12


 繋いだ手から伝わる温もりは変わらず温かかった。

 この手に初めて触れた時のことを知っている。

『だから言ったんだ』

 覗き込む目は怒りながらも心配が滲み出ている。

『無茶ばっかりして…どうしようもないな』

 傷を手当てしようと伸びてきた手を振り払った。

『やめろ』

『…いいから、ほら──』

『っ、やめろって言ってるだろう!』

 カッとなって手首を掴んだ。

 その細さにはっとして気を取られた瞬間、彼はさっと手を振り解き、でたらめに治療して雑に当てただけの包帯を一気に剥ぎ取ってしまった。

『…ッ!』

 声にならない痛みが全身を襲う。衝撃で逃げそうになった体を彼が引き戻した。

『ほら見ろ、膿んでるじゃないか』

 どろりと沁み出した液体が傷口全体を覆っていた。自分でも目を背けそうになったそこに、彼は持って来た水差しを持ち上げると、上から遠慮なしに中の水をぶちまけた。

 声にならない痛みに悶絶する。逃げようとした足をぐっと押さえつけられた。

『く、ッ…! ウウっ』

『じっとしろ、きみがしたんだろ』

 ばしゃばしゃとまるで優しくない手つき。

 信じられない。

『誰が好きで、っ、こんなことするか!』

『そうなのか? へえ? てっきり好きでやってるんだと思ってたよ』

 顔に似合わず辛辣な物言いに内心で驚いていると、彼はふっと顔を上げた。

 目が合った。

 その目が優しく緩む。

『…なんだ? 痛すぎて泣いてるのか?』

『なっ…!』

 誰が泣くか、と怒鳴ると、彼は可笑しそうに声を上げて笑った。

『ほら、もう終わる。この薬は効くから、きっとすぐに治るよ』

 白い指先が綺麗に洗われた傷口に軟膏を塗っていく。その仕草はさっきとは比べ物にならないほど優しかった。

 軟膏を塗った上に薄い紙のようなものを被せ、新しい包帯で覆っていく。

 その作業をじっと見ていると、彼が言った。

『そういえば、名前をまだ聞いていなかったな。きみなんて言うの?』

『……』

『僕は──』

 答えずにいると、彼は自分の名を名乗った。

 だがそこだけ強く風が吹いて聞こえなくなる。

『きみは?』

 俺は、と声に出した。

 聞き逃した名前をもう一度聞きたかった。

『シノ』

『シノ?』

 本当はもっと長い。シノは通り名だった。

 でもそれを他人に教えるのは嫌だった。

『…シノだ』

 だが、彼に今ここで言わなかったことを後で心底後悔することになるとは、このときはまだ知るはずもなかった。


***


 夢はいつも起きたときには覚えていない。

 その朝も何かを見ていたはずなのに思い出せなかった。

 あれは一体──


「奥井くん、ちょっと、ちょっと!」

 はっと顔を上げると近くにいたパートの人が吃驚したような顔でこちらを見ていた。七緒の手元を指差して何かを伝えようとしている。

「へ? あ、っ、あ!?」

 手元を見ると冷凍食品を常温の棚に並べていた。

「うわまず…っ」

 どれだけぼんやりしていたのか、パッケージの表面には結露がびっしりとこびりついていた。

「やだもう、ほら手伝うから早く早く」

 手に持っていた分まで取り上げると、彼女は七緒の足下の段ボールに商品を全部戻した。荷台を押して冷凍コーナーへ行く彼女を、七緒は急いで追いかけた。

「すみません、おれぼうっとしてて…」

「いいからいいから、店長来る前に片づけよ。来るとうるさいしね」

 早く早く、と急かされて七緒は手を動かした。今店長は外に出ているが、いつ帰って来てもおかしくはないのだ。

「あの人最近苛々しててすぐ八つ当たりしてくるからさあ、奥井くんも気をつけなきゃ」

「はい」

 そういえば彼女は──田中はつい先日店長に呼び出されて裏で怒られていた。七緒はたまたま用があって通りかかったのだが、かなりきつい叱責を受けていた。それもそれほど怒るようなことでもないことで。

「大したことないのにチクチクうるさいから、私もそろそろ辞めようか考えてるのよね」

「え、辞めちゃうんですか」

「真面目にやってるのに言われるとちょっとね」

 彼女はこの店では長く働いている人で、分からないことも彼女に聞けば大抵解決する。いなくなると困る人だ。

 冷凍ケースに商品を全て収め、ぱたんとドアを閉めると、田中は肩を竦めた。

「奥井くんももうちょっと働きやすいところ探したほうがいいかもね」

「はあ…」

 そう言って田中はさっと持ち場に戻って行った。七緒も段ボールを片付けてカートと一緒に裏に持って行く。

「裏行きまーす」

 決まりとなっている声かけをしてスタッフ用のドアをくぐった。段ボール置き場に行く途中で、裏口から入って来た店長と鉢合わせた。

「あ、お疲れさまです」

「おつかれさま」

 すれ違った瞬間、店長の体からふわりと立ち上るゆらめきが見え、はっと七緒は振り返った。

「店長」

 思わず店長の背中に手を伸ばした。だが一瞬早く店長は七緒を振り向いた。

「何?」

「ああ、いえ、…なんでも」

 宙に浮いた手をさっと引っ込めると、彼は心底嫌そうな顔をして七緒を睨みつけた。

「いいからさっさと給料分の仕事して」

「はい、すみません」

 きつい言い方に目を瞠る。

「…ったく、これだから…」

 七緒から顔を背けると、店長はそのまま事務所に入ってしまった。彼の背中に貼りついていた揺らめきが、尾を引くように通路に残る。

 やがてそれも空気に溶けるようにして消えた。

 あんな言い方をする人ではなかったのに。

「……」

 一体どうしてしまったんだろう。



 バイト先を出た頃には二十二時半を回っていた。帰り際に店長に掴まり、バイト中の失態をくどくどと叱責された。

 田中が告げ口をするはずもないから、他の誰かにでも聞いたのだろう。

 冷たい風に身を竦ませながら大通りまでの道を歩く。明日は月曜日、篤弘とも顔を合わせなければいけない。

 ポケットから携帯を取り出して画面を明るくする。待機画面にはずらりと通知が並んでいる。

 全部篤弘だ。

 昨日の土曜の朝からずっと、こんな感じなのだ。

「どうしちゃったんだよ…」

 篤弘はこんなふうじゃなかった。

 中学で仲良くなって、それからずっと親友と呼べる人は篤弘しかいなかった。癇癪持ちで怒りっぽいけれど、いつも何かあれば心配をしてくれる。周りの人たちからは篤弘から過干渉気味だと指摘されることもあったけれど。

「大丈夫かな、あいつ」

 それでも友達だ。

 付き合う中でいいことも悪いこともあるのは当たり前なのだ。

 手の中で携帯が震え、通知がまたひとつ増えた。

 篤弘からのそれにため息を落としながら七緒は既読をつける。

 家か、と尋ねるメッセージに、バイト終わり、と短く返した。画面を閉じてポケットに仕舞う。大通りはもうそこだ。なんとなく早く明るいところに出たくて足を速めた。角を曲がり、人通りの多い中に入ってほっと息を吐く。

 粘りつくようだった空気がさっと消えた気がした。

 夏でもないのに。

 思わず来た道を振り返るが、何かがあるはずもない。

 単なる気のせいだと、バス停に向かって歩きはじめた七緒は、目を丸くした。

「え…、」

 なんで?

 少し先にあるバス停のそばのガードレールに梶浦が腰掛けていた。

 七緒に気づき、ひらりと小さく手を振った。

「お疲れ」

「な、何してんの…っ」

 小走りに駆け寄ると、梶浦は腰掛けたまま七緒を見上げた。

「ちょうど帰る頃だと思って」

「え…、それで?」

 それだけの理由で?

 ああ、と梶浦は頷いた。

「少し用があって出てたから」

「あ…」

 用があって──

 梶浦が女性と寄り添っていた場面を七緒は思い出した。

 そうだ、この向かいだった。楽しそうに笑い合っていたふたり。

 どうして忘れていたんだろう。

「そうなんだ、へえ」

 なぜか動揺している自分に驚きながら七緒は笑顔で誤魔化した。

 コートの前を合わせるふりをして胸を押さえた。胸の奥が絞られるように痛い。

 用事って、彼女と会っていたんだろうか。

「夕飯は? 何か食べた?」

「うん、ちょっとだけ…」

「昼に食べたあれ、また食べないか?」

「え」

 今日の昼は梶浦と一緒だった。昨日園に一緒に行ってくれた礼として、昨日のバイト上がりに店のパートの人からこれが美味いと教えてもらったラーメンを買って帰り、それを作って一緒に食べた。

「そりゃいいけど…」

「この先の店で買って帰ろう」

「いや、まだもう一個あるから」

 篤弘が来るかもしれないと、念のために三つ買っていた。だが、結局篤弘はメッセージを寄越すだけで姿を見せなかった。

 それを半分にすればいい。

 そう思った七緒の考えを読んだのか、梶浦はくすっと笑った。

「足りないよ」

 行こう、と言って梶浦は立ち上がった。道沿いの少し先には二十四時間営業のスーパーがある。

「…そんなに美味かったか?」

「美味かったよ」

「……腹減ってんの?」

「減ってるよ」

「夕飯食わなかったのかよ」

 七緒は夕方に家を出たから、梶浦がいつ出掛けたのかは知らないけれど。

 彼女と一緒だったなら、夕飯ぐらい一緒に食べたりするだろう。

 ため息まじりに言うと、梶浦はさらりと食べてないと言った。

「食べるの忘れてたんだ」

「え?」

「昨日の賑やかなやつに中てられたのかもな」

 昨日の騒々しさ、子供たちに絡まれながら食べた落ち着かない食事風景。あれが癖になったみたいだと梶浦は続けた。

「だからって…、忘れるなよ」

「七緒と食べようと思って待ってたんだ」

 その言葉に意味もなく胸が詰まった。覚えのない既視感が全身を廻る。

 いつか、同じことを言われた気がした。

 全く同じことを…

「詞乃って変なやつだよな」

「そうか?」

「そうだろ、絶対」

 自分で買って家で待っていればいいだけのことだ。同じ場所に住んでいるのだから、わざわざこんなところにいなくたって。

「…変なの」

 でもどこか嬉しがっている自分はもっとおかしい。

 バスがやって来た。バスはまだ最終ではなく、これに乗らなくても次があった。

「じゃあ買いに行こ」

 そう言うと、梶浦が七緒の肘を掴み、歩くのを促した。

 停車したバスは誰も乗せずに発車した。

 数歩歩いたとき、梶浦が後ろを振り返って見ていることに七緒は気がついた。

「どうした?」

 なにかあるだろうか。

 七緒も振り返ろうとして、背中を押された。

「何も。ちょっと先に行っててくれ」

「え」

「すぐに追いつく」

 と梶浦が耳元に声を落とす。

 鍵を落としたと言って梶浦は来た道を戻った。七緒はその後ろ姿を見ていたが、先に行ってと言われた通りスーパーへと歩き出した。



 梶浦は道の端に屈みこんだ。

 暗がりの中に目をやると、ぼんやりとした残滓が尾を引くように闇の中に溶けていくところだった。

 こんなところまで。

「…失せろ」

 ぱちん、と指を弾くと、それは突風に吹き飛ばされたかのように一瞬で消えた。

 それを見届けた梶浦は七緒の後を追ってその場を離れた。


***


 短い返事は苛立ちを募らせるだけだった。

 暗闇の中で握りしめた携帯が、みしりと音を立てた。

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