踵を返す

「おいおい、何が起きてるんだ」


 雑居ビルの最上階、瀬戸海斗は足元からくる不吉な揺れに対して、目を白黒させた。華澄由子の言いつけを律儀に守ることでしか、自分は安全を授かれないと、ある種の強迫観念に駆られてこの場に立っている。華澄由子の翼下にあれば、藍原という天敵を退けられる。そんな盲信を片手に雑居ビルの最上階へ待機することを命じられた瀬戸海斗の心は揺らぎ始めていた。


「ここにいて大丈夫なのか……?」


 下階の狂騒に不安を催し、事の正否を判断するのに甲斐甲斐しく頭を働かせる。どのような行動をとれば、不利益を被らずに済むのか。湯気を掴むかのような不確かさに瀬戸海斗は苦しむ。


 下階の騒がしさは増すばかりで、拙速な判断だろうと何か決めねば、禍根に巻き込まれかねない。瀬戸海斗は不意に雑居ビルの窓から外界を見下ろした。


「ん?」


 目を凝らす素振りを見せると、そぞろに広角が上がる。その視線の先には、二人の人影があり、瀬戸海斗はここに来てから初めて能動的な姿勢を見せる。華澄由子の言いつけを忘失し、窓ガラスを破って外へ飛び出したのだ。


 腰から拳銃を抜くかのようなバーテンダーと男の睨み合いは、瀬戸海斗が飛来したことにより、途絶する。


「次から次へと……!」


 後方に飛び退いて間合いを作るバーテンダーとは対照的に、男は瀬戸海斗に敵意を剥き出す。


「じ、じゃ、じゃまだ!」


 殴りかからんとする男の拳を瀬戸海斗は片手で掴んだ。そして、手首を捻り上げ、社交ダンスさながらに男を躍らせる。


「いっつつ」


 愉快な二人の隙をつき、バーテンダーは雑居ビルに向かって走り出す。


「何でそっち行くんだよ!」


 瀬戸海斗は草でも狩るように男の顔に先鋭的な回し蹴りを喰らわせ、意識を軽々と奪った。標的である藍原を背負って雑居ビルに入ろうとするバーテンダーを、瀬戸海斗はなんとか阻止したい一心で追いかける。


 だが、距離にして五メートルはあろうバーテンダーとの追いかけっこは、雑居ビルに近付いていくにつれて足の回転が鈍くなっていく。まるで縁切寺に駆け込もうとする者を必死になって、追いかけるばつの悪さだ。


(ふざけんな! 俺はそこに居たくないから、出張ったんだぞ)


 瀬戸海斗の思いに後ろ髪引かれて立ち止まるような気配が凡そないバーテンダーの後ろ姿は、雑居ビルへ取り付く島もなく消えていき、覚悟のほどを問われる。瀬戸海斗は思い出す。自分が一体どういった人間だったのかを。

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