10 夫の元不倫相手とラブホテル

 イランイランの甘ったるい香り。間接照明に照らされた薄暗い部屋。キングサイズのベッド。七色に光るジャグジー。

 典型的なラブホテルの部屋で、歪な関係の男女三人。

 

 この異様なシチュエーションはマイカの指示によって生まれた。彼女は中年男性に、顔面を強打してひるんでいる私を担ぐように指示した。そして運び込まれたのがラブホテルだった。


 色々と言いたいことはあったが、助けてもらっている以上文句を言うわけにはいかない。結果、売春を止めようと動いたのに自分がラブホテルのベッドに寝かされるという有様だ。出血も酷く、中年男性のシャツに血をつけてしまった。


「サトウさん、ばんそうこう買ってください」

「マイカちゃんの望みならしょうがないな」


 若い女性に頼られて嬉しいのか、口元の緩みを隠しきれていない。彼は黄ばんだ歯を見せながら「待っててね」というと、部屋を出て行った。


 図らずしてマイカと二人きりになる。意図的に避けてきたのに、まさかこんな形で対峙することになるとは。淳樹の元不倫相手に借りまで作ってしまった自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになる。


 その感情を跳ねのけたくて、マイカに言葉をかけた。


「助けてくれたのはありがとうございました。でも、売春はダメです。違法だから」

「バイシュンじゃなくてバイトです」

「性的行為を伴うなら売春でしょう」

「チガいます」


 鼻につく声音が力強く響いた。表情はフードに隠れていてわからない。


「サトウさんとセックスしてません」


 アニメのキャラクターのような声でセックスと言われて面食らう。随分はっきりと性的な言葉を言うあたり、信用できない。


「それは嘘。だってホテルに入ろうとしていましたよね?」

「ハイ」

「じゃあすることはひとつでしょ」

「ラブホテルですることはセックスだけときまってますか?」


 断固として認めないマイカに苛立ちを覚える。性的行為以外に何の目的があるというのだ。絶対に引き下がりたくない。


「お金もらってたでしょ?」

「ハイ」

「どう考えても売春じゃない?」


 だんだん自分の言葉が荒くなっていく。しかし彼女は敬語を崩さない。その妙な冷静さも苛立ちを助長させる。顔が強張り、傷口がひらく感覚があった。思わず目を眇める。


「サトウさんはカノジョができたときのためのレンシュウでバイト代をくれます」

「はあ?」

「セックスしてません」


 ついに怒りは閾値を超えた。


「淳樹と寝たでしょ」


 感情が決壊していく。もう我慢ならなかった。


「私の夫と寝たんでしょ!」


 声が震えた。怒りが先行していたはずなのに、自分の惨めさにいたたまれなくなる。感情が迸り、胸が締め付けられ、涙がとめどなく溢れていく。傷口に染みた涙が痛みをさらに抉る。


 辛かった。ただ幸せな結婚をして子どもが欲しかった。


 それだけだったのに、妊活に失敗して、不倫されて、離婚にも踏み切れなくて、結局また不倫されて。


 目の前の女は、きっと私の夫とセックスしたことすら忘れている。いろんな男をとっかえひっかえして好き勝手にヤッて、快楽もお金も得ている。


 何で真面目に生きようとしている人間の方が痛い目を見なきゃいけないの。


 嗚咽が混じり、視界が涙で遮られ、心も身体もめちゃくちゃになる。

 あの日自殺しかけた華奈の気持ちがよくわかった。


 死んで、楽になりたい。


「アナタでしたか」


 マイカの言葉が耳朶を打った瞬間、息が吸えなくなった。

 彼女は静かにフードを下ろし、私に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい」


 彼女の声は、震えていた。

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