第18話 人を致して人に致されず
先に旅立ったオサイン伯爵とアイネ子爵の軍は、ベジルサ侯国へ急行した。
しかしそれでは苦戦は必至である。
彼らを救うためにも、われわれは異民族の本拠地へ直行しなければならない。
小隊を率いるウィケッドとバーニーズを従え、ユーリマン伯爵を伴ってまるで大名行列のように“これ見よがし”に異民族の本拠地を目指しているぞと軍を動かした。
通常、軍の行動は秘匿されるべきものだが、今回はあえて「本拠地に帝国軍が攻め寄せようとしている」と知らせなければ意味がない。
それを受けてこちらが到着する前に、異民族政府が軍を引き返させてわれらを追い払えると思い込ませるのだ。
反転してこちらに向かってくるのを逸早く察知するのがこの作戦の肝だが、アイネ子爵家の襲撃者たちを釈放する代わりにわれらのために動いてもらう、つまり間者を使って敵の進軍情報を集めることになる。
もし彼らが報告を寄越さなければ、われわれは不意討ちを食らいかねない。
そのような重大事でいっとき敵対していた者たちを斥候に使うには度胸も必要だ。
しかし他の適任者がいない以上、彼らの働きに期待するしかない。
それにうまくすればより多くの間者を手に入れられる可能性もある。
アイネ子爵の手から奪うにしてもパイアル公爵から手に入れるにしても、間者を巧みに使いこなせたら、彼らは忠誠を誓ってくれるだろう。
「それにしても、よくこのような戦術を思いつきましたな」
轡を並べるユーリマン伯爵が尋ねてきた。
ベルナー子爵夫人になってから、パイアル公爵から命じられた仕事をするとき以外は乗馬の訓練を毎日欠かさず行なってきた。
そして実戦前になんとか間に合ったのだ。
今ではパニックに陥った馬を鎮める方法も身につけていた。
これだけ扱えれば指揮官としてなんとか面目が立つ。
「いえ、これは実に簡単な策なのです。“およそ先に戦地に処りて敵を待つ者は佚し、後れて戦地に処りて戦いに趨く者は労す。ゆえに善く戦う者は、人を致して人に致されず”と申しますので」
『孫子の兵法』虚実篇第六の一節である。
「“人を致して人に致されず”ですか」
「はい、こちらから相手を動かすのがよく、相手に動かされるのはダメなのです」
「なるほど。つまりオサイン伯爵たちは異民族軍の動きによって“動かされた”ということになりますね」
「さようです、ユーリマン伯爵。そして私たちは“相手を動かす”ためにこうして進軍しているのです」
「ベルナー子爵夫人の思惑どおりならば、わが軍は圧倒的に有利な立場で戦えますな。もしオサイン伯爵がこの策を受け入れてくだされば、おそらく異民族軍は再起できないほどに討ち滅ぼされたところでしょう」
「まだなんとかなるかもしれませんが、あの方たちがそれに気づけるかどうか」
沈着なユーリマン伯爵が少し驚いたように感じた。
「彼らはまだなんとかなるのですか?」
「そうです。ただ彼らがそれに気づけなければ、すべての手柄はこちらのものになってしまいます」
「手柄にさといオサイン伯爵ですから、案外なんとかなるかもしれませんが」
「気づきさえすれば兵の損耗は考えずに済みます」
すると伯爵が音を立てないように手で膝を打った。
「わかりましたよ。オサイン伯爵たちは異民族軍を牽制して戦わなければよいのですね、ベルナー子爵夫人」
「ご明答です、ユーリマン伯爵。戦わずに時間を稼いでくれさえすれば、あの方たちも手柄に与れるのですが」
「さすがにそれは難しいかもしれません。ベジルサ侯国救出しか念頭にないでしょうから、戦って蹴散らす以外の選択肢は考えつかないでしょう。しかもわれわれが引き返してきた敵軍を迎え撃つと申した以上、引き返させる猶予を与えずに総攻撃する可能性が高いのではありませんか」
「そこに彼らの限界があります。“兵は詭道なり”と申しますから」
「“詭道”つまり騙し合いということですな」
「はい。命の奪い合いだけが“戦う”ということではないのです。いかに相手を翻弄して手を出させずにこちらが一方的に叩いていけるか。それができれば、寡兵でも大軍を相手に勝利できます」
「だから“人を致して人に致されず”というわけですな」
ユーリマン伯爵は的確な指摘をしてくる。これは稀代の傑物かもしれない。
彼を手駒に使えたら、大陸の統一も早まるのではないか。
「また、相手がどのような陣容で挑んでくるのかを知らなければ戦いようもありません。またそれを知ったところでこちらの陣容で利点を活かせなければ勝ちようもないのです」
「確かに。そのために斥候を放って、こちらの動きに気づいた敵がどのように殺到してくるのかを知るのが重要なのですな」
ボルウィックが静かに馬を寄せてきた。
「最初の斥候が戻ってきました。オサイン伯爵軍は苦戦のさなかにいる、とのことです」
「やはり我慢できませんでしたか。それで敵の斥候を引き連れてくる件については?」
「そちらもうまくいったようです。こちらへ戻ってくる途中で前線へ向かう馬を見たとのこと」
「では斥候にいっときの休息を与えたのち再びあちらの前線へ戻してください」
「かしこまりました、ベルナー子爵夫人」
ボルウィックがまた静かに離れていき、諜報員をまとめる部隊長へ指示を発した。
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