めくるめく

 人生に短いも長いもない。喜劇か悲劇かを語る口もない。今出来ることは、呆気ない幕切れだったと肩を落とすぐらいだ。もし仮に僕が語り手であるならば、頓挫した物語の続きを夢想し、仕掛け花火のように絢爛な飾り付けを施し新たな幕引き演じてやりたい。


 依然、暗がりながら僕は片目を開ける。聞き心地に関して言えば潜在的な要素が多く占め、共感を求めて口にすると肩透かしを往々にして食らう。だが、言わせてほしい。皮膚と食器が擦れ合って鳴る、甲高い音の耳障りさを。まるで汚れが落ちた証であると言わんばかりに音を立てられると、それはそれは不快極まり、丸太のように横たわっていた身体を起き上がらせる。


 男が台所と思しき場所を陣取り、数少ない照明の前に立っている。黒いベストに蝶ネクタイは、誠実でいることを誓った紳士のそれで、見事に着こなせば凛とした振る舞いも形作る。均整の取れた顎髭は、自己管理を怠らない律儀さであり、客商売をする上で欠かせない資質だ。


「あっ、起きた?」


 辺りは薄暗く、この部屋の広さを見透かすには夜目が足りない。


「一体、ここはどこですか」


「見ての通り、バーだよ」


 首から腰にかけて緊張の跡が残っている。僕は首に手をやり揉み始めると、男が目敏く食い付いた。


「ああ、ごめんね。そのソファー硬いでしょう」


 股ぐらから覗く、高級そうな黒い皮が弛むことなく張っていて、寝転がるには少々不便な環境だ。


「あの、何でここにいるんですかね? 僕」


 他人事のように聞こえるだろうが、華澄由子の部屋からこの場所へ移るまでの過程を一切知らない僕にとって、無鉄砲な疑問をぶつけるしかなかった、


「華澄さんに運ばれてきた。詳しい事情は知らないけどね」


 つまり、部屋で気を失った僕を華澄由子は急患まがいにここまで運んできたということか。


「伝言はあるけど、今聞く?」


 バーテンダーとしての器量に相応しい相手を慮る姿勢は、混迷気味な僕の心の整理を待つ気概があるように見える。ただ僕は、その気遣いを度外視して、今すぐに訊いてしまいたかった。


「聴かせて下さい。伝言を」


 バーテンダーが一つ咳払いをし、言祝ぐかのような緊張を胸の線に見る。


「目を覚ましたなら、貴方はもう何も怯えなくていい。これからどこにでもいける。だから、安心して」


 他意を含まぬようにバーテンダーは声を一定に保ちながら、華澄由子が残した伝言の復唱を終えた。すると、図ったかのように頭が痛みだし、俯かずにはいられなかった。


「だ、大丈夫?」


「頭痛薬ありませんか?」


「ちょっと買ってくるわ」


 つくづくこの店は繁盛とは縁遠いようだ。しかし、身元も分からない学生服姿の人間に留守を任せる了見は理解し難い。常識外れは今に始まったことではなかったが、こうも立て続けに起きるとさすがに感覚が麻痺してくる。

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