第2話 旅立ち

 目が覚めた私は農道に倒れ伏していた。


 ゆっくりと起き上がり、籐と麻でできた背負いかごを降ろして体に異変がないか確認していく。

 麻服が少し焦げ臭かったり、転んだときに出来たのか右肘や両膝、左かかとなどところどころにかすり傷が見られた。

 背負いかごを開いて中を確認すると、リンゴが破裂している。

 せっかくの生魚はヒレが焦げていて身は中途半端に火が通ったようなありさまで、アリアさんがおまけでくれた柑橘がにおい消しになっていた。

 これでは焼き魚にするしかないか。


 先ほどまで見ていた夢のような出来事を思い返していた。

 私はラクタル。それは間違いない。

 しかしこことは異なる世界の女性であるコオロキ・テツカでもある。

 私の中には彼女の記憶が確かにあるのだ。


 この世界ではラクタルとして普通の農家に生まれた。

 そして三年前まで母に育てられ、その母の死後はひとりで暮らしている。

 異世界の女子高校生コオロキ・テツカであることは誰にも語るまい。


 だが、私の中のテツカは「大陸統一」を目指そうと躍起になっていた。

 そのためには軍へ入隊しなけばならないのだが。


 テツカの心の師匠である孫武は、書物『孫子の兵法』全十三篇をという国の宰相さいしょうであった伍子胥ごししょへ贈ったという。

 そして伍子胥は七度、王である闔閭こうりょへ孫武を推薦し、宮中へ招かれた孫武はそこで用兵のなんたるかを実践してみせたのだ。

 そうして将軍へと登用されている。


 しかし私は農民であり、この世界の文字は読めるものの書けない。

 今から勉強していては、とてもではないがすぐにでも将軍として登用されるなど不可能だろう。

 それに『孫子の兵法』十三篇をすべて書き出したところで、一介の農家の娘でしかないラクタルの作では取り合ってくれないはずだ。

 となれば軍功を重ねて軍師まで成り上がるしかない。


 しかし農家の娘が入隊するとなれば、いろいろと不足しているものがある。

 武器や防具は国から支給されるものの、それを操る腕もないのに戦場で役に立つのだろうか。

 そもそも長時間の行軍つまり歩き続けることに耐えられるのだろうか。


 あれこれ考えているとお腹がぐーと鳴った。

 そうだった。夕食の材料を買い出しに行っていたのだ。

 この先を考えるのは明日にしよう。

 今日はすぐに家に帰って、焼き魚を食べて寝てしまおう。

 とにかく今日の体験はあまりにも大きすぎた。


 ◇◇◇


 眠っている間に、テツカが意識の中で「軍師になる夢」について切々と語ってきた。


 『孫子の兵法』を読み込んだのは、いつか私が軍師となって世界を平和に導くためよ!

 そんな私が異世界へ転生したの。

 そして今記憶が蘇ったのはきっと運命。

 だから早く私のやりたいようにやらせて!

 ラクタルも私なんだから、私の意志はあなたの意志なの。


 私は農家の娘で終わりたくない。

 せっかく戦乱の世に生まれ変わったからには、『孫子の兵法』を実践するまたとない好機なの。

 私はテツカ。でもこの世界ではラクタルよ。

 テツカが異世界に転生してラクタルとして育てられただけ。

 もともと、ふたりはひとり。


 私の魂が長い間何者かに抑えられていて、表に出る機会を失っていたの。

 でも、だからこそ、この世界の何者かが私の才能を恐れたに違いないわ。

 『孫子の兵法』の知識を使われたら困ると思っていた人が必ずいたはず。


 その人を探し出して問い詰めて、この世界を『孫子の兵法』で統一するのが私の役目。

 それがこの異世界へ転生した理由。


 きっと神様は私を見ていてくれたのね。

 私の願いが神様に届いて、この世界へ転生させてくれたに違いないわ。


 前世で私がどんな死に方をしたのかは憶えていない。

 でも、きっと神様と契約してこの異世界へ生まれ変わったはず。

 そんなライトノベルをたくさん読んできたけど、まさか本当になるとはね。


 だからこの世界が私を必要としているの。

 ラクタルとして暮らした日々は貧しくとも充実した日々だった。

 でもそのままラクタルとして生涯を終えてしまったら、私が転生した意味がないの。

 だからお願い、もうひとりの私。ここから先は私に任せてくれないかな。

 きっとラクタルとして今よりもよい人生を歩めるはずよ。



 目が覚めたとき、私は自分の体を取り戻していた。

 私はテツカ。コオロキ・テツカ。

 でもこの世界での名前はラクタル。姓のない貧しい農家の娘だけど、体力には自信があって文字は書けないけど読めるくらいの知識はある。

 でも私が出てきたからには、文字を書くのだってすぐにできるようになるわね。

 そうしたら、すぐにでも軍に入隊して頭角を現してやるんだから。

 待ってらっしゃい、セマティク帝国を脅かす異民族と巨大国家アルマータ共和国。

 私がすべて平らげて統一してあげる。

 そして大陸の争いを止めた英雄として世界に名を轟かせ、後世に語り継がれるの。


 転生前に私のことを馬鹿にしていた人たち。

 両親に兄弟に同級生に先生たち。

 このことを知ったらみんな顔を青くするわね。

 でもそれが『孫子の兵法』を軽んじた人たちの哀れなところ。


 すべての競争は『孫子の兵法』に始まって『孫子の兵法』で終わるの。

 どんなに賢い相手でも『孫子の兵法』には勝てないわ。

 三万の兵で二十万を超える敵を倒した孫武の集大成をとくと味わわせてやるんだから。



 私はさっそく帝都アーセムへ赴いて、魚屋さんのアリアさんのところへ出かけた。文字を習うためにだ。



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