【6-3】

 数分間。

 たったそれだけの時間が、こんなに長く感じたのは初めてのことだった。そのくらいゆっくりと時間をかけて数十メートルの距離を移動し、温室の入り口に辿り着いたのである。 あまりのじれったさに倒れそうになりつつも二人の姿を透明な温室ガラス越しに認めたときは、再び全身に力が漲ってくるのを感じた。

 だが、それも束の間。

 ふと横を見遣ると、植物園の施設管理員らしき灰色の作業服を着た中年のおじさんが、花の剪定らしき作業をしているではないか。今までその存在に気が付かなかった俺にもびっくりだが、俺の心臓はそれよりもっとびっくりしたらしく、激しく動悸を始めたのである。


 ――やばっ!


 気付かれたら、「あらま、いつの間にこんなところに林檎の木が?」とか何とか云って、枝の剪定を始めてしまうかもしれないのだ。そうなったら、かなりの厄介ごととなるのは必定だ。そして、如何にこの張りぼてが精巧といえども、俺という人間の存在に気づいてしまう可能性もある。

 だが幸運なことに、彼は俺のことに気づいていないようだった。庭園の剪定をそのまま続けている。

 ほっと胸を撫で下ろした俺だが、今はとにかく、彼らとの距離をもう少し詰めなければならない。いつか、雛地鶏家お抱え忍者の香取も云っていたことだが、「尾行は、近くもなく遠くもない、適当な距離が重要」、なのである。


 再び、地道な進軍を始めた、俺。

 だが、俺が足――いや、根っこかも――を踏み入れたその場所は、南国の花咲く気候温暖な温室なのである。奥へと進もうとするものの、温室内部の気温が高いために俺の体がまるで汗の海に沈んだようにびっしょりとなって、思うように進めなかった。

 秒速、1センチ。

 暑さと歯がゆさで、また倒れそうになる。


 ――負けない。


 だがそれでも、由緒正しき家柄をバネに根性で進んでゆく。

 そうこうしているうち、ようやく我ながらナイスなポジションを温室内にゲットすることができた。榊原と真奈美さんからの距離、約15メートルといったところか。ここまで近づけば俺の荒れた呼吸音で気付かれる可能性もあり、なるべく呼吸を荒げないよう、息を殺して彼らの様子を伺うことにする。

 すると、榊原の野郎がやや引き気味の真奈美さんに向かって演説をぶっていた。声が温室の壁に反響するせいで俺にはその内容がよく聞き取れない。憮然とした表情ながらもその話に大人しく耳を傾けていたお嬢さまが、不意に口を開いた。


「結局のところ、あんたが見せたいものはこの向こう側にあるってことなのね?」

「ええ、そうですとも!」


 二人の前には、まるで開演前の劇場の天幕のように白いカーテンが広がり、視界を遮っていた。どうやら、その布で隠された向こう側に、榊原の奴が小細工した何かがあるらしかった。ワクワク感からなのか、榊原が頬を紅潮させる。


「これが、花に込めた真奈美さんへの僕の気持ちです! では――どうぞ!」


 そう叫ぶなり、榊原は天井からぶら下った白い紐を勢いよく下に引いた。すると、シャ―という音ともにカーテンが左右に分かれ、一気に視界が開けたのである。

 二人の視界の先にあったもの――それは、いかにも南国的な、真っ赤な花びらを持つ花々の集合体であった。自分の考えが正しければ、それらは何らかの意味を持った文字列としての機能を有している。


「どうです? 感動していただけましたか? いやあ、ここまでにするのは本当に大変だたんですよ。何がって、まずこの場所を借りるのに園長を拝み倒し……地道に種を植えていき……ほぼ毎日、水やりに通い……。とにかく、大事に育てましたからね。それというのも、この僕が真奈美さんのことを――」


 榊原は、これまでの辛い道のりを想い出したのであろう、目尻にほろりと涙を浮かべながら語り出した。が、そんな榊原の感動巨編の物語を遮るようにして、真奈美さんのキンとした冷めた声が熱帯の温室に響き渡ったのである。


「うん、わかった。わかったから」

「わ、わかってくれたのですか。ならば、僕の告白を――」


 真奈美さんの顔つきが更に厳しくなる。


「違う、そういうことじゃない。確認だけど……これが、今のあなたの気持ちということで本当にいいのね?」

「ええ、もちろん。その通りです!」

「ふうん……。なら、要するに自分がいかに女好きかってことを云いたいのね?」

「はあ? 違いますよ、嫌だなあ……。僕が好きなのは真奈美さんだけなんですから――って、ああーっ!」


女子じょし 女子じょし……大好だいすき』


 白い布でできた銀幕を取り除いた先にある映画館のスクリーンほどの広い地面に、花びらできた文字として描かれた文字列。目が醒めるほど真っ赤なその文字列は、榊原のほとばしる情熱のほどを示していたが、どうやらそれは空振りの様相を呈していた。


 ――ふっふっふ。やっちまったようだな、榊原君。


 熱帯の如き熱量を帯びた着ぐるみ空間の中で、俺はひとり、ほくそ笑んでいた。


「毎日水やりに来てたのに、こんなことにも気づかなかったの?」

「いや、それはそのぉ……おかしいなあ、゛好き好き……大好き゛って文字になるように種を植えたはずなんですけどね……。うーん、どこでどう間違えたんでしょう?」

「それは、こっちが訊きたいわよ」

「あ、わかった! これは雛地鶏のやつの陰謀に違いありませんよ、きっと!」

「雛地鶏?」


 ――何をぬかす、榊原め!


 この期に及んで、口から出まかせ的に俺に濡れ衣を着せるとは、なんて卑怯な奴だろう。

 大体、俺は影に隠れてこそこそと動くとか、そんな器の小さい男ではない。


「あんた、本当に雛地鶏のせいだと言い切れる?」

「いや、それはそのぉ……」


 呆れる真奈美さんの横で、榊原がひたすら首をひねる。

 どうやら、真奈美さんにはきちんとわかっているようだ――俺が、犯人ではないことを。あえてこの場で林檎の木の張りぼてから飛び出し、奴に手を下すまでもなかった。このまま放っておけば、榊原は自滅していくことであろうことが容易に想像できる。

 ならば――こんな場所に、もう用はない。

 気配を消しつつ、黙ってゆっくりとこの場から立ち去ってしまおう、とも思った。

 だが、今の俺は足取りの遅い――というか動くはずのない――根っこの生えた植物なのである。下手に動けば、今までの完全な変装が台無しとなってしまうのだ。先に動いてここから去ることを断念した俺は、二人がこの場を去るまで、完全に林檎の木と化して待つことにした。


「しっかりしなさいよ、祐樹君! とりあえず今日は、せっせと植物をお世話したその頑張りに免じ、私にこくれるまで1億7千5百万年早い、ってことにしておくけど、次からはこんなに甘くないからね。覚悟しといて!」


 真奈美さんが、優しいのか優しくないのか、俺には判断できかねる言葉を榊原に投げつけると、榊原も痛いと痒いの中間みたいな顔をして、真奈美さんの顔をじっと見つめた。

 そんな彼を残して踵を返した彼女が、両足をリズミカルに動かして温室の外へと向かう。さすがの榊原も、颯爽と去り行く彼女の背中にかける言葉は無いようだった。

 ぐったりと項垂うなだれてしまった、榊原。

 そんな彼に、さっき温室の手前で出会ったベテランの施設管理員が胡麻塩頭の短い髪を揺らしながら駆け寄った。どうやら、近くで二人のやりとりを一部始終聴いていたらしい。そして、庭園の手入れで間引きした一輪の花を彼に差し出し、榊原に慰めの言葉をかけたのだった。


 ――おお、なんて微笑ましい。


 一瞬でもそんな風に思ってしまった俺がバカだった。

 というのも、そのとき俺は気付いてしまったからだ。真奈美さんに榊原が告白できるまでの期間が、前回の「2億年」から「1億7千5百万年」と、前回から2千5百万年も短くなってしまったことを――。

 2千5百万年もあれば、猿だって人間に進化できちゃうじゃないか!


 ――そんなバカな。この有様で、どうして前回より2千5百万年も縮まる?


 この結果には、どうにも納得がいかなかった。

 当然、温室のガラス天井の向こう側にある天に向かって叫びたい気持ちが沸き上がった。

 しかし、今の俺はただの「樹木」なのだ。例え動揺したとしても、声を出すことなどできない。

 必死に声を出さないように耐える俺に向かって、モデル歩きの真奈美さんが長い黒髪をさらさらと揺らしながら近づいてくる。

 やがて、温室の花々の匂いをもしのぐ彼女の香り成分を含んだ空気分子が、俺の鼻腔びくうに達した。そのゴージャスな香りに卒倒しそうになるも、改めて彼女の姿を間近に見た俺は、その女神の如き妖しい美しさにに思わず息を飲んでしまう。

 言葉だけじゃなく、ため息が漏れることも我慢。

 温室の外へと彼女が過ぎ去るのを、俺はひたすら待ち続けた。


 と、俺の真横にまでやって来た真奈美さんが、そこでピタリと歩みを止めたのだ。

 ドギマギしながら立ちすくんでいる俺に向かって、彼女が呟く。


「あなた、雛地鶏 謙よね? さっきからちょこまかちょこまか、うるさいのよ」

「え!? いや、えーと、俺はただの林檎の木でして……」

「フン。男なら正々堂々と勝負しなさいよね。影に隠れてこそこそ動くようなヤツが、私は一番嫌いなんだから……。じゃあ、縁があれば、また」

「……」


 過ぎ去ってゆく、ほっそり可憐な後姿うしろすがた

 それを見送りながら、俺は着ぐるみの中で地団太を踏んだ。

 まさか、この緻密な着ぐるみと完璧なまでの植物としての振る舞いが、既に彼女に気付かれていたとは! 


 ――真奈美さん、恐るべし。


 そうなればもう、この林檎の木の着ぐるみなどに用はない。

 剥ぎ取るようにして、急ぎ、俺はそれを脱ぎ去った。

 すると、温室の奥から「あ、雛地鶏! お前、なんでここに居る?」とかいう、すっとぼけた男の声が聴こえてきたが、それは完全に無視だ。


 なぜだろう、無性に甘いものが欲しくなる。

 張りぼての胴体部分から一際赤い林檎の実をひとつもぎ取って、思い切りかじてみた。

 思った通り、高級林檎は甘かった。

 しかしそれは、今までの人生で味わったことのない、ほろ苦さを伴っていた。


 結局、林檎の実に残ったのは、俺の悲しき歯型きおくなのであった。




 キミに届けたい、永久とわの愛を。温室の花壇にしたためた、花びらのラブレター。


  ―続く―

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