第2話・腹痛

 算数ドリルとノートを広げるだけで、狭い机の上はいっぱいになる。だからか最近は縦型のペンケースがクラス中で流行っているが、これにも致命的な欠点があった。


「あっ!」


 後ろの席から、咄嗟の声が聞こえてきたかと思うとすぐ、床に鉛筆や定規が派手に散らばる音が響く。立てて使える筆箱はちょっと手が当たっただけで倒れてしまうし、机から落としてしまった時のダメージが大きい。しんと静まり返った授業中にやってしまうと、それなりに恥ずかしい。


 一瞬でざわついてしまった教室の中で、柚葉はずっと左手で腹部を抑えていた。三時間目が始まってから、お腹の真ん中辺りがキリキリと痛み続けていたのだ。だけど、静かな授業中に手を挙げて腹痛を訴える勇気がなく、黙って耐えていたが、クラスメイトが自由にお喋りをし出したタイミングで、右手を控えめに挙げる。


「……お腹痛いので、保健室へ行ってもいいですか?」


 一斉にクラス中の視線が集まってきたが、柚葉にとってはもうそれどころじゃない。お腹の痛みはどんどん強くなって、吐き気すらするようになってきた。


「ああ、じゃあ、保健委員さん、付き添ってあげて下さい」


 言いながら、壁に張られた委員表を確認するが、担任教師は困ったように眉を寄せる。


「……女子の保健委員は斎藤さんだけど、今日はお休みだったね。では、代わりに日直さんがお願します」

「はーい」


 元気いっぱいの返事をして椅子から立ち上がったのは、今日の日直が当たっている島田凛花だった。二年連続で同じクラスになったが、今までそれほど話したことはない。凛花は高い位置でのツインテールを揺らしながら、柚葉の顔を覗き込んできた。


「飯島さん、大丈夫? 歩ける?」

「うん……」


 心配そうに柚葉の肩に手を添えて、並んで教室を出る。背中にたくさんの視線を集めている気がしたが、気付いていないフリをする。


 隣のクラスは体育の授業中らしく、脱いだ制服が机の上に放置されていた。別の階の教室から漏れてくる鍵盤ハーモニカの音が廊下続きで聞こえてくる。誰も歩いていない廊下を、それぞれの教室の音を拾いながら進んでいると、何か後ろめたいものを感じてしまうのはなぜだろう。


「お腹が痛いなら、トイレに寄っていく?」

「ううん、それは平気。ごめんね」

「いいよー。授業サボれて、逆にラッキーだから」


 小さな声で会話しているつもりが、意外と廊下中に響いて、二人は慌ててトーンを下げる。キョロキョロと他所の教室を覗きながら、凛花は思わぬサボりを楽しんでいるようだった。


 教室を出たら、心なしかお腹の痛みはマシになった。でもきっと、戻ったらまた痛み始めるんだろう。この痛みの原因が何となく分かった気がして、柚葉はふぅっと深く息を吐いた。


「しばらくベッドで横になって、それでも無理そうなら言ってね」


 無事に辿り着いた保健室で、養護教諭の渡辺が優しく声を掛けてくる。それには黙って頷き返すと、柚葉は真っ白のシーツの掛け布団を顔の上まで引っ張り上げた。ベッドを取り囲むように設置されたカーテンが閉じられ、薄暗い空間で温かい布団に包まれていると、ここが学校の中だということを忘れてしまいそうになる。


 いつの間にか眠っていたみたいだったが、柚葉は担任と養護教諭の話し声で目を覚ました。まずカーテンの間から顔を覗かせたのは白衣を着た渡辺で、その後方には心配そうな表情を浮かべた担任の姿があった。男性教諭である担任が眠っている女子児童を覗く訳にもいかないからと、後ろでオロオロしているように見えたのが少しおかしかった。


「どう? 少しはマシになったかな?」


 柚葉が起きているのに気付いて、養護教諭が声を掛ける。ここに連れて来られた時と比べれば随分と顔色は良くなっているように見える。無言で小さく頷いた柚葉の額に体温計をかざした後、布団を捲ってから腹部の触診を始める。そして、みぞおちの辺りで手を止めてから確認してくる。


「痛かったのは、ここ? どういう時に痛くなった?」

「授業中です。塾の宿題のことを考えてたら、急に痛くなって……」

「うーん。そっかぁ」


 捲り上げた布団をそっと掛け直すと、「もう少し寝てていいからね」と再びカーテンを閉じて去って行く。カーテンの向こうから聞こえてくる担任達の会話から、この後は家に連絡して迎えに来て貰う事になるようだった。


 保健室からほど近い給食室から、フライ物の香ばしい匂いが漂い始めた頃。学校から連絡を受けた母親が困惑した表情で迎えにやってきた。


「……帰ったら、おとなしく家でも寝てなさい」

「今日の塾はどうするの?」

「塾も、今日はいいから」


 担任からの電話で大方の事情を聞いたのだろうか。いつもなら学校は休んでも塾には行かせようとするのに、珍しいこともあるものだ。

 母親の運転する車の後部座席にランドセルを背負ったまま乗り込むと、柚葉はぼーっと窓の外を眺めていた。いつもは徒歩で登下校している通学路も、自動車だと少し違った景色に見える。


 十字路を曲がって住宅街を走っている時、途中で通り過ぎた家のブロック塀の上で、この前見た三毛猫が歩いているのを見つけた。横を通過したのは一瞬のことだったが、きっと同じ猫だ。赤い首輪も見えた。


 ――本当に、しょっちゅう散歩してるんだ、あの子。

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