15

 


 帰り支度を始めると、いつものように篤弘は七緒のところにやって来た。

「帰ろうぜ」

「ああ」

 こちらを見ている茉菜に気づいて、七緒は軽く手を振った。

「茉菜、また明日」

「またね」

 七緒は鞄を持ち、先に廊下に出ている篤弘の後を追って教室を出た。

「いつものとこ寄ってこうぜ、バイトいつもの時間だろ」

「そう、十七時」

「じゃあまだ時間余裕だな」

 七緒は頷いた。

 昇降口で靴を履き、外に出る。曇り空の今日は風がいやに冷たく一気に冬に近づいた気がした。

「来週は塾の模試かよ、だるいな」

「その先は受験一色だな」

「まあな」

 他愛ない会話を交わしながら行き慣れたファストフード店までの道を歩く。

 あれから二日経ったが篤弘の様子に変わったところはない。七緒もあれは気のせいだったと思うことにして普段通りに過ごしている。だが気持ちはずっと、どこか落ち着かなかった。

 いつも通りだ。

 前となにも変わらない。

 でも違う。

 同じようで違う。

 何かが違う。

 でも一体何が違うのか説明できない。

 七緒は篤弘に視線を向けた。

 少し前を歩く彼にこの間のような気配はない。

 あんな、心が凍るような…

「……」

 それに七緒にはもうひとつ気にかかることがあった。

「おい七緒、なにしてんだ」

 篤弘の声に我に返ると、ふたりの間にはさっきよりもずっと距離が出来ていた。

 どうやら考え事をしているうちに立ち止まっていたようだ。

「早くしろって」

 不機嫌に篤弘の顔が歪む。

「ごめん」

 そう言って七緒は駆け寄った。

 やっぱりだ。

 篤弘の体からあの揺らめきが完全に消えている。



 出会った頃からずっと、篤弘の肩の上はいつもゆらゆらと揺れる水面のようだった。ここ一年はその波が激しく、七緒は注意していたのだが──

「そこ座れよ、オレ取ってくる」

「ああ、うん」

 いつも座っている窓際を指差して篤弘は受け取りカウンターの方に行った。店内は同年代の高校生や休憩中のサラリーマン、子供を連れた母親たちで混雑していた。先に席を取っておかないと座れそうにない。二手に分かれたのは正解だ。

 七緒は篤弘の鞄を持ち、窓際の席を確保した。

「あれ、先輩」

 座ろうとしたとき、横から声がかかった。顔を向けて、あ、と七緒は声を上げた。

「高橋くん」

 梶浦の友人がトレイを持って立っていた。

「偶然ですねー」

 どうやら席を探しているらしい。辺りを見回して、七緒が座ろうとしている席の隣が空いているのを見てにこりと笑った。

「先輩そこ空いてる?」

「あー…、ごめん、友達と一緒で…」

「あっそうなんだ、ならいいです」

「ごめんね」

「どうせすぐ空くし」

 申し訳なく思いながら謝ると、高橋はあっけらかんとした笑顔で言った。

「高橋くんひとり?」

「そうです。これから塾行くんで腹ごしらえってところです。先輩は?」

「おれはバイト、友達は高橋くんと一緒」

「塾ってなぜかお腹空くからなあ…、あ、先輩僕のお弁当いつ作ってくれる?」

 ねえいつ? と念押しされて七緒は苦笑した。高橋と知り合ったのは、二日前の屋上でだ。授業をサボった梶浦を探してやって来た高橋が、なぜか梶浦の弁当を屋上まで持って来たのだった。

『カジ! 屋上どう? 僕パン買って来たから一緒に食べよう…、え?』

 高橋の大きな声で七緒は目が覚めた。

『三年生だ』

 目を擦りながら欠伸をする七緒を見て、高橋はびっくりした顔をしていた。どこかで見た顔だと七緒は思った。

『高橋』

 梶浦の声は少し困った色をしていた。

『男だ…』

 高橋はぽつりと呟いた。

 男?

 なんだろう?

『? 詞乃、友達?』

 梶浦は七緒を振り向いて、ああ、と頷いた。

『さっき話したクラスの委員長だよ。ここの事を教えてもらった』

『あー…』

 そうだ。いつも梶浦と一緒にいる彼だ。

 食堂でよく見かける。

『えっ、先輩誰?』

『誰って…』

 高橋は梶浦と七緒を交互に見比べている。転校してきたばかりの梶浦が三年生の七緒と屋上で座っていたら──しかも七緒は梶浦の肩を借りて眠っていた──それは困惑するだろうな、と七緒はとりあえず説明することにした。

『三年の奥井です。それで、詞乃の隣に住んでます』

『は?』

『えと、要するにお隣さんってわけ』

『お隣さん?』

『そう』

『なんで?』

『なんで?、?』

『ん?』

 わずかな間高橋と七緒は目が合ったまま黙り込んだ。えっ、と最初に声を上げたのは高橋の方だった。

『そんなことある?』

 七緒はその言い方がおかしくて思わず笑ってしまった。

『あるみたいだよ』

『へえー』

 納得したのかしてないのか、高橋は首を傾げながらそう言った。

『何しに来たんだ』

 黙ってそのやり取りを見ていた梶浦が平坦に訊くと、高橋は思い出したように持っていたものを梶浦に差し出した。

『ここで昼ご飯食べようと思ってカジのも持って来たの。ほら』

 差し出された包みを見て、あ、と七緒は思った。

 高橋は七緒と梶浦の前にしゃがみ込んで、持っていた紙袋からさっさとパンを取り出し始めた。

『ねー先輩聞いて! この男、彼女にお弁当作ってもらってるんですよ』

『か…』

 彼女?

『高橋、だからそれは』

『だからなに?』

『だから、』

 梶浦を制止して高橋は続けた。

『ね、でね、最近急に持って来るようになっちゃって、それでね』

『ご、ごめんっ』

 慌てて七緒は高橋の声を遮った。

『それ、作ったの、おれなんだ』

 え、と高橋が動きを止めた。パンの包みを開けようとしていた手が固まった。

『えっ、先輩?! 先輩が作ってるの? なんで?』

『な、なんでって…』

 興味津々な目で見つめられて汗が噴き出した。

『ひ、ひとつ作るのもふたつ作るのも、同じって言うか…そんな感じ、かな』

『……』

 わずかに落ちた沈黙に、すっと頭の芯が冷えた。

 改めて考えてみれば、隣に住んでるからと言う理由だけで男が男に弁当を作るのはどう考えてもちょっと変だ。さっき自覚したばかりの梶浦に対する気持ちを気づかれてしまう。

 隣には梶浦もいるのに。

 どうしよう。なにかもっとうまく言えばよかった、と考えていると、高橋が感心したように声を上げた。

『へえええ! 先輩凄い! いいなあカジ』

『え…?』

 予想外の反応だ。目を丸くすると、高橋は弁当の包みを本人の許可なくさっさと開け始めた。

『こら高橋やめろ』

『いいだろー? ほらこれ、先輩僕これが食べたい』

 弁当の蓋を開け、高橋は中身を指差した。

 卵焼きだ。

 今朝焼いたものを自分と梶浦とで半分ずつにした。

『一回も食べさせてくれないから、僕の分もお願いします』

 もう一個増えてもいいよね、と言われて七緒は噴き出した。

 ひとつもふたつも変わらないと言ったのを逆手に取られている。

『そんなに美味しくないかもだよ』

『いいの、これがいいです』

 明るい声で高橋が駄々をこねる。それを見ていた梶浦が呆れたような視線で彼を見ていた。その光景がまた可笑しくて、七緒はずっと笑いが止まらなかった。



「昨日もないし、絶対今日だ、って思ってたのに」

「ごめん、近いうちに作るって」

 昨日は急すぎたし、今日は朝作る時間がなかった。梶浦が弁当ではなかったのを高橋は残念に思ったらしい。

「ほんとですよ? じゃあ僕と連絡先交換しましょ」

「え?」

「朝作ってくれたら僕に知らせてください」

「なんで?」

「僕が嬉しいから」

 高橋は七緒にトレイを渡し、携帯を取り出して慣れた仕草で片手で操作した。渡したトレイを引き取ると、携帯の画面を七緒に見えるように差し出した。

「先輩これ読み取って、アプリ入ってるでしょ」

「ああ、うん」

 言われるがままに携帯を取り出し、画面のQRコードをアプリから読み取ると、高橋と繋がることが出来た。高橋は七緒のほうでそれを確認してから適当なスタンプを七緒に送り、満足げに頷いた。

「これで僕と先輩は繋がったね」

「なんか…、手慣れてるなあ、高橋くんって」

「なにそれ」

「わかんないけど、なんか女の子にモテそうだよな」

 七緒はあまり携帯を使いこなせない。感嘆しながら言うと、高橋がため息をついた。

「何言ってるんだか、それは先輩でしょ」

「おれ?」

「モテる顔ですよそれ」 

 モテる顔ってなんだ?

「ちょっとメンヘラとか寄って来そう…あとカジも、あいつは確実にモテる顔」

「それはまあ…」

 なんとなく分かる気がする。

「彼女いるって話、聞いたことあります?」

「え…」

 どきりとした。

 彼女という言葉に反応しそうになり、ぎゅっと手の中の携帯を握りしめた。 

「夜に一緒にいるところをクラスの女達が見たって。先輩知らない?」

「し…知らない、かな」

 女性と一緒にいた梶浦を思い出す。

「先輩見かけたら──」

「おい、七緒」

 篤弘の声にびくりと肩が跳ね、七緒は思わず携帯を取り落とした。拾おうとするより早く、篤弘がさっと手を伸ばして拾い上げた。

「ごめん、ありがとう」

「誰こいつ」

 顎を突き出し、ぞんざいな態度で高橋を見る。ぞわりと七緒の胸に嫌なものが広がった。この感じ。

 あれが視えるときの気配だ。

 でも篤弘の体には何も視えない。

「二年の高橋です。奥井先輩とはバイト先で知り合ったんですよ。ね、先輩」

 にこりと高橋は屈託なく篤弘に笑い、七緒を見た。

「バイト?」

「ほらスーパーの。僕はすぐ辞めましたけど」

 ね、と高橋に言われて七緒は頷いた。なぜだかは分からないが、高橋は篤弘に梶浦の名前を出さないようにしているのだ。バイト先だと言えば、後輩に知り合いのいない七緒にも無理のない作り話になる。

 なんで…

「じゃあ先輩、僕あっち空いたから」

「あ、うん」

 話しているうちにちらほらと空席が出来ていた。

「また」

「さよなら」

 高橋は篤弘に頭を下げて奥の席に行ってしまった。

「なんだあいつ、…くそ、もう時間あまりねえな」

「早く食べよう」

 苛立つ篤弘の肩を叩き、七緒は椅子に座った。

 指先には何も感じない。

(おれの力がなくなってきてる…?)

 でも。

「おまえさ」

 篤弘がハンバーガーの包みを剥きながら、七緒を横目に見た。

「ああいうのが好きなわけ?」

 ぬらりと光るような視線に背筋がざわついた。

 なんでもないように七緒は言った。

「…何言ってんだよ」

「楽しそうだったじゃん」

 力がなくなりつつあり、揺らめきが視えなくなっているのなら、この、篤弘から感じる気配は何だというのか。

「ああいうやつだから、そう見えたんじゃない?」

「ふーん」

 ふいに篤弘が七緒の耳元に口を寄せた。

「本当にそれだけ?」

「──」

 ざあっと全身に鳥肌が立った。

 手に持っていたドリンクのカップがかたかたと震える。七緒はぎこちない動きでトレイに戻した。

 気持ち悪い。

 左の肩が疼くように重い。

 唐突に篤弘が七緒から離れた。

「早く食おうぜ」

 そう言った篤弘の声は普段の声だ。重苦しかった感じは拭ったように消えている。

 元に戻った?

「うん、…遅れるかも」

「やば、急ごうぜ」

 七緒はぎゅっと右手で左肩を握り込み、頷いた。

 思い違いでなければ、そこはあの日篤弘が七緒に触れた場所だ。

 一瞬目の前が真っ暗になったあの瞬間。

 あれは何だったのか。

 そして七緒の気のせいでなければ、疼きは日に日に重くなっている。

 暗く深いところに沈み込むような、…

(詞乃…)

 話し続ける篤弘の隣で、七緒はひどく梶浦に会いたいと思った。

 今ここにいてくれたら。

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