12 知ろうとしないのは

 ラブホテルの一件から三日。あれからマイカとは徐々に打ち解けている。


 夫の元不倫相手と交流するなんて自分でも信じられないけど、彼女が日課として作るアイスがあまりにもおいしくて、自然と共用リビングに足を運ぶようになった。口数は少ないし、淳樹との間にあったことは訊けていないけれど、居心地は悪くない。


 その行動を訝しんで質問攻めしてきた華奈には、正直に事実を打ち明けた。最初は唖然としていたが、五分後には自分の婚活の愚痴を話しはじめた。さすが華奈だ。


「でね、ジョーくんがスーパーで……あ、そういえば有里って今日スーパー行く日?」

「うん、十時からパート」

「おけー、がんばれ。あたしもそろそろ内定と彼氏釣り上げてくるわ!」

「華奈もがんばって」


 釣りのポーズをしながら決意表明をした華奈は、三十代でもバリバリ現役のツインテールを揺らしながら婚活に向かった。


 私も身支度をして家を出る。しかし道中、何か嫌な気配を感じた。つけられているのかもしれない。

 恐怖を感じて何度も周囲を確認したけど、ストーカーらしき人はいない。


 そのうちスーパーにたどり着き、着替えてからサービスカウンターに入った。今日もたぶん暇だ。


「なんでブロックしたんだよ」


 突然、どすのきいた声音が背後から響いた。全身が泡立ち、呼吸が苦しくなる。恐る恐る振り返ると、黒ずくめの男がカウンター内に侵入して背後に立っていた。


 淳樹……。


「なんで呑気にパートなんかしてんだよ」


 苛立ちを前面に押し出した責め立てるような口調を受け、身体が震えた。急いでカウンターから出ようとすると、淳樹が私の左手首きつく掴んできた。あまりの痛さに呻き声が漏れてしまう。


「なぁ、ちゃんと誠心誠意謝ってんだろ! いい加減許せよ」


 淳樹の言葉も声も酷く暴力的に感じた。血管が締め付けられ、手が痺れている。夫に対して初めて恐怖心を抱いた。こんなに暴力的な一面があるなんて知らなかった。


「言っとくけど、行為自体はしてないからな。死んでも離婚しない。逃げても無駄だ」


 見え透いた嘘に虫唾が走る。今まで淳樹に怒りを覚えたことはあったが、ここまで強い嫌悪感は初めてだ。

 

 これは、拒絶反応だ。


「やめて……」


 淳樹の手を振りほどこうとするが、左手首が折れそうになるくらい力強く掴まれてしまった。捻挫のせいで思うように踏ん張れずに転倒しそうになる。


 誰か助けて。泣きそうになりながら心の中で叫んだ。


「あのー、すみません」


 突然誰かに呼ばれた。私も淳樹もフリーズし、声の方へ視線を向ける。誰かがこちらへ小走りで走ってきた。


「賞味期限がいちばん早い納豆ってどれですか?」


 あの背の高い大学生くらいの男性だ。右目だけ二重だから一瞬でわかった。淳樹があからさまに狼狽え、私の左手首を解放して後ろを向いた。


 私はいつの間にか流れていた涙を指で掬いながら、震える声で回答した。


「手前にあります……」

「ありがとうございます。あ、案内してもらえますか?」

「えっ」


 納豆の男性は、表情を一切崩さずに私の目だけを見据えて言った。色素の薄い茶色の目に吸い込まれそうになる。僅かに右目の二重がぴくりと動いた。


「だめですか?」

「あ、こ、こちらです」


 私は左手首を右手でさすりながらカウンターを出た。淳樹が小さく「お前、待て」と呟いていたが、職務という最大の理由ができたかから構わず無視した。


 捻挫の足を引きずりながらカウンターを出て、納豆の男性の隣に並ぶ。歩いていると、彼が小声で話しかけてきた。


「大丈夫ですか?」

「あ、はぃ」


 驚いて顔を見上げると、納豆の男性の視線は前を向いたままだった。横から見た方が右目の二重がくっきりと見える。気づいたら私は、彼の目ばかり気にしている。


「それは良かったです」


 それから納豆売り場に着くまで彼は何も話さなかった。私と淳樹のことについて深く詮索する気はないようだ。


「こちらが一番賞味期限が早い納豆です」


 私はすぐさま手前の納豆を手に取り、男性に差し出した。彼は表情を崩さずにさっと受け取った。


「ありがとうございます」


 男性はすぐに踵を返し、レジに向かった。私はその背中を見てどうしても訊きたくなった。


 私を助けてくれたんですか、と。


「あの……!」

「はい」


 男性は足を止めてこちらへ振り返った。しかし、もし勘違いだった場合を考えると質問する勇気が出ない。口を開けないまま、スーパーの安っぽいオリジナルソングが沈黙を埋める。


「あの……どうして賞味期限の早い納豆を選ぶんですか?」


 代わりに出た問いかけは、以前疑問に思ったことだった。


「納豆って、賞味期限が近づく方が栄養価が高いんですよ」


 男性は納豆を見つめながら答えた。

 数年間スーパーで働いているのに私はそんなことも知らなかった。


 私だけじゃなく、多くの人が納豆を奥からとっていく。特に深く考えず、他の商品と同じだと思って。


「知ろうとしないのは損だと思います。だから僕は、好きなもののことは必ず知ろうとしています」


 男性はそう言って再びレジの方へ歩き出した。


 知ろうとしないのは損。頭の中でそう反芻しながら、ゆっくりとサービスカウンターに戻った。


 淳樹はもういなかった。

 

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