第3話

 母の墓参りから一週間が経った頃だった。

「じゃあ今日はバイトあるから、帰りは多分九時くらいになると思う」

「わかった。先に父さんはご飯は食べとくから、帰ってきたら温めて食べなさい。テーブルに出しとくから」

「うん、ありがとう。じゃあ行ってきます」

「いってらっしゃい」

 あの変な話はあれきりしていない。普段と何も変わらない日常を送っていた。そう。今日の朝までは。


 大学から直でバイト先へ向かい、夕方から働いて八時に上がった。いつもならすぐに帰るのだが、バイト先の店の裏口を出たところにあの青髪が立っていた。思わず二度見をした。

「バイトお疲れさま〜。けっこういいところで働いてるんだねぇ。時給いくらなの?」

 ひらひらと手を振りながら近づいてきた。また甘ったるい香りがする。前よりも強く感じた。

「俺になんの用ですか」

 父の言うことが正しければ、コイツは人間ではなくチョウ。人間ではない生物だ。

 大通りを背に、路地に立つ男は不気味な笑みをうかべている。

「用……用といえば、大事な用事があったんだけど。もっと面白いことを思いついたから、プラン変えちゃおうかな〜」

 甘い香りがより強くなったと気づいた時には、俺は男に後頭部と腕を掴まれ引き寄せられていた。抵抗しようにも力が強くてびくりとも動かない。

「オレはタテハっていうんだ。もし気が向いたらオレを駆除しに来てみてよ」

 男はそう言いながらこめかみを俺の頭に擦り付けてきた。甘い匂いが強くてキツくて気持ち悪い。鼻が壊れそうだ。

「オレの能力だったら探すのは簡単だろうから、あとはどれだけその殺意を武器にできるかな。あはは、楽しみになってきたなぁ」

 散々猫のように頭に擦りついてから解放された。逃げるべきだろうが、気持ち悪さで俺はその場にへたり込んでしまった。そして堪らず吐いたが、胃液しか出なかった。

「次は世田谷区じゃないところで会おっか」

 男はそう言って大通りに出て人混みの中に消えた。俺はまだ気持ち悪くてしばらく動けなかった。


 やっと立てるようになった時、また路地に誰か立っている気配がした。口元を拭いながら確認すると、ハシボソさんが立っていた。

 そして俺に深々と頭を下げた。どういうことかと首を傾げた。なぜ父の部下だった人が俺に頭を下げているのだろう。ハシボソさんはそのままの姿勢で何か言ったが、うまく聞き取れなかった。

「えっと、すみません、もう一回言ってもらっていいですか……できれば頭を上げてもらえれば……」

 俺よりも歳上だろうハシボソさんに頭を下げられているのは気が引けた。ゆっくりと顔を上げたハシボソさんは泣いていた。鼻を真っ赤にして、大粒の涙を流して、静かに泣いていた。

「も、もうしっ、申し訳……あ、りまっ、せん……!」

 どうしたというのか。俺はふらつく足に力をこめてハシボソさんの声がちゃんと聞こえるように近づいた。

「鷹木さん……っ、し、師範が、先ほど……ぅぐ、チョウ、にっ……殺され、ましたっ!」

「え……?」

 頭の中が真っ白になった。でもすぐに情報を処理しようと脳味噌がフル回転した。


 ハシボソさんのいう師範というのは父のことでチョウというのは人の形をした虫で俺はさっきチョウに頭を擦り付けられてて甘ったるい匂いが気持ち悪くて野郎に過剰なスキンシップされて気色悪くて胃液を吐いて力が入らなくてへたり込んでてそこにハシボソさんが来て俺に頭下げてて顔を上げたら泣いてて父さんがチョウに殺されたって──父さんが殺された?


 今度は目の前が真っ暗になった。ハシボソさんが必死に俺になにかを言っているのに、何も音が頭に入ってこなかった。視界が黒に埋め尽くされる。意識もそのまま遠のいていった。

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