⑩曇天

 大学生の夏休みとは長いもので、八月と九月の二ヵ月間も授業が休みだ。私は特にやることもなかったので、祖母の家事を手伝ったり、古川に誘われて短期のバイトをしたりして、それなりな休みを過ごしていた。しかし、遂にこの日が来てしまった。

 夏休みも終盤の九月末、暑さが落ち着いて過ごしやすい曇天の今日、サークル活動の一環として都内のコーヒーイベントに赴く。もちろん、そこには彼の姿もあった。私が彼に一緒に出掛けようと提案したところ、彼は佐伯と中田そして今野を誘った。結果、サークルに所属する五人でイベントに参加することになったのである。

 本当は彼とふたりのつもりだったのに。そんな悔しく思う気持ちも今では薄れ、むしろ彼と一緒に過ごすことへの居心地の悪さが大きかった。

 彼は私を避けた。彼の優しさを信じていた私は裏切られた。彼に勝手な期待をした自分が勝手に失望しているだけだとわかっている。しかし、私の負ったダメージは想像以上に深刻で、どうしても彼を直視できないうえに、彼を想うと憂鬱になるのだ。

 都会のコンクリートジャングルのなかに現れた小さな公園には、白いテントがいくつか設営されている。休日の静かなビル街の一角に、活気のある空間ができていた。ここが今日の会場のようだ。

「いやぁ、雨降らなくてよかったわ。晴れてればもっと良かったんだけどね」

 佐伯は以前よりも脱色されて銀色になった髪を弄りながら、不満そうにしている。

「夜から雨らしいよ、のんびりしてると降られちゃうね」

 中田は佐伯に向かって言った。楽しげに話す女性陣の後ろを、私と今野と彼は横並びで歩く。今野は元々無口そうだし、私と彼はどこか気まずい気持ちがお互いにあったので、特に会話は生まれない。ただ佐伯と中田に黙ってついていくだけだ。

 会場に入るとすぐコーヒーのキッチンカーが並んでいるのが見える。キャンペーンで試飲をしているらしく、コーヒーの入った小さな紙コップが手渡された。どうやら環境に配慮した方法でつくられたコーヒーらしい。フルーティーで甘い味わい、と配っていた男は言っていた。

「うん、うまいな」

 今野が呟く。それに同調するように彼は、うんうんと頷いた。私もひとくち飲んでみるが、居心地の悪さからか味がよくわからない。コーヒーが苦手だった数ヵ月前のように、ただ黒くて苦くて酸っぱい液体を口に含んでいる感覚だ。

「おいしいねこれ。佐藤くん、飲めそう? どう?」

 彼は不自然に声を張って私に尋ねた。

「あ……はい、美味しいです」

 彼の声とは対照に、いつもより小さくて気の抜けた声で私は返した。

「そっか、よかった」

 彼はほっとしたような表情を見せてから、残りのコーヒーをぐいと飲み込んだ。紙コップ捨ててこようか、と気を利かせた彼にせかされ、私はタールのような液体を一気に飲み干して彼に空の紙コップを渡した。

 会場にはいくつもの催し物が開かれていた。ワークショップや体験会、物販などを五人で巡る。初めは男女別で会話していたが、途中から私と佐伯と今野でワークショップに参加した。彼と離れることができて、正直助かった。話好きな佐伯はひとりで喋り続けるため、私は相槌を打つだけだ。佐伯は彼氏や教授の愚痴を言い、今野は適度になだめていた。

 ワークショップが終わり、しばらくして彼と中田に合流した。ふたりはハンドメイドの雑貨を物色していたらしい。気がつけばもう夕方の良い時間だ。鈍色の空は一段と暗くなり、会場の人ごみも潮が引くようにいなくなっている。

 私たちは、最後に会場で提供されているコーヒーを一杯飲んでから解散となった。コーヒーはいくつか種類が選べたのでキッチンカーの前のメニューを見て迷っていると、彼が背後から現れた。

「迷ってる?」

 いつもの優しげな顔だ。でも、これに惑わされてはいけない。私は心を整えてから慎重に声を発する。

「いえ、もう決まりました」

「どれにするの?」

「これです」

 定番そうなハウスブレンドを指さす。

「そっか、じゃあ注文しちゃうね」

 そう言うと彼は私の分までレジで注文し、支払いをした。これはいけない。咄嗟にそう思った。彼の行動の真意はわからない。でも、こうして彼に借りをつくりたくはなかった。

「お金、払います」

 財布からコーヒー代である五百円を出す。しかし彼は断固として受け取らない。

「いいの、先輩に奢られなさい。俺が好きでやってることだから」

 私は彼のことが、またわからなくなった。私が嫌ならもっと避ければいい。でも彼は私に話しかけるし、コーヒーを奢ろうとする。後輩で、男の私なんかを構ったところで彼のメリットなんてないはずだ。これは彼の素の優しさなのか。それとも、なついてくる後輩だから仕方なくなのか。もしかして同情なのか。

 彼から受け取ったコーヒーを飲んでも味がいまいちわからない。このコーヒーをどういう気持ちで飲んでいいのか、自分のなかではっきりとしないのだ。

 結局、せっかくのイベントはもやもやと彼のことを考えて終わった。佐伯と中田はふたりで夕飯を食べてから帰るらしく、さらに今野はこの後用事があるらしい。会場の公園前で解散になり、その場には私と彼だけが取り残された。

「じゃあお疲れ様です。失礼します」

 その場に彼とふたりきりでとどまりたくはなく、私は早歩きで立ち去る。

「せっかくだし、駅まで一緒に帰ろうよ」

 自分の後ろから彼の声がする。私は聞こえないふりをして、振り返らずにただ歩く。

「どうしたの? 急いでる?」

 彼は小走りで私に追いつく。

「ええ、まあ。雨も降りそうですし」

「そっか、今日はどうだった?」

「楽しかったですよ。すごく」

 私はそっけなく返答する。そんな私の態度など気にしていないかのように彼は話しかけてくる。まるで、数ヵ月前の、しがらみのなかった私たちの関係を再現するかのように。

 いらいらとする気持ちから、歩くスピードはどんどん速くなり、頭は冷静さを失う。小雨は降り始め、細かな雨粒を顔に感じる。

「あ、雨が降ってきたね。傘ある?」

「大丈夫です」

 折りたたみ傘を出そうとカバンを手で探る。しまった、傘を忘れた。しかし、これを彼に気付かれてはいけない。彼は私が困っているとすぐに助けようとするからだ。

「この程度なら、傘はいりません」

 そう言った私をあざ笑うかのように、だんだんと雨脚は強くなる。傘を忘れた自分を恨み、彼を疎み、ただ駅に向かって足を動かす。

「結構強くなってきたけど……俺の傘、入る?」

 傘を持っていないことは、ばれていた。親切そうな表情で傘を差し出す彼に見つめられ、私はたまらなく惨めで恥ずかしくなる。

「いらないです」

 差し出された傘を手ではじくと、傘からは滝のように雨水が零れる。そして、その雨水は彼へと降り注がれた。

「すみませ――」

「あ、うん、ごめんね……」

 彼はずぶ濡れで哀しく笑った。私もずぶ濡れだった。

 雨はとっくに土砂降りだった。

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