うどんけん 今宵も営業いたします

かがわ けん

桜の意思

 神戸市新開地。

 西日本屈指の歓楽街。いえ風俗街の方がピンと来るかも知れませんね。

 そんな新開地の通称柳筋の路地裏でうどん屋を営業してます。 

 一見すると飲食店に見えないかもしれません。でもご安心を。濃紺の暖簾がその存在を静かに主張しておりますから。

 暖簾は三つに分かれていて、一枚目に縦書きでうどん、横の二枚に大きくけんと一文字ずつ入ってます。

「うどん けん」それがこのお店の名前です。


 この店は普通のうどん屋とは少し変わっていましてね。

 営業は夜九時から深夜二時。要するに酔客や歓楽街の従業員相手の店です。

 更にメニューはかけうどん、きつねうどん、ざるうどんの三種類のみ。うどん屋に付き物の天ぷらもちくわ、玉ねぎ、さつまいもなど簡単なものしかございません。

 ただ、天ぷらに関しては注文が入ってから揚げるので、常に出来立てが食べられるのが売りになっております。

 そんなお店はこの歓楽街を行き交う人の間で隠れた名店なんて言われてますのよ。

 さて、今宵はどんなお客様がいらっしゃるのかしら。






「じゃあ、お先でーす」

「お疲れさまでした」

 時刻は午前零時半。

 ようやく仕事から解放される。

 ガールズバーで働き始めて三カ月。

 私はこんな所で一体何をやっているんだろう。


 私は教師になることを夢見ていた。

 だが人見知りで引っ込み思案な私に教師など勤まる筈がないと諦めていた。

 大人しく運動も苦手な私は小学生の頃から読書が唯一の楽しみだった。国語の先生になって生徒たちと一緒に本を読み、その自由な発想に触れながら共に学んでいけたならどんなに素晴らしいだろう。

 そんな妄想をしながらも現実には打ち勝てず、モヤモヤした日々を過ごしていた。


 母子家庭で働き詰めの日々を送る母に心配かけまいと誰にも相談出来ずにいたが、中学三年になった時に一度だけ母と将来について話をした。

 母は黙って聞いていたが、最後にこんな話をしてくれた。

「学校の先生ほど子供と関わる仕事じゃないけど図書館司書っていうのもあるわよ。でもお母さんは一番の夢をとことん追い求めて欲しいな」


 そんな母の言葉に勇気をもらい、まずは学業に全力を注いだ。おかげで公立校の中では優秀と言われている高校に入学出来た。

 ここでも頑張って大学は希望通りの所に入れるようにしよう。将来についてはそれからじっくり考えても遅くないと思っていた。


 そんな高校一年のある日、私は図書室で一冊の本に出会った。

 灰谷健次郎の『兎の眼』だ。

 お嬢様育ちの新米教師がクラスの問題児と関わることで成長してゆく話。短い言葉にすると陳腐だけれど、私はこの作品に激しく心を揺さぶられた。

 直ぐに小遣いを握りしめて書店へ走った。

 何度も何度も繰り返し読んだ。

 何度読んでも同じところで泣けた。

 何度読んでも読了後に清々しさを感じた。

 読み返す度に込み上げる感情が膨らむ。

 私も小谷先生みたいになりたい。

 鉄三ちゃんや足立先生に逢いたい。

 私は教師を目指すと心に誓った。


 だが人生はそんなに甘くなかった。

 大学でも勉学に勤しみ教員試験にも合格したが採用試験で不合格になったのだ。

 目の前が真っ暗になった。

 何故真面目に勉強してきた私がこんな目に遭わなければならないのかと世の中を恨んだりもした。

 それでも現実は待ってくれなかった。

 私は母の負担にならないよう奨学金制度を利用した。しかし返済不要の制度には審査が通らず、無利子とは言え卒業後に返済する制度を利用していたのだ。

 更に悪いことは続く。

 母が病気で倒れてしまった。幸い症状は軽く後遺症もなかったが、暫く安静にしなければ再発する恐れがあるらしかった。


 もう待ったなしだ。

 非正規の塾講師職を確保したが思うような金額は得られそうにない。新卒で就職したとしても、一部を除けば高額な給料など望めないご時世。非正規で生活費と母の治療費、加えて奨学金の返済など出来ようはずもない。

 世間知らずの私が思いついたのは掛け持ちで夜も働くぐらいだった。だが、コンビニや飲食店は拘束時間の割に賃金が安い。

 来年の採用試験や臨時採用への応募等々、教師への道を模索する時間も確保しなければならなかった。


 焦った私はネット広告に飛びついた。ガールズバーの求人広告だ。

 曰くバーテンダー同様カウンター越しにお酒を作り軽い会話をするだけ。お酒が飲めない人でも大丈夫だと書いてある。

 これなら週三回だけでも結構な金額になる。塾講師の収入と合わせれば十分遣り繰り出来そうだ。


 だが私に夜の世界の知識など全くない。とはいえ誰かに相談出来る内容でもない。

 結局ネットの情報を漁り、ガールズバーは三宮がメインなので新開地なら目立たないと考えた。ここなら歩いて帰れるのも魅力的だった。


 そして気付けば三カ月経っていた。

 求人通り過度な接客も無理やりお酒を飲まされることもない。店の雰囲気も悪くなく何よりオーナーのママが良い人だった。週三日のつもりが四日になり、閉店まで勤務する日さえあった。

 結局金銭の恐怖に駆られた人間は金銭の魅力に取り憑かれ易いのだ。十分な収入があり、塾講師として子供とも触れ合えている。

 今の生活に心地良さを感じる自分がいた。

 それが何より許せなかった。






 三月の下旬だというのに数日前から寒の戻りで夜は特に冷え込んでいる。季節外れのマフラーを巻いて重い足取りで家路に向かう。

 ふと路地に目をやると、一人の女性が暖簾をくぐって店から出て来た。

 あんなところにお店があったのか。そう思うと急に興味が湧いてきた。

 

 店の前に立つ。綺麗に染められた濃紺の暖簾。そこに「うどん けん」と染め抜かれている。

 こんな深夜に営業しているうどん屋もあるのね。関西人はうどんが大好きだけど飲んだ締めにうどんは珍しい。でも味が強くカロリーも高いラーメンよりうどんの方が良い気もするわ。


 帰って何か作る気力はないけどコンビニも味気ないな。折角の発見だもの今夜はここで頂いて帰ろう。

 一人で初見の店に入るなど初めてだが迷わず暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ」

 朗らかな女性の声が迎えてくれる。

 店に入った瞬間、出汁のいい香りが鼻孔をくすぐる。日本人なら誰もが反応する香りだろう。

 深夜零時を廻っているのに五人もお客さんがいて少し驚く。

 店は結構狭い。カウンターが六席に四人掛けのテーブルが二つだけ。テーブルに二人客が二組、カウンターに一人が座っていた。


「カウンターでいいかしら」

 割烹着にお団子頭の女性が声を掛けてきた。少しふっくらした顔は人懐っこそうな優しい笑みを湛えている。

「冷えるわね。何にしましょう?」

 女将さんが温かいお茶を出してくれた。

 私はメニューを手に取って驚いた。

 かけうどん、きつねうどん、ざるうどんの三種類のみ。

 更に天ぷらも、ちくわ、さつまいも、玉ねぎ、日替わり天ぷらの四つ。天ぷらは注文後揚げますと書き加えられていた。


 最近では有名うどんチェーン店が様々な新メニューを開発して人気を博しているというのに、深夜営業とは言えたった三種類でやっていけるのかしら。

 いや、それだけ自信があるのかもしれない。俄然食欲が沸いてきたわ。

「今日の日替わり天ぷらは何がありますか」

「あちらに書いてますの」

 壁のホワイトボードにはレンコン、かぼちゃ、菜の花と書かれていた。

「じゃあ、かけうどんとちくわとレンコンの天ぷらをお願いします」

「ごめんね。レンコン出ちゃったのよ」

「じゃあ、ちくわだけで」

「かけとちくわね。かけうどんの薬味は生姜と七味どちらにしますか」

「あ、七味で」

「はい。少々お待ちくださいね」

 女将さんは注文受けるとそのまま厨房へと向かった。


 暫し店内を見渡す。

 至ってシンプル。特徴的な飾りはない。

 テーブルには醤油、七味、割りばし爪楊枝があるのみだ。


 カウンターから厨房の様子がよく見える。

 女将さんが天ぷらを揚げ、ご主人がその頃合いを見定めている。

 

 厨房の様子を見ているとテーブル席の客の会話が耳に入ってきた。

 上司と思しき男が何やらうどんの蘊蓄を述べている。

 うどんを途中で嚙み切る奴は食べる資格がないだとか、くちゃくちゃ咀嚼せずに喉越しを味わうんだとか、どうでも良い話を得意そうに披露していた。

 部下の人が不憫だわ。締めの席でまでマウントを取って嬉しいのかしら。

 私の勤める店は上司と部下が来るような店ではないので、こういう光景に出会うのは初めてだ。私は当たりくじを引いたのかも知れないな。


「ねえ、けんさん。けんさんは本場香川の人間だから俺の話が分かるよね」

 上司らしき男がご主人を強引に巻き込む。

「そう言う人もおるけどうどんは庶民の食べものやけん。好きに召しあがっていた」

 ご主人はさらりと躱した。

 なるほど肯定しておいて否定する。これは巧い落し処ね。

 これは一本取られたと男はうどんを啜っている。気分を害していないようだ。

 

 ご主人の顔を見た。

 表情を変えず淡々とうどんを作っている。

 湯切りざるにうどんを入れて麺と器を温めた後、麺を湯に漬け頃合いを見てザザッと湯を切る。そして麺を器に入れて出汁を注ぎネギを盛った。

 その手つきは実に鮮やかで無駄がない。思わず見とれてしまった。

 不躾ながらもご主人をまじまじと見る。

 歳は五十台半ばだろうか。手拭いで頭を覆い半袖に前掛けのスタイル。

 最初は気付かなかったがよく見るとなかなかの美男子だ。

 うどんの仕込みで鍛えられているのか上半身の筋肉が盛り上がっていた。


 天ぷらが揚がるタイミングにぴたりと合わせてうどんが完成する。

 女将さんが器を盆に載せて運んできた。

「お待たせ。かけとちくわね。菜の花の天ぷらはお詫びだから遠慮なく召し上がって。塩を盛ってるけど好きに召し上がってね」

 女将さんの朗らかな声はありふれた接客のフレーズですら心地良い。


 うどんから立ち上る湯気に乗ってお出汁の香りが私を包む。真っ白で艶やかな麵に琥珀色のお出汁。ネギの緑がアクセントになっていて見た目にも美しい。

 芳醇な香りに誘われて、まずお出汁を一口頂く。色からすると醤油は香りづけ程度。なのに濃厚な味が口の中に広がる。

 材料を惜まずしっかりと出汁を取っているのだろう。それでいて臭みも癖もない洗練された味。たった一口なのにその美味しさに思わず息を漏らしてしまった。


 私は麺を取り勢いよく啜る。

 表面の滑らかさが素晴らしい。啜り上げる唇に喜びを感じるほどだ。

 以前香川県で食べた麺よりやや細めで柔らかい食感。それでいてしっかりコシがあるから驚きだ。

 関西のうどんはコシが強くなくふんわり柔らかのだが、云わばその麺にコシを加えた絶妙のさじ加減だった。

 讃岐うどんは角が立つほどしっかりした麺が特徴だとばかり思っていたけど、ご主人は関西人の好みも取り入れてくれたのかしら。


 麺を啜る心地良さに箸が止まらない。

 一気に食べきるのは流石に恥ずかしい。ここで天ぷらを頂きましょう。

 まずはちくわから。

 揚げたてサクサクの衣にちくわの食感と旨味が加わって来る。

 ちくわが美味しいので何もつけなくても凄く美味しいわ。

 有名チェーンなどではピーク時を外すと揚げ物などは冷たいまま。偶にちくわの天ぷらで衣がベタつきちくわもパサついているものに出くわす。

 その点注文後に揚げたこのちくわの天ぷらは段違いに美味しい。全てのお店でこのサービスをやって欲しいわね。


 恥ずかしさも忘れ一気にちくわの天ぷらを完食してしまった。

 ではうどんに少しだけ七味を。

 この七味凄く薫り高い。高級な奴かな。

 うどんを一口啜る。うん、旨味の後にピリリととくる辛さが心地良い。

 おろし生姜も好きだけど、私はかけうどんには七味かな。

 残った麵はあっという間に消え去った。名残惜しさを感じつつお出汁を一口頂く。

 最高だわ。


 じゃあサービスで頂いた菜の花の天ぷらを頂きましょう。これは塩ね。

「あっ」

 思わず声が出た。

 今まで食べた菜の花と違う。

 菜の花畑を想起させる新緑の香りが体中を巡って行く。

 抜群の火の通し方でシャキシャキとした食感が堪らない。

 そして最後にふっと苦みが現れて爽やかに消えてゆく。

 正に野の恵み。命そのものを頂いている感覚だった。


 本当なら私も菜の花と一緒に春には芽吹く筈だったのに。

 あなたに差を付けられちゃったね。

 今の私は茹で過ぎてクタクタの菜の花。それもただ苦いだけの……。

「えっ、嘘」

 気付かない内に泣いていた。

 そんなつもりはなかったのに涙が止まらない。恥ずかしくなって俯く。

 菜の花の天ぷらを食べて泣くなんて変な女と思われるでしょうね。

 俯いたままそっと涙を拭う。気付けば女将さんが隣に立っていた。


「はい、けんさんからの差し入れ」

 目の前に湯呑が置かれた。

 淡いピンク色のお湯の中で桜の花が咲いていた。

 一口飲んでみる。

 程よい塩味と共に春が全身を駆け巡る。

「どう? 桜の塩漬け。これは去年の花なの。それでもちゃんと春を届けてくれるでしょ。春を届けるんだという強い意志は簡単には消えないものなのね」

 桜の意思。

 春を届けるんだという強い意志。

 じゃあ私の意思は……。

 桜湯をゆっくりと飲む。

 体の中に力が湧いてくるのを感じる。

 私は桜の意思を全て飲み干した。

「元気出た?」

「はい、凄く元気を頂きました。けんさん、有難うございます」

 彼は軽く笑みを浮かべ黙って頷いた。


「お会計をお願いします」

「はい、かけとちくわで五百円ね」

「え、そんなに安いんですか」

 思わず声に出してしまった。

 うどん三種類のインパクトが強すぎて値段を見ていなかったのだが、深夜営業の飛び切り美味しいうどんと天ぷらが五百円など考えられない。

 大きなお世話だが本当にこの金額でやっていけるのだろうか。

「では、五百円で」

 私は五百円玉を手渡した。

「こちらもどうぞ。大盛り無料券」

「よろしいんですか」

「勿論。これはお客さん全員にお配りしてるから」

「この金額で大盛り無料までやって本当に大丈夫ですか?」

 失礼を承知で聞かずにはいられなかった。

「ふふっ大丈夫。ここは殆どが酔客でしょ。だから誰も使わないの。いい印象だけを与えるテクニックよ」

 女将さんが胸を張りながら大声でテクニックを披露する。

「ありがとうございます。でも私は大食漢だから使っちゃいますよ」

「あの食べっぷりだからね。是非使って」

 そんなに凄い勢いで食べてたのね。ちょっと恥ずかしいわ。


「じゃあ、ご馳走さまでした」

「有難うございました」

 私は店を後にした。

 外は相変わらず寒い。でも体も心もぽかぽかだ。

「いいお店を見つけたわ」

 店を訪れるまでの侘しい気持ちは何処かに吹き飛んでいた。

 軽やかな足取りで家路に向かう。

「桜が咲いたらお母さんと花見に行こう」

 夜空に向かって呟く。

 春の訪れはすぐそこだ。

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