3


 朝の支度をしながら、七緒は昨日の残り物を詰めて簡単な弁当を作った。大抵はご飯をラップに包んでおにぎりを作って持って行くだけだが、今朝は余裕があったので卵焼きも作って入れた。そんなに料理は上手い方ではないが作るのは嫌いではない。

「あー、っと、そうだった」

 篤弘に借りていた本を思い出した七緒は、仕上げた弁当と本を鞄の中に放り入れた。後片付けをして火の始末を確認する。

「いってきまーす」

 口癖になっている言葉を声にして玄関を開けた。

「──あ」

 うわ。

 外に踏み出したところで、七緒は危うく人影にぶつかりそうになった。

「──」

「おはようございます」

 感情の乏しい顔でこちらを見返しているのは、一昨日隣に越してきたばかりの隣人だった。

 名前は梶浦という。

「…あ、っ、おは、おはようございます…」

 七緒は慌ててドアを閉めて鍵を掛けた。

 その間も隣人は立ち去ることもなく、無言でじっとこちらを見ていた。何だろう。早く行けばいいのにと思いつつ、気まずい空気に何か言わなければと七緒はにこりと愛想笑いを向けた。

「朝早いんですね…、…あれ?」

 七緒は目を瞠った。

 よく見れば、梶浦は制服を着ている。

 しかも──

 それ、と七緒は指差した。

「うちの制服…?」

 梶浦が着ているのは七緒と同じ制服だ。

 でもネクタイの色が違う。この色は。

「えっうそ! 年下なの!?」

 ふ、と梶浦は表情を緩めた。

 七緒の学校は学年ごとにネクタイに入っている線が違う。梶浦のネクタイの線は青色、一学年下だ。

「サラリーマンかと思った?」

「え、いや、だって…」

 初めて会ったときは私服だったし、なにより大人びた顔立ちや雰囲気でてっきりそうだと思い込んでいた。

「…うん、ごめん」

 素直に謝ると、何か言いたげな目線で隣人はじっと見下ろしてきた。気まずさを取り払うように七緒は言った。

「でも同じってすげえ偶然だな」

 そうだ、と思い立った。

「学校までの道分かる? あれなら一緒に行くか?」

 この辺は駅から離れているうえに住宅街と言うこともあって道が入り組んでいる。来たばかりの人には分かりづらいはずだ。

 これも縁なのだし。

 梶浦はわずかに目を瞠った。

「ありがとう、じゃあ」

 そうさせてもらう。

 少し考えてからそう言った彼の声は思うよりも柔らかく、ほっと七緒は安堵した。



「おはよー」

 教室に入ると、既にそこには篤弘がいた。行儀悪く机に腰を下ろし、クラスメイト達に囲まれて賑やかに話している。入って来た七緒に気づいた篤弘は軽く手を上げた。

「はよ、七緒」

「奥井ー眠そうだなあ」

「あーちょっと、そうかも」

 言われたとたんに欠伸をした七緒に、篤弘を取り巻いていたクラスメイト達が笑い声を上げた。

 ああそうだ、と七緒は鞄から借りていた本を取り出した。

「篤弘ありがと、忘れないうちに返しとく」

「おう」

 篤弘に本を渡し、七緒は自分の席に向かった。鞄を下ろして椅子に座る。授業の準備をしようと鞄を開けていると篤弘が目の前に立っているのに気づいた。

「なに?」

 七緒の顔を見下ろして篤弘が顔を顰めた。

「ほんと、めっちゃ眠そうじゃん」

「あーうん。まあ大丈夫だって」

 机に手をついて顔を近づける篤弘に七緒は笑った。

 昨日もバイトで帰りが遅かった。けれど今に始まったことでもないし、朝しばらく眠気が抜けないのはいつもだ。

「バイトばっかやるなよ。働き過ぎなんだよ。少し減らせって」

「それは無理」

「おまえなあ…」

 七緒はちらりと篤弘の向こうを見た。

「あっち、いなくていいのかよ」

「あ? ああ…いんじゃね?」

 さっきまで篤弘が座っていた机。その周りを取り囲み、まだ話している同級生たち。彼らとはもういいのだろうかと言った七緒の言葉に、篤弘は振り返りもしなかった。

「大した話でもないしさ」

「…ふーん」

 楽しそうだったのに。

「七緒さあ──」

 言い出しかけた篤弘の声に予鈴が鳴り響く。

 七緒は苦笑した。

「ほら、教室戻れよ」

「……」

 諦めたように篤弘はため息をついて体を起こした。彼の教室はふたつ隣の進学コースだ。そろそろ戻ったほうがいい時間だった。

 じゃあな、と言った篤弘に七緒は軽く頷いて見せた。

「またな」

 さっきまで話していた同級生の側を通って篤弘は教室を出て行った。その姿が見えなくなってから、クラスメイトのひとりがすれ違いざまにわざとのように七緒に顔を寄せて言った。

「なあ、おまえもあっちに行きたいんじゃねえのー? 奥井」

 含まれた嫌味に気づかないふりをして七緒は上目に彼を見た。

「そりゃおまえだろ」

 笑いながら冗談めかして言い返すと、同級生は鼻白んだように七緒から離れていった。



「はーい、ここ書き写して」

 高校に入学したころは、七緒も大学に行くことを目標にしていた。勉強もそこそこ出来るほうで、元々成績も悪くはない。人一倍環境のせいだとは思われたくないと思っていたから、人よりも努力をしていた。

 三年になるまでは常に成績上位にいた七緒のことを、同級生たちは皆知っている。

 もちろん教師もそうだ。

「奥井、ここ言えるな」

「──あー、はい」

 立ち上がり、黒板に書かれた数式を解く。たったそれだけのことで周りの空気がほんの少し変わる。

「よし正解。じゃあ次は…」

 白々しさを孕む雰囲気の中、椅子を鳴らして座ると、教師は他の生徒を当てようと視線をさまよわせた。運悪くうっかり目を合わせてしまったクラスメイトが名前を呼ばれる。気怠そうに立ち上がり、しどろもどろに答える声が教室にこだまする。

 ノートを取る手を止めて、七緒は窓の外に目を向けた。

 三年は進学の専攻によってクラスが分けられている──このクラスは就職、もしくは進路が決まっていない者の集まりだ。

「はい次行くぞー、次」

 だから、こんな時間には正直あまり意味がない。

 それはここにいる全員の認識だ。

『おまえもあっちに行きたいんじゃねえの? …』

 そんなことはない。

 でも傍からはそう見えるのだろうか。

「…──」

 期末テストに向けただけの授業を淡々とやっていく教師の声に、七緒は我知らずため息を被せていた。



 昼の時間になると、いつものように篤弘が教室まで七緒を呼びに来た。

 七緒は弁当を入れた鞄を持って、篤弘と一緒に学食に入る。ここはテーブルだけの使用も出来るので、篤弘と昼を取るときは大抵七緒は他の生徒に混じって、ここで弁当を食べていた。

 中に入った途端、あ、と七緒は声を上げた。

「梶浦くん」

 厨房前の受け取りカウンターのところに梶浦がいた。

 彼の横には同じ色のネクタイをした女生徒が立っていて、つられたように彼女もこちらを見た。

「奥井──先輩」

 梶浦が振り返った。

「あのあと大丈夫だったか」

 駆け寄ると、梶浦は小さく頷いた。

「大丈夫だったよ」

「そっか」

 今朝梶浦と登校した七緒は、事務手続きがあるからという梶浦を学校の事務まで案内したのだが、生憎いつもいるはずの事務員が不在だったため、急遽七緒は職員室まで走り、適当な教師を捕まえて事情を説明したのだった。運よく教頭が出勤していたので後は任せて七緒は自分の教室に向かったのだが…

「ならよかったよ」

 どうなったのかと気になっていたのだった。

 七緒はひょいとカウンターに出されたトレイを覗き込んだ。

「何頼んだんだ?」

 トレイにはまだ水しか載っていない。

「カレー」

「あー間違いないやつだ、それ正解だよ」

「そう」

 笑うと、きつい印象の梶浦の目元がふと柔らかくなる。

「なーなー何やってんだよ七緒」

 後ろから掛けられた声に、慌てて七緒は振り向いた。

「あ、ごめん」

「先行くぞ、席なくなる」

 じろりと梶浦を睨みつけた篤弘は、不機嫌さを隠すことなくさっと背を向けてテーブルのほうに歩き出した。その手にはいつの間に買ったのか、惣菜パンとサンドイッチと飲み物の載ったトレイがあった。

「ごめん、じゃあ」

 七緒は梶浦に軽く手を上げて、篤弘の後を追いかけた。

「悪い、待たせて──」

 篤弘はもう隅のテーブルに座っていた。

 その向かいの椅子を七緒は引いた。持っていた鞄をテーブルの上に置く。

「…あいつ誰?」

「え? ああ、昨日引っ越してきた人」

「…引っ越してきた?」

「うん。うちの隣」

 サンドイッチの袋を開ける篤弘の手が止まった。

「となり?」

 うん、と頷きながら七緒は鞄から弁当を取り出した。

「アパートの奥の部屋。ほら前は若いお母さんと男の子がいたじゃん? そこだよ」

「……へえ、そうなんだ」

「うん、一昨日バイトから帰ったときに玄関のとこで…」

「七緒! 今日も美味そう!」

 蓋を開けて箸をつけようとした途端、七緒の背にぐっとのしかかる重さがあった。

「えーじ、重いって」

 呆れ顔で振り返れば、よく知る友人が肩の上で満面の笑みを浮かべていた。

「うわ俺の好きなもんばっかじゃん、なあ取り替えようぜ」

「昨日の残り物だぞ?」

 卵焼き以外は、と言うと瑛司──沢田瑛司さわだえいじは嬉しそうに笑った。

「七緒の卵焼き美味いもん」

 あーんと沢田が口を開ける。

 仕方がないなと苦笑しながら、七緒は卵焼きを箸で摘まんだ。

「一個だけな、ほら──」

「七緒」

 沢田の口に押し込むと篤弘の鋭い声が飛んできた。

「早く食えよ。時間なくなるし。沢田も人のもん食ってんじゃねえよ」

「うっわ、こっわあ」

 睨みつける篤弘におどけてみせて、沢田はぱっと七緒から離れた。じゃあなと言って自分の席に戻って行く。

 篤弘は呆れたようにため息をついた。

「他人に簡単に自分のもの分け与えるなよ」

「おかず一個じゃん」

「それでもだろ」

 眉間に皺を寄せてサンドイッチにかぶりつく篤弘に、七緒は内心で息を吐く。彼は時々意味もなく不機嫌になり、攻撃するところがあった。

 今もそう。

 篤弘の右肩の上にゆらゆらと揺れる水面。

「篤弘も食う? 今日のは上手く出来てるけど」

「……」

 弁当箱を差し出すと、篤弘はじっとその中を見た。

 サンドイッチを持っていた手が、ゆっくりと弁当箱の中の卵焼きにのびる。

 口の中に放り込んだ篤弘を見て七緒は笑った。

「美味い?」

「…まあ」

 そう呟いた篤弘の声からは刺々しさが抜けていた。

 ゆらめきが消えた。

 ほっと安堵して、七緒はようやく自分の弁当に箸をつけた。

 何気なく視線を上げた先には、事務員と談笑する梶浦の背中が見えていた。見知った教師も会話に加わっている。

「そういえばさ」

 篤弘が言った。

「ばあちゃんちの猫、帰って来たって」


***


 ホームルームの終礼の声と共に七緒は立ち上がった。

 今日はこれからすぐにバイトだ。少し急がなければ間に合わないかもしれない。

「またなー奥井」

「またな」

「バイトー? おつかれー」

「おつ」

 軽口を交わしながら教室を出る。篤弘の姿はない。バイトがあることを知っているから、いつものようにこちらには来なかったのだろう。

「あー急がないと」

 廊下を走って階段を下り、昇降口で靴を履き替えて外に出る。ゆっくりと楽しそうに喋りながら歩いている生徒たちの間を縫うようにして、七緒は急ぎ足で校門をくぐった。

「あれ」

 随分と先の方を歩いている後ろ姿に、七緒は小さく声を上げた。

 梶浦だ。

 今帰っているのか。

「梶浦くん」

 追いついて七緒は背中をポン、と叩いた。

「もう帰んの?」

 驚いた顔をして振り返った梶浦に七緒はにこりと笑った。

「部活とか覗いてかないの」

「用があるんで」

 梶浦はかすかな笑みを浮かべた。

「先輩は?」

 その顔に七緒はどこか懐かしさを感じた。

 見たような──ないような。

 何だろう、これ。

「おれは今からバイト」

「へえ」

「じゃあ」

 また、と言って七緒は梶浦に手を振り追い越した。

 帰る場所が同じなのに、またと言うのもなんだか変な感じだった。


***


 その姿が見えなくなるまで、梶浦は七緒が走って行った先を見つめていた。

 触れられた背中が燃えるように熱いのは気のせいではない。



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