幻魚 第1章

 まだ残暑が続いていた九月下旬のある日。


 突然、上司の諏訪部六郎すわべろくろうが亡くなった。


 

 『ペンギン快特便かいとくびん』のアルバイトを始めて五年が経つ。


 大崎おおさき支部に森實大樹もりざねたいきが勤め始めた時から、諏訪部はこの支部のチーフとして大崎支部を統括とうかつしていた。 


 

 諏訪部六郎の葬式は『家族葬』である、と本部から通達があった。


 諏訪部の家族が、家族と親戚だけでり行いたい、とのことらしい。


 なので、森實大樹は、線香をあげることができなかった。


 

 生前、諏訪部は、森實大樹を執拗しつように痛めつけるようなパワハラを展開していた。


 そのことは、周知の事実であった。



 諏訪部は、森實を倉庫に呼び出しては、派手に暴力を振るっていた。


 諏訪部の罵声ばせいや怒鳴り声、そして森實を殴る音、蹴る音、突き飛ばした後の物音などが、作業員の耳に入るほど、響き渡っていた。


 森實の身体は長袖の作業服の下で、数多くのあざを増やしていった。


 森實は仕事を終えて風呂に入るときに、諏訪部に付けられた痣をでさすりながら入浴していた。



 「お疲れ様です!」

 柿生美佐男かきおみさおが森實に声を掛けた。


 「お、お疲れ様です!」

 森實がおどおどしながら、美佐男に挨拶を返した。


 「今日は諏訪部チーフの告別式だそうですよ。『家族葬』なので、僕たちは行きませんけどね。」


 「私も、ご家族のご意思を尊重して、出向くのは止めます。」



 「それにしても、森實さん、これからも宜しくお願いします!また明日!お疲れさまでした。」


 「こちらこそ、宜しくお願いします。お疲れさまでした。」




 配送のアルバイトを終えて、同僚の柿生美佐男に挨拶をすると、森實は、通勤用の軽自動車に乗り込んだ。


 この軽自動車は『ペンギン快特便』が所有している車で、従業員の通勤用に貸し出している。


 駐車場代とガソリン代は従業員持ちだが、車検やタイヤ交換、オイル交換などのメンテナンスには会社が費用を出す。


 森實は、近所の駐車場を借りて、この軽自動車で通勤している。


 この軽自動車の中で、今は亡き、諏訪部の自分へのパワハラの様子を思い出していた。


◇◇◇ 


 「森實、ちょっと来い。」


 だいたいこの言葉からパワハラが始まる。


 他の従業員の目の前で、上司の諏訪部が、自分だけを見て、自分だけを倉庫に呼び出す。


 自分だけが、この父親に似たキャラクターの上司に呼び出されるのだ。



 諏訪部は、何も言わずに睨みつけてくる。


 しかし睨んでいる目の奥に、何故か悲哀のような愛情のようなものを感じてくる。



 次に、強い者が弱い者をいたぶる快楽を目の前にした欲情を感じる。


 諏訪部が、自分に、欲情しているのだ。



 自分の全てを投げ出して、その欲情に応えたい気持ちにさえなる。


 瞳の奥にたたえた欲情。


 その輝きが、いつも、見たかった。



 頭の中で、誰にも言えない感情が湧きあがって来る。




 いっそのこと、諏訪部にめちゃくちゃにされたい。




 倉庫で二人きりになっている時には、誰も来ない。



 一瞬ニヤついた諏訪部が、次の瞬間、真顔に戻って、胸いっぱいに空気を吸い込む。



 バシッ‼



 思い切り、左頬を叩かれると、叩かれた音が倉庫内で反響する。


 誰も来ないけれど、一部始終、聞かれているだろう。



 ボゴッ!


 ドスッ!


 ドッ‼



 いわば、ストーリーテラーによるラジオ番組のようになっているのだろう。



 ギリギリギリギリ・・・。


 バシーン‼



 誰も来ないけれど、聞かれているのだから、諏訪部にめちゃくちゃにされることはないのだろう。



 ドスッ!ドスッ!ドスッ!ドスッ!


 バシーン‼




 なんという、歯がゆさ。




 バーン‼


 ドンッ‼


 ガラガラガラ・・・ガシャーン!


 「お前のせいで、大崎支部の売り上げが落ちた。お前なんか、辞めてしまえばいいのに!早く辞めろ!この貧乏神め!」



 このまま、この倉庫の中で、私を殺してくれたら良かったのに。

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