ホテルにて

「いざこざ? 神田、ボクはキミに会員の統率を一任したんだ。キミがなんとかしてくれ」


 ネクタイを緩め、スーツに身を包んだ身体の鈍さをほぐすように肩を回す。三和土がない玄関の様子から、そこはホテルであることが分かる。男は土足のまま廊下を進み、直ぐ左手にあるベッドの上へ肩に掛けた鞄を投げようと構えた直後、まだ灯りを点けていない部屋の奥より、人の声が出し抜けに発せられる。


「こんばんは、鈴木さん」


 その男、鈴木というらしい。鈴木は熱にあてられたかのように飛び退いて、自衛を備える僅かな時間を作った。


「驚かせないで下さいよ!」


 鈴木は、暗闇に向かい苦言を呈す。


「脇が甘いですね。灯りも点けないなんて」


 声の主の指摘に鈴木は、一息つきつつ、遠回しな命令に従い部屋の蛍光灯を点けた。


「由子さん」


 黒いジャケットに黒いパンツスーツを着こなす、威風堂々と華澄由子が立っていた。


「倶楽部の如何を訊くにはまだ日が浅いかな?」


「収支からするにかなり、上手くいっていると思いますよ」


 鈴木はベッドに腰掛けて、得意げな顔を浮かべる。


「にしても、吸血鬼を相手に商売を考えるなんて、思い付いても普通やりませんよ」


「そうでしょうね。誰かさんに目をつけられるから」


 華澄由子は畳んだ左腕を胸の前に引き寄せて憂いらしきものを湛える。


「誰かさん……」


 尻切れトンボに鈴木の思案の入り口を見た。


「色々と任せてしまっているけど、問題がないなら良かった」


「えぇ、まぁ」


「何かあったら、連絡を」


 歯切れの悪さに拍車をかける鈴木の様子など気にも留めず、華澄由子はホテルの一室から出て行った。先ほど受けた一報を思い浮かべながら、鈴木は口の中に苦みを覚えていた。スーツから着替えることもせず、腰掛けたベッドの上でまじまじと考え込む姿勢を見せる。そのうち、貧乏揺すりが始まって、爪を噛むなどといった、典型的なストレスの発露が見え始めた。粗雑に頭を掻いたのを区切りに、後腐れを払拭するかのように勢いよく立ち上がると、電話を折り返す。


「神田、さっきはお前の判断に任せると言ったが、しっかりと対処してくれ」


 神田という姿の見えない相手に鈴木は頭を下げる。それは言い知れぬ不安からくる、嘆願じみた言付けであった。


「それじゃ」


 鈴木は伝えるべきことを伝えると、スマートフォンをベッドに放り、催した尿意のためにトイレへ駆け込む。その直後のことである。スマートフォンの画面に、「不明」と表示されて、呼び出し音が鳴り出した。排泄を途中で切り上げて電話に答えようとする気配がないまま、着信が延々と続く。やがて、トイレを終えた鈴木が戻ってくると、まるで相手が電話を切ることがないことを確信した悠長な所作でスマートフォンを手に取った。


「鈴木君、次の準備ができそうだよ」


「了解」


 隠語を含むことなく短いやりとりで互いが求める受け答えをこなす。額に汗して行った先ごろの会話とは打って変わって、鈴木は憂慮するような素振りは見せない。それどころか、いたく関心しきりの訳知り顔をした。

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