceと書かれている。

「誰か怪我したんでしょうか」

 ユリシーズも同じ方向を見た。救急馬車の待機している竪坑櫓からカゴが引き上げられ、二人の男が担架を持って中から現れた。彼らは炭塵で全身真っ黒に汚れていて、担架の上に載せられた人物も同じく炭塵まみれだった。二人は馬車の中に怪我人を運び込んだ。

「坑道の中は事故が多い。岩盤崩落だとかガス突出だとかな。でかい事故が起きると忙しくなるぞ。現場から野次馬を退かすのもそうだが……やつら事故の後にストライキなんかしやがることもあるから」

 ユリシーズの声音は平坦だった。冷たい風がダニエルの首を撫でていった。馬車はすぐさま出立し、それを見送った二人の労働者は再びカゴに乗って、地下へ消えて行った。


 二人は敷地内から出て、炭鉱街を回った。炭鉱労働者たちが食料や仕事に必要な道具などを購入する店の前に通りかかったとき、辺りがざわざわし始めた。誰かそいつ捕まえろ!という声が聞こえたかと思うと、二人の乗る二頭の馬の側を何者かが風のように駆け抜けていった。

 その人物の種族は分からなかったが、少なくともドラコのような鱗の生えた種族ではなく、被毛を持つ種族のようだった。

「おお見ろよ!が物盗りをしていやがるぜ!」

 ユリシーズが駆け抜けていった人物の背中を見て歓喜の声を上げた。その声に眉をひそめながら、ダニエルも走り去ってゆくその後ろ姿を見た。彼らの後ろから馬に乗った警官が二人駆けて行った。

「おい、丁度いいから俺たちが普段どういう仕事をしているか見ていこうじゃねえか」

 ユリシーズは声を弾ませながらそう言い、馬を走らせた。ダニエルは慌ててその後ろを追いかけた。二人は物盗りと警官が消えた角を曲がった。道路の端を歩いている通行人が何事かと駆け抜ける馬を見る。ダニエルたちの前方で警官の乗っている馬のうちの一頭が物盗りの男に追いつき、そのまま男を前足で吹っ飛ばした。馬の巨体に撥ねられた男は地面を転がり、突っ伏して動かなくなった。彼を追いかけていた二人の警官は馬から降り、罵声を浴びせかけながら男を蹴り始めた。

「何やってんだ!」

 後ろから追いついたダニエルが馬を降りながら叫んだ。彼はそのまま警官のうちの一人の腕を掴んで後ろに引っ張った。

「あんだテメエ邪魔すんな」

 ダニエルに抑えられた警官が叫んだ。もう一人の警官が背中に背負っていたライフルを手に持った。警官はダニエルに銃口を向けた。

「おいおい待て待て」

 後から追いついてきたユリシーズが馬でダニエルと警官の間に割って入った。

「悪い、コイツうちの新人だ。まだ勝手が分かってねえんだって」

「マザータング一等巡査」

 ダニエルを睨みつけていた警官がライフルを降ろした。

「お前もそいつ離せよ」

 ユリシーズがまだもう一人の警官を抑えているダニエルを見下ろした。ダニエルが力を緩めると警官は腕を素早く引いて舌打ちをした。

「随分とお上品な新人が入ってきたモンだ」

 ダニエルは警官の悪態には構わず、自分に銃口を向けていた警官の後ろで倒れている男の元へと駆け寄った。

「大丈夫ですか!」

 ダニエルはひび割れた石畳の上でうつ伏せになっている男の肩を掴み、仰向けにした。

 頭から血を流して気絶している男の顔を見て、ダニエルは目を見開いた。

「ガタを見るのは初めてか?」

 ユリシーズはダニエルを見下ろした。男は、猫のような顔立ちをした種族――ガタであった。

「いえ、そういうわけでは……」

 ダニエルは冴えない返事をした。ユリシーズは一瞬ダニエルの後頭部を見つめていたが、すぐに目を離した。そして初めに男を追いかけていた二人の警官に目を向けた。

「さあ、こいつを連れていけ」


 ダニエルとユリシーズは二人の警官に連れていかれる物盗りの男を眺めていた。

「いやあ、初日からこんな面白いものが見れるなんて、お前は運が良いな」

「人が殴られているところを見て何が楽しいんですか」

 ダニエルは苦虫を嚙み潰したような顔で言った。

「お前も今に分かるようになるさ。ここで働くっていうのはそういうことだぜ、ダニエル・レイクサイド二等巡査?」

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