ママとケンカする根性はある

 ごめんね。クー、ホントにゴメン。

 そんな会話をして、母親と電話を切ったあと、クーは楽しい仕事を受けた。


 大陸歴2718年 7月15日


「母さんとケンカした?」


 目を丸くしたクーと、歩く手のブラブラをなんだかいつもより強く振っているサミーが並んで通りを歩いている。


 サミーは何も答えないが、彼の表情は口ほどにものを言う。

「怒っちゃったかー」

「へん!」


 モルトシティの下町にあたるノイン・ストリート。朗らかな陽気がと穏やかに照る表通りに比べて、建物の影になる裏通りに吹く風は少し肌寒い。


「何が変?」

「母さんはへんなの」

「変かあ」


 クーは空に言葉を飛ばすように、サミーの言っている事を復唱して歩いた。

 多分、母親にも、そんな風にしか表現できていないのだろう。

 リズィの悩ましい顔が思い浮かぶ。

 この時間、リズィはどうしても行政機関でモルト軍の主管となる手続きをせねばならず、サミーの世話をクーに預けることになっている。


「大人って変だよ。サミー。変なものなんだ。笑えるだろ?」

 恐ろしいほどの実感を持ってクーが答えると、サミーはぽつりと返す。


「おっちゃんはへんじゃない」

「どこが変じゃない?」


 ウーン。と首をかしげるサミーに笑ったクーは、子どもの出来かけの感情と頭脳を感じている。交互に左右に揺らす少年は、自分が問われたことに答えられない事にもそれなりに矛盾を抱いたように見えて、だからふんじばって考えている素振りをしているのだろう。


 クーは大きすぎる体を降り畳んで屈む。

 丁度サミーと同じ背に縮んで、背中を見せてみた。


「乗れよ、サミー。人間ジャングルジムしてやるから」

「いいの?」


 サミーが目を輝かせるのを見たクーは、肩を自分の掌で叩いた。

「肩車ってやつだよ」

 サミーを神輿のように担いでアーケード街を歩いた。


 ここは街の中枢からは少し距離があり、占領されるまでの戦闘には巻き込まれなかったために、実質復旧完了まではここが市民たちの生活を支えていた。


 輸送長とともに飲みに出かけるときは、何件かここをはしごすることもある。海産物が豊富に取れるこの土地の食材は新鮮で、柑橘油に浸した生魚の赤身を、柔らかい緑の若芽を巻いて食べる地場の料理、ディスタラミのおかげで輸送長は毎回ぐでんぐでんに酔っ払い、その度にクーはタクシーを手配した。それが輸送長が職場で発揮する、リーダーシップに対するクーの返礼だ。


 そして今、ここには地場の田舎の空気が流れ、行き交う人の表情もいつもよりカームダウンしている。未だにゆるい場所。

 サミーを連れてこうするには、うってつけだ。


「ほら、一番誰より背が高い」

「うん」


 クーの頭の上でサミーが、ぐっと結んだ小さな手をそのままに声を弾ませている。


「誰よりいろんなものが見えるだろ」

「うん」

「何が見える?」

「うーん、看板。モルタバンガ」


 モルタバンガコーヒー、ここにも出店してたんだっけ。

 サミーの声で、小さい店舗で展開しているくだんの喫茶店を見た。そして通り過ぎていく。


「わかった!」

 頭の上でサミーが言う声に、クーは耳をそばだてた。


「おっちゃんはね。僕といてくれるんだよ」


 その言葉に、すっと影が差す思いがした。


 ああ、この子は寂しがってるんだ。

 父に放っておかれ、母に放っておかれたように思ってる。両親はサミーに悪いと思っているから、息子に寄り添ってあげたい。だけどこのサミーの寂しさからくる拒絶に、リズィも疲れてるかもしれない。そう思う。

 誰もかれも救いたい。特にこの場合は、どちらの陣営にも言い分があり、その背景には彼らに関係ない巨大で腐った事情がある。


「嬉しいよ。お返しにジュース買って、お菓子買って、どっかのベンチで食うか」

「うん」


 サミーは決して裏切れない声で言った。担いでばかりじゃしょうがないので、いい円柱の設置物を見つけてそこにサミーを下ろして立たせた。

 サミーはちょっと高すぎるその設置物の上で、「自分で降りる」と言った。

 クーが見ているとサミーは実に器用に、円柱にあるハッチのノブとか、そう言ったものに足をかけて地面に着地した。


「すげえなあ」

 そのご褒美に炭酸のジュースを買って、ボトルの首をつまんでゆらゆら揺らしながら道を行った。


「クー」


 不意に名前を呼ばれて立ち止まる。日常的にほうきを使っているからか、少しだけ腰の曲がった、杖をついた老婆がこちらに声をかけていた。


「野菜でも買いに来たのかい?」

「ああ。ちょっと散歩にな。座り仕事が多いから歩かないと」

「確かにその通りだね」


 ひひひ。と老婆が笑う。彼女はビッグママだ。通りで気軽に声をかけてくるのは余裕の表れか、それとも占領軍に対するささやかな挑発か……どちらともいえた。公園の清掃を終えて、夕飯でも買いに来たんだろうと思う。

「家族かい?」

「全然違う」

「そうかい。でもあんたにも居ておかしくはないね」

「ああ」


 そしてビッグママの声色が少し、ひそやかになったのを知る。

「クー、こっから先は気をつけな」


 その会話を終えると、ビッグママが視界から消えた。彼女はそれとなく通りのどこかに消えていったのだ。クーが見まわそうとしたその時、かかとに杖の先が当たった感覚があって、その方向を振り返ってもビッグママはいない。しかしその視線の先にいる人間に、クーはふと、ゆるがせにできない態度を感じて感覚を鋭敏にした。


「過剰検閲です」

 一人のモルト軍人の女性、白シャツの女が誰かに立ちはだかっていた。その背には、怯え切った表情の店主がいて、ここは本屋だと分かる。


 今まさに現れたその兵士は、白いシャツでなくモルトの軍服を着て、後ろ手に手を組みながらさながら行進のように歩いている。ブーツの音が、カツ、カツと通りに響いていた。


「くだらん。この本屋に一冊でも、平和を乱す書があっては我々の威信に触る。分からんのか」


 その絶妙に上がった顎と周囲を見下すように睨んだような視線に、今までの兵士たちにない、欠落した何かを感じ取ったクーは、この男の姿を見せるために、去り際のビッグママが杖で自分の足をノックしてくれたのだと分かった。


「軍の規範に適わないのは、あなた方の方です」

「もういい、実行権限は我々の方が上だ」

「それも嘘です。ブロンヴィッツ閣下の取り決めた倫理規定では、モルトランツ市警と応分のコミュニケーションを絶やすなと通達されているではありませんか」

 女は凛として食い下がったまま、本屋と偉そうな軍人の壁となった。


「サミー、ちょっといいか」

 クーはサミーを、有無も言わさず抱き上げて、速やかに、音もなく、プロの動きでそこから去ろうとする。

 このままでは決定的瞬間がサミーの透明な瞳に焼き付いてしまう。

 遠巻きに、視界の中にその兵隊を入れながら目を合わせずに歩く。

 相手はクーに気付いていない。他の買い物客だってそうだ。違和感をもったとしても何も口にはできない。そのような緊迫した空気だけが賑やかであるはずの通りを支配している。

 その女性の頬を張った親衛隊と呼ばれた男は、街をわがもの顔で見下すように立っていた。

 クーは何事もなく歩いた。

 サミーがいる以上、下手のことはできない、いや、これは何をもってしても蛮勇になってしまう。あの女性の兵士が何とか立ち回るか、ビッグママが兵士の助けになってくれればと思ったが、それも難しいかもしれない。


 独裁者が無辜の民側の対話、仲介者として選んだモルトランツ市警を指定したのは、幸いである。かつてこれと似たことを経験したクーにとっては、工作員という立場以外の私情においては、余り直面したくない事である。

 白いシャツの男達が、先ほどの事件現場へと急いでいるのが見えた。

 視線を合わせることなく、クーは逃げおおせた。


「どうしたの?」

 サミーは何も気づいていないようだ。

 よかった。


 その通りが切れるまで。公園を抜けてさらに郊外に向かって歩くと大きな川があって、何の遮るものもない日差しの照り返しがひときわ輝く場所があり、直射を嫌がるモルトの兵士たちは近づかない。そういう場所にまで着いた。


 着信があった。

 クーはその主を見て、胸をなでおろした。


「ああ、リズィ?」


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