第20話
世田谷区に入ると、予想通りたくさんの矢印が入り混じっていた。遠いのやサナギを無視して、見る矢印を絞り込む。そうすると視界が幾分かマシになる。世田谷区でしか生きられない害虫の習性のせいだが、それにしても数が多すぎないだろうか。この無数の矢印の中から、馳川さんを喰ったチョウを見つけ出すことができたのならどれだけハシボソさんが救われただろうか。
そんなことを思っていたら、あっという間に目的地の公園に着いてしまった。
世田谷区でいま一番大きい森林公園。自然保護も兼ねていることもあり、あまり遊具は多くない。大きな湖を中心に森が広がっているので、森林浴として人気のスポットだ。
車を駐車場に停めて、俺たちはとりあえず湖の近くまで行くことにした。ハシボソさんが車椅子を押し、その後ろを俺とコクマルさん、ミヤマさんの三人がついて歩いた。
「不思議なのです。来た記憶はないのですが……ここの場所を知っているのです。そして懐かしい、と感じて……なぜでしょう、泣きそうになってしまいますの」
大きな湖の前にきて馳川さんは口元を押さえた。ハシボソさんがハンカチをわたしているから泣いているのかもしれない。俺たちは邪魔にならないように少し離れた。
「彼女の家族の記憶に関係しているのかもしれないね」
「ああ、もしかしたら……離婚する前に家族で来た、とかかもしれないな。なんであれ、おじさん達が入っちゃいけねぇところだ」
「もう少し離れた方がいいですかね」
ハシボソさんは馳川さんの隣にしゃがみ、何か二人で話している。あまり聞いても悪いと思い、俺たちは周辺の安全確認をした。
「こうも自然が多いと花の匂いも混じるから匂いがわからんな。ここはネロ頼りになるかもしれないな」
「近くには数人います。けど離れていくようなので大丈夫かと……思います」
そう言った矢先だった。急に矢印が太くなり、こちらに勢いよく近づいてきた。チョウだ。
「チョウが急接近してきてます! ハシボソさん! 右側から来る女性、チョウです!」
知らなければ、ただランニング中の女性が走ってくるように見える。それでも、俺には矢印でしっかりと見分けられる。ハシボソさんはすぐに懐から投擲ナイフを引き抜いた。ミヤマさんも鎖を飛ばす。コクマルさんは馳川さんを安全な距離まで離すために走って向かった。
そこまでを目で追っていたはずなのに、瞬きをした刹那、腹部の圧迫感と体の浮遊感の後に、俺の視界は真っ逆さまになった。頭が追いつかない。何が起こったのか。
「やっぱりミカドの能力は便利じゃん。奇襲とか楽にできるしさー、後世に残しなよソレ」
間近で聞こえた声に頭を上げるとタテハが俺を脇に捕まえていた。声を出そうとしたら口に丸めた布を突っ込まれてその上から手で押さえられた。木の上から俺を引き上げたとでもいうのか。これでも平均体重はあるはずだし、なにより落ちたら無事ではない高さだ。視界が逆さまなのは腹を抱えられて俺がえび反り状態だからか。馬鹿力か、コイツ。
「ボクみたいな根暗を相手にする女子がいるとでも? タテハさんみたいに明るくないし見た目も地味なのに能力だけでヤらせてくれる変わり者なんていないし。そもそもなんでボクがタテハさんに気配遮断を使わなきゃいけないわけ? こんなカラスを捕まえるくらいタテハさんなら朝飯前でしょ、雛鳥みたいだし武器も持ってなさそうじゃないか」
聞いたことのない声の方を見るとタテハの隣の枝に小柄な男が立っていた。木の幹に隠れつつ俺のことをジッと見てくる姿は、初対面の俺でもわかるほど陰キャの権化みたいだ。すごい早口で小声だ。
「いいじゃん。オレなんていらない能力って言われてるんだからさ。みんな遊びでしか寄ってくれねぇもん」
「これだから陽キャは……夏のビーチで過ちを犯しまくるタイプですな。というか目的のカラスを回収できたのなら速やかに離れるべきでは? カラスに特攻して行ったモモリさんも危ないし、ボクの気配遮断も目視されたら位置がバレるし……」
「平気平気〜。さっきキリシマを呼んどいたから、もうすぐそこまで来てるし」
口を押さえている腕を退かそうと両手で掴んでも微動だにしない。なんなんだコイツの阿保みたいな力は。
「キリシマさんを呼べるとか本当にタテハさんくらいしかいない……って、ここにいたら危ないしモモリさんが危ないじゃないか! そういうのは来る前に話してもらわないと困りますぞ!」
「大丈夫だよ、あそこにいるカラスがモモリとキリシマとおんなじ能力持ってるからさ。上手く相殺されて面白いことになるよ〜多分」
「はあぁー……本当にタテハさんの能力はいらないですわぁ。イモムシ時代からの仲だけど本当に敵に回したくないというか面倒くさいというか。ボクを売ったら本当に怨みますからな」
「ミカドがオレに協力しなくなったらそうするけど、今はしないよ〜」
「ボクの鱗粉を売ったヒトが言うセリフじゃねぇんですよ……うわぁ、本当にキリシマさん来たし」
「面白くなりそうじゃん、ほら、見てみる?」
タテハに無理やり顎を上げられて逆さまのまま下の様子を見せられた。先ほど走ってきた、二人がモモリと呼ぶチョウは、ミヤマさんとハシボソさんの猛撃を避け続けていた。その後ろからもう一人、おそらく二人がキリシマと呼んでいたチョウが歩いてきている。馳川さんを抱えてコクマルさんは三人から距離を置いているけど、戦況を見つつ多分俺を探している。
「キリシマの能力ってガチガチの戦闘向けだからさぁ、動きとか見て勉強してくれる? ジジイだけど動きはオレより速いからよく見ろよぉ」
「いやいやいや手から武器を射出するガチ勢を見て勉強させるとか無理ゲーじゃん。モモリさんならまだしもキリシマさんって」
「うるせぇーな、デコピンしてやろうかぁ」
「なんでもないですすみませんでした」
二人のどうでもいい話よりも、俺は下の混戦に目が釘付けになった。
まるでテレビの向こう側を見ているようだった。全てがすごくゆっくり動いて見えたのだ。
ハシボソさんの投擲もミヤマさんの鎖も紙一重で躱していくモモリというチョウ。
モモリの後ろで、二人の死角から黒い鎖を掌から射出してくるキリシマというチョウ。
安全圏から戦況を見て二人に指示を飛ばしているだろうコクマルさんが、ミヤマさんに何かを叫んでいる。
馳川さんはコクマルさんに抱き抱えられているから安全だろう。
「あはは、キリシマと同じ能力のカラス、よく動揺せずに戦えてんね」
タテハの笑い声に、俺は既視感があった。
そうだ。夏だ。夏休みに、友達と虫取りしたあの暑い日。捕まえた虫を虫かごから出して戦わせて遊んでいる時のあの感覚だ。タテハは、今ハシボソさんやミヤマさんと仲間の害虫を戦わせているのを、遊びとして楽しんでいるのだ。下のヒトをカブトムシやクワガタと同じように見ているのだ。
「モモリは相手の体力を消耗させてから仕留めるタイプだから戦い方がじれったいんだよねぇ……キリシマの方がわかりやすくていいと思うんだけどな」
「全員がタテハさんみたいに馬鹿力を持っているわけじゃないんだから無理だって。モモリさんの能力なんて相手と自分の距離を測るだけだし、戦闘向きじゃないのによく単騎でカラスの群れに突っ込んだよね」
「まあアレ罰ゲームだし? この間オレとゲームしてさ、ボロ負けしててウケたんだけど。カラスに売ろうにも微妙だから特攻してもらうことにしたんだ」
「相変わらず鬼畜ですなー」
ヒトの皮を被った害虫だとは思っていた。だけど今の会話を聞いて更に俺の中で嫌悪感が増した。
会話に気を取られていたら、いつの間にかミヤマさんとキリシマの一騎討ちのようになっていた。
ハシボソさんはモモリの足を捉えて転倒させた。そして首にナイフを突きつけ、なんの躊躇いもなく切り裂いた。やっと一匹を仕止めた。これで残るはキリシマというチョウだけ。
こっちの方が優勢になった。そう思った時、タテハとミカドが何かに気づいた。
「は? なに、あの花嫁喰ったのモモリだったわけ?」
「うええぇぇぇ! 美少女がボロボロの少年になるとか聞いてないでござるぅ! けっこう可愛いと思っていたのに、なんですかあの顔の傷! 火傷がただれたみたいな……うっわ、汚っ」
コクマルさんに抱えられていた馳川さんは、馳川さんではなくなっていた。
髪は短くなり、可愛らしかった顔の左上部分はケロイドが現れ、なぜか全体的な細さが増したように見えた。
それにコクマルさんもハシボソさんも気づいていた。ハシボソさんが駆け寄ろうとキリシマとミヤマさんに背を向けて走った。
コクマルさんに下に降ろしてもらった馳川さんもハシボソさんに向かって走った。
そして馳川さんはハシボソさんを通り越して、ハシボソさんの後ろに走り出た。
なぜ自分を通り越したのか、とハシボソさんが振り返る。
そこには、無数の黒い鎖が体に刺さった馳川さんがハシボソさんを守るように立っていた。
時が、止まったのかと思った。
ミヤマさんの鎖がキリシマの鎖を防ぎきれず、ハシボソさんを狙った鎖を、馳川さんが身代わりで受け止めた。
あまりの事態に信じられなくてコクマルさんを見たら、いつの間にかミヤマさんの加勢に入っていた。
ハシボソさんは、崩れ落ちた馳川さんの体を抱き抱えて呆然としていた。無理もない。目の前で馳川さんが、実の弟が死んだのだから。
「ふうん……あれが兄弟愛ってやつ?」
「タテハさんには無縁なやつですな。あんな自分を命を捨てて守るとか守られるとか、ないでしょ」
「ミカドォ、あとでオレとゲームしよっかぁ?」
「すみませんでした嘘ですそれだけは本当に勘弁してくださいお願いします」
あまりのことに動けなくなった俺の体を器用に持ち直し、俺の視界は逆さまから元に戻った。それでも見えているものは変わらない。ただ、血の気が引いて頭のてっぺんから身体中が冷えていく。
あのミヤマさんが防ぎきれない、などあり得るのだろうか。あんなに正確に素早く害虫を駆除するミヤマさんが。そう思っていたら、タテハが面白そうに笑いながら俺に耳打ちした。
「あのカラス、気づいたのかもしれないけどもう遅いんだよねぇ」
ミヤマさんの加勢に入ったコクマルさんの動きが変だった。立ち位置が、まるで二人を相手にしているようだ。
「どうせカラスってオレらと同じ能力を無償で使い放題だと思ってんだろ? そんなわけねぇじゃん。能力を使いすぎて心が空っぽになったら、オレらの操り人形に成り下がるって知ってた?」
鳥肌が立った。まさかミヤマさんが鎖を防ぎきれなかったのではなく、見逃した、ということなのか。
「あのカラスはもうキリシマを殺さないと元に戻らないし、あのゴツイカラスの死亡は決まったな」
「でもまだ完全じゃないからキリシマさんに攻撃してるっぽいし……え、鋼のメンタルとか引くわぁー」
「時間の問題だろ? キリシマに貸し一つ作れたし、後でご飯奢ってもらおーっと」
「ええ……手駒増やしだけでご飯奢るとかないわぁー」
ミヤマさんとキリシマの両方から射出される鎖をかわしきれず、コクマルさんはミヤマさんの鎖に縛られて湖に突き落とされた。
そしてミヤマさん自身も、壊れたブリキのおもちゃのようにぎこちなく歩いて、湖に落ちてしまった。
「うわ……もったいなぁ」
タテハの感情のない呟きが体の力が抜けた俺に落とされた。
湖から二人が這い上がってくることはなかった。
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