『黒涙』(2022-5-31)

 黒い海がじんわりと、陸を食む。

 直射日光ですら凹凸を露わに出来ないほどの黒が、粘性のコールタールのように、蠢動していた。

 ──〝海〟。

 一度、噴火した火山のマグマが垂れる様を、テレビで見たことが有る。正にそのような動きで、極めて緩慢に、されども確実に生存圏を侵食していた。


「大分近くまで来ているね、向日葵」

「あ、そう」


 固定された望遠鏡を覗きながら、男はそう言った。

 その投げ掛けに、私は素っ気なく返す。

 向日葵と言うのは私の名前で、この男は一応、私の父親だ。

 時はつい三日前。

 突如として現れ、暴れ出した〝海〟は、あらゆる物を呑み込み始めた。

 途切れるライフライン。

 逃げ惑い、醜悪な本性の現れた人々。

 彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ、それに出遅れてしまったのが、私達である。


「そろそろ〝活性化〟するかも知れないから、荷造りしておこうか」

「…………」


 そして──あの何処までも黒い漆黒から逃げる途中、不運にも山に行き当たってしまった。

 それが半日前の話だ。

 山道には良く、道路から出っ張るように、車三〜四台が停められるくらいの小さな休憩地点が在る。

 たまたま見掛けただけではあるが、開けていて、遠くを見渡せる場所なんてのは、やはり貴重な場所なのだ。

 そして何より、こう言う場所には不思議と惹かれる物が有る。

 車で通りかかったら(今は徒歩だが)ついつい寄ってしまいたくなるような、不思議な感覚。

 そんなことを言っている場合ではないのだが、何処かで息抜きをしておいた方が良いのも、また確か。

 そこでこうして、親子水入らずで、束の間の休息を取っているのだった。

 水入らずと言うより、水と油だったが。


「……そろそろ良い時間だし、お昼にしよう」


 父親と呼ばれるべき人は、呑気にも私にそう言った。

 好かれようとしているのか、それとも本当に気が付いていないだけなのか。この男は、ことある毎に私に語り掛けて来る。

 はっきり言って鬱陶しい。

 ぐう、と腹の虫が唸った。

 私のお腹かも知れないし、あるいは、この男の腹から鳴った物かも知れない。定かではないけれど、両者ともに空腹なことには、間違いがなかった。


「カップ麺も、そろそろ飽きて来たなぁ。まあ、そんなこと言ってられないが」


 弱々しく笑う。

 見ているだけでイライラする笑顔だった。

 この状況で何故笑えるのか。この私に何故笑えるのか。

 男はリュックサックから、残り少なくなったカップ麺を取り出す。

 湯沸かし器でお湯を作って、そのままカップ麺に注ぎ込んだ。


「はい、これ」

「……ねぇ」


 食事をにこやかに渡す男。

 その顔はやつれていて、笑顔を向けられても、見ているこちらが苦しくなる。

 何で? どうして?

 モヤモヤが溜まる。こいつはあの時もそうだった。

 お母さんが死んで、こいつは仕事とかで、最期すら立ち会わず、葬式だって後半からで……。

 その癖、分かったような口で朗らかに、私に喋り掛けるんだ。……お前が、お前が死ねば良かったのに。


「なんで、そんなヘラヘラしていられるの?」


 口をついて出た言葉は、私自身も驚くほどに、底冷えていた。

 周囲の空気密度が、幾らか上がったような、そんな雰囲気が辺りに充満していた。我ながら、息が詰まって仕方がない。

 男は、ぽつりぽつりと言葉を吐き始めた。


「……それは、うん。いや……」

「もしかして馬鹿にしてる? はっきり言ってクソウザい」


 彼の言葉を遮って、思った言葉をそのままぶつける。

 あんなに喋るのを忌避していたのに、一度漏らしてしまえば、決壊したダムのように止まらない。

 悪口が、恨みが、嘘のようにスラスラと出て来る。

 狼狽えた様子で、男は言い訳を続ける。


「べっ、別に、そう言うつもりでした訳じゃ……」

「じゃあ何なのッ!?」


 気付けば、カップ麺が、アスファルトにぶちまけられていた。……私がやったのか。

 思い切り叩き付けたので、焦げ茶色の液体と麺と共に、発泡スチロールの破片が散らばっている。

 ……一度爆発した怒りは急速に冷め、冷静な私が、頭の片隅で場違いにも「勿体ない」と呟いた。


「…………それは──」


 ごばり、尋常ならざる水音に、男の言葉は遮られた。

 続いて地面の崩れる音がする。

 私達は即座に理解する。

 ──〝海〟が活性化したんだ

 何度か見たことが有る。

 〝海〟が震え、侵食速度を恐ろしく速める時期。

 一度目の〝活性化〟は、沿岸部の総てを掻っ攫った。

 二度目で、潮風が香る範囲は消失した。

 街を呑んで、人を呑んで──今度は私達が呑まれる番。そんなの真っ平御免だ。

 リュックサックを掴み、急いで疾走はしる。

 かなり近くまで来ていたはずだ、追い付かれる! 呑まれてしまう! そんなの絶対に嫌だ!!

 まだ、まだ生きていたい!

 私の中の生存本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。


「大丈夫か、向日葵!?」

「っさい!」


 喉が、灼ける。

 叫んだ所為で、ただでさえ少ない私の体力が、ゴソッと持って行かれた気がした。

 足の裏がジンジンと痛む。

 ふと後ろを振り向くと、荒れ狂う黒色は、ほんの500メートル先まで迫っていた。

 アイツは速い。目を離した隙に、総てを呑み込んでしまうほどだ。

 こんなのじゃ、直ぐに追い付かれる──。

 加えて、ここは山道。曲がりくねりを無視して移動出来る〝海〟の方が、断然有利な状況だった。

 ……死ぬのか?

 こんな訳も分からないまま、友達にも連絡出来ないまま、私は死んでしまうのか?

 あの黒い暴食に。

 あの黒い貪食に。

 腹を空かせた、真っ黒な〝海〟なんかに、呆気もなく呑まれて死ぬのか?。

 焦燥感が沸騰した鍋の如く、溢れ沸き立つ。

 脚に入る力が強まり、足裏に伝わるアスファルトの凹凸が色濃くなる。

 跳ねるようにして、私は加速した。


「──あ」


 転んだ。

 力んだ脚は、爪先と足首から嫌な音を立てながら、着地に失敗した。

 景色がスローモーションになり、木々の葉は、緑のタイムプラス風に蕩ける。やがて眼前に、ゴツゴツとした黒い地面が迫る。

 ────死。

 視界が一瞬暗転して、膝と掌、そして鼻の辺りから来る、痛みに、液体の垂れる感覚に、意識が叩き起される。


「おいッ! 大丈夫かッ!?」


 男の声が聴こえる。

 耳鳴りが酷くて、その不愉快な声は、水が張ったようにボヤついていた。音としては聴こえるけれど、文章として脳が処理しない。

 腕と腹の辺りに、温もりが拡がる。人肌、衣服、その温かさだった。


「とっ、父さんが、お前を必ず運ぶからなッ!」


 何て啖呵を切って、初老の彼は、中学三年生一人を抱えて、再び疾走り出す。

 振り向くと〝海〟は最早、目と鼻の先であった。

 咄嗟に叫ぶ。


「私なんて置いて行ってよ! 追い付かれるよ! 疾走ってるから見えないかもだけど、直ぐそこだから、背負ったままなんて絶対に無理ッ!」

「うるさいッ!」


 びくりと肩が震える。

 私と男の両方が、だった。

 正直、声を張り上げて反論されるなんて思いもしていなかったから、びっくりした。

 私やお母さんに対して声を荒らげるだとか、外で大声で話すだとか、そう言う素振りを見せた試しは一度もない男だったので、心底驚く。


「俺がッ、運ぶったらぁッ! ぶって、言ったらぁ、運ぶんだよぉ……ッ!! 文句有るかぁああッ!!!!」


 彼はぜぇはぁと息切れしながらも、必死に反論する。それはあの〝海〟から逃げている時よりも、余程必死に見えた。


「あの時の、答え……な。お前にはッ、笑ってて欲しいからぁ、でもぜんッ、全然心、開いてくれないじゃん……! だか、らぁッ! 笑い掛ける以外ないだろお!?」


 液体が伝う感覚。

 血じゃない。赤くないから。

 ──泣いていた。

 私は、不覚にもこんな父親面するだけの男に、泣かされてしまっていた。


「もう良い、分かった! 分かったからさぁ、止めてよ! 学費とか入院費とか、元々貧乏なのに無理して、単身赴任してたんだ、知ってたよ! なのに、なのに……ッ!! わたし……私、そこまでさせて助かりたくないッ!!」


 止めて欲しい。止めて欲しかった。

 本当は気付いてたんだ。

 本当は知ってたんだ。

 親の心子知らずなんて言うけれど、私のは、ただの見ない振りだったんだ!


「助かりたくないとか言うなぁッ、馬鹿野郎!!」


 叫び声が、森を木霊する。耳を劈く。


「いっぱい辛い思いさせちゃってたから! いっぱい寂しい思いさせちゃってたから!! ……せめて、この後くらいは幸せでいて欲しいんだよおォッ! 助かりたくないだと? ふざけるな!! 父さんはァ、ぜ、全力で猛反対してやる……ッ! 父さん、向日葵の父さんだからッッ!!!!」


 男は、お父さんは、体力も少ないだろうに、それでも叫んだ。叫んだ理由は、痛いほど分かった。とても痛かった。

 でも分からない。


「でもっ、私、ずっとお父さんに冷たかった! それでも良いの!?」

「良い、父さんだから!」

「酷いことも沢山言ったよ!? 作ってくれたラーメンとかも、投げ捨てたんだよ!?」

「言われた、捨てられた! だからなんだッ!!」


 ゴポゴポと水泡の爆ぜる音が迫る。

 そんなのはお構いなしに、お父さんは叫んだ。


「お前が生きてりゃ、そんくらい許せるのが親なんだよぉ! 父親ナメんじゃねぇッ!!」

「ずるいっ、ずるだよそんなの……っ!」


 嗚咽が聴こえる。

 泣きじゃくる声が聴こえる。

 喉と瞼がヒリヒリと熱い。

 きっと、私の泣き声だった。

 私には分かった。父の足取りが、少しづつ遅くなって行くのを、ひしひしと感じていた。

 父の息遣いが荒々しくなって行く様を、文字通りの隣で感じ取っていた。

 限界が近いんだ。

 どうにか、どうにか生かさないと。

 私なんかが生きてちゃいけない。世界ではこう言う人間こそ、生き延びるべきなんだ。

 べそかきで、直ぐに逃げる私なんかより、お父さんの方が余っ程、生き残るべきなんだ。


「お父さん、わたし……!」

「これに乗りなさい」


 気付けば、私は肩から降ろされていた。

 脚は万全とは言い難いけれど、自ら歩けるほどには回復している。

 父の指さした方向には、古びた不法投棄されように見える自転車が、一台だけ落ちていた。


「だめ……お父さんが使って」

「駄目だ。これはお前が乗るべき乗り物だ」

「違うの、私なんかよりッ!」

「俺を『お父さん』なんて呼んでくれるのは……嗚呼、何年振りだろうな。とにかく嬉しいけれど、でも、俺をお父さんと思ってくれているなら、ここはお前に乗って欲しいんだ」


 さっきから、言い方がずるいんだよ。

 父親だからだとか、そう思ってくれているならとか……。

 そんなの、断りようがないじゃないか……!

 やっと話せたのに。

 やっと和解出来たのに。

 やっと素直になれたのに、またそうやって私を独りにする。


「ほら、早く行け。振り返るんじゃないぞ。俺も、まあ……後で追い付くとか……漫画みたいなこと言おうとしたけど、ははっ、やっぱ無理だな! あははは」


 そう言って、私の後ろで弱々しく笑った。

 追い詰められている時ほど、良く笑う人だった。

 フラ付く脳で、身体で、私は自転車へと跨ると、そのまま漕ぎ始める。

 ペダルの一漕ぎ一漕ぎが、ここまで重く、罪悪感に塗れて感じるなんて、思いもよらなかった。

 それでも私は必死に漕いだ。

 タイヤが一回転する毎に、罪過と贖罪が、一遍にやって来る気がする。

 妙な気分だ。それでもって、厭な気分だ。

 上手くペダルが漕げない。

 上手く直進出来ない。

 視界が半透明の何かに阻まれ、前が良く見えない。

 息切れがしてもなお漕いだ。

 筋肉が悲鳴を上げてもなお漕いだ。

 それだけが、今の私の出来る、最低で最大限の償いだったから。

 これから私は生き続けなければならない。

 能天気で最高に花畑な、幸せ者にならなければならない。

 きっと、それが一番の親孝行だと気付いたから。

 けれども何故だろう。

 幸せになると決めた途端に、溢れ出したこの感情は。

 生きてやると決めた途端に、流れ出したこの液体は。

 流れるそれをひと舐めすると、僅かに塩気を感じさせる。

 眼からは確かに、海が流れていた。

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