黒柴と猫

第1話・黒柴と猫

 近所の小学生が登校するよりも少しだけ早い時刻。年老いた黒い犬は歩き慣れた道をゆっくりと進んで行く。雨の日以外は毎日通る散歩コース。リードの先を握っているのは、齢80を超えた佐久間秋江だ。短く切り揃えられた白髪にベージュの麦わら帽子を被り、背中には黒のミニリュックを背負っている。


 犬の方も人間の年齢に換算したら、秋江とはちょうど同じくらいになるのだろうか。互いに無理に引っ張り合うことはなく、同じペースで歩くからリードはずっと弛んだままだ。


「りっちゃん、ちょっと休憩していきましょうか」


 秋江から「りっちゃん」と呼ばれた黒色の柴犬は、長い舌を出してハッハッと荒く息を吐きながら、細長い坂を登っていく。この先には氏神を祀る、古い神社がある。小さな社と社務所があるだけの、ひっそりとした場所だ。

 一人と一匹が歩いている坂の両脇には背の高い樹木が立ち並び、完全に日差しを遮っている。薄暗い中を進み、ようやく社務所の屋根が見えてきた。


「ほら、りっちゃんも喉乾いたでしょう? お水飲みなさい」


 背負っていたリュックから水の入ったペットボトルと犬用の水皿を取り出して、黒柴のリツの前に置いてやる。それを勢いよく飲み始めるのをしばらく見守ってから、自分も水筒に入れてきた麦茶をゆっくりと味わう。飲み易いよう常温に戻した麦茶は、乾いた喉に嬉しい。


 社務所の前に設置された木製のベンチは、散歩途中の良い休憩所になっていた。参道から吹いてくる冷えた風は真冬になれば厳しいが、今の季節はとても心地よく感じる。

 ずっと被っていた麦わら帽子を脱ぎ、それでパタパタと首元を仰ぐ。大した距離を来た訳でもないのに、随分と疲れやすくなった。それは犬の方も全く同じらしく、喉を潤した後もまだ息が荒い。


 足下で完全に伏せってしまった愛犬を、ベンチに腰を下ろしたまま眺める。散歩を再開させるには、もう少しだけ休息が必要のようだ。周りから見れば長すぎる休憩かもしれないが、秋江達にとってはそうでもない。特にこんな古びた神社の中では、時間は静かに緩やかに流れている気がしてならない。


「あら、いつもの猫ちゃんよ。りっちゃん、ほら見て」


 目を瞑って本気で眠り始めそうだったリツの頭を突つき、さっき彼女らが登ってきた坂の途中を指さして知らせる。坂道を軽々と駆けのぼっているのは、少し小柄な三毛猫だ。真っ白の長い尻尾を得意げに伸ばして、こちらの方に向かって歩いてくる。


「こんにちは、猫ちゃん。少しお久しぶりかしら」

「ナァー」


 赤色の首輪をした猫は、怖がることなく黒柴へと近付く。犬の方もまた、特に吠えたてることもせず、身体は伏せたまま首だけを上げて猫の匂いを嗅いでいた。

 いつの間にか顔馴染みになった二匹だが、別に仲が良い訳ではない。かと言って、攻撃し合う訳でもなく、それなりに存在は認め合っているだけという感じに見えた。


 三毛猫は秋江の座るベンチの隣に飛び乗って横にちょこんと座ると、参道からの風で白い髭を揺らしている。その小さな丸い頭を優しく撫でながら、老女は三毛猫へ向かって話し掛ける。


「こうやって出歩くのも、そろそろ辛くてね。だから、今度からはりっちゃんの散歩は孫に任せようと思ってるの。あ、孫って言っても、今は一緒に住んではいないのよ。娘と一緒に、今日越してくるのよ」


 随分と顔を見てないから楽しみだけど、本来ならこういう場合は楽しみって言っちゃいけないのよね。と困ったように呟く。


 十五年前に嫁に行ったはずの末娘が、中学生の息子を連れて出戻ってくることが決まったのは、つい先月のこと。元から酒量の多い旦那だとは思っていたが、連日の朝帰りと酒代に嫌気がさした娘が怒り狂って離婚届を突きつけたのだという。


「飲み代で毎月赤字よ! 私のパート代まで使い込まれて、老後資金を貯めるどころか、このままじゃ和樹の学資貯金まで手を出さないといけなくなるわ。子供のお金に手出すくらいなら、別れた方がマシよ」


 稼ぎはそれなりに良かったのかもしれないが、稼いだ以上に使ってしまえば元も子もない。子供に負担をかけるくらいなら帰って来なさいとつい言ってしまったのは、少しばかり軽率だっただろうか。否、間違ってないと信じたい。


「そもそも、私の里帰り中に出産費用を全部使い切ってた時点で気付くべきだったのよ……」


 娘の旦那にとって、家庭よりも交友が大事だったのだろう。飲みに行けば、何次会でも最後まで付き合ってしまうらしく、終電に間に合わせて帰ってくるという思考はない。十五年もよく我慢していたものだと、秋江は我が娘ながらも感心してしまった。

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