第14話

Chap.14


 「そろそろ戻る方がいいかな」 

 そう言ってオールに手を伸ばしたユマが、船着場のある岸辺の方を見てあっと言って眉をしかめた。春花もそちらを見る。岸辺の小道を歩いている三人の人影。遠くて顔がはっきり見えるわけではないけれど、リオと俊、そしてメラニーのようだった。

「信じられない」

 オールを掴んだユマは眉をしかめたままきれいにボートを方向転換させると、岸に向かって漕ぎ出した。

「こんな朝早くに来るなんて」

 船着場に向かって漕いでいるので、当然ユマは三人に背を向けていて、春花からは三人がよく見えた。メラニーは真っ白なジャージの上下のようなものを着ている。長い黒髪が今日はポニーテイルになっていて、春花は松宮彩のことを思い出した。

「ジョギングかな」

 春花がつぶやくと、ユマが鼻を鳴らした。

「自分の周りでも走ってればいいのに」

「でもバレエスクールがここの近くなんでしょ?」

「だからってこんな朝早くに来るなんて変だよ。絶対俊が来るかもと思って来たんだよ」

 三人は船着場の辺りで立ち止まって、ちょっとこちらを見ているふうだったけれど、すぐにメラニーがストレッチらしきことを始めた。バレエのステップを踏んだり、ポーズをいくつか決めたり、俊の肩につかまって片足で立ったりしている。

「何してる?」

「メラニーが俊ちゃんの肩につかまってストレッチみたいなことしてる」

「やっぱりね」

 ユマがまた鼻を鳴らす。春花は不思議に思った。

「…リオより俊ちゃんの方がいいのかな」

 公平に見て、リオの方がハンサムだと思うんだけど。

「リオはエリートすぎるもの。独り占めできる相手じゃないから近寄らないんだよ」

「なるほど…」

 感心してしまう。すごい五年生だ。  

 ボートはすいすい進んで、三人の顔がはっきりわかるようになった。メラニーはまだ俊の肩につかまって脚を高く上げたりしている。こちらを見たリオが、笑顔で手を振った。それに気づいた俊がこちらを向こうとしたが、メラニーに「動かないで!」と言われたように慌てて身体の向きを元に戻した。

 なんだかやな感じ。

 リオに手を振り返しながら、春花は心の中で眉をしかめた。

 嫌だな、こんな気持ちになるなんて。

 見ていると、今度はメラニーが俊の手をとって庭の方へ行こうというように引っ張った。三人の間で何か言葉が交わされ、俊はこっちを振り返ってちょっと手を上げ、メラニーと一緒に庭の方へ歩いていった。メラニーに手を取られたまま。

「…メラニーが俊ちゃんの手をとって、庭の方に一緒に行っちゃった」

 思わず実況中継をしてしまう。ユマは腹立たしそうに大きなため息をついた。

「決まりだね。俊が次の犠牲者」

 心配そうに春花を見る。

「ママに言ってみるよ。なんとかメラニーがここに来ないようにして、って」

「え、ううん、そんな」

 春花は慌てて首を振った。

「だって…俊ちゃんはメラニーと気が合うかもしれないし」

「春花はそれでいいの?俊を独占されてもいいの?すごく嫌な気持ちになるよ」

「…うーん、それは…そういう経験したことがないからわからないけど…。でも俊ちゃんはハルじゃないから」

 そうだ。俊ちゃんはハルじゃない。

「ユマは、アリを…お兄さんを独占されそうになって、嫌な気持ちになったんでしょ?私もメラニーがハルを独占しようとしたらすごく嫌な気持ちになると思うけど…。俊ちゃんは幼馴染だし、きっと大丈夫だと思う」

 兄妹みたいなもん、と俊ちゃんは言ったけど、本当の兄妹じゃないんだもの。そう。「ただの」幼馴染だ。それに…。

 一瞬心の中で足踏みをしてから、その言葉を口に出してみる。

「…こ、恋人ってわけでもないしね」

「そう…?」

 ユマはまだ心配そうだったけれど、ややあってこくりと頷いた。

「わかった。でも、メラニーのやり方があんまりひどいようだったら、私、ママに言うから。なんとかして、って」

 春花はうふふと笑ってからかうように言った。

「さすが学級委員。大人に言いつけるんだ」

 ユマはふふんと小生意気に顎を上げてみせた。

「そ。大人はうまく利用しなきゃね」

「言うねえ」


 「すごいね、見事な腕前だ」

 船着場で待っていたリオがユマに称賛の笑顔を向けた。

「ありがとう。メラニーとどこで会ったの?」

「駅の前。俊に会いたかったらしくて、会えてすごく喜んでた。従姉妹なんだって?」

 ユマが顔をしかめる。

「残念ながらね」

「おやおや」

「リオ、春花、ユマ!」

 庭の方からメラニーが甲高い声で呼ばわった。

「早く!ホットチョコレートが冷めちゃうわよ!」

「…あんたに呼ばれたくない。誰んだと思ってんの」

 ユマがぶつぶつ言って、リオと春花はユマの頭越しに微笑を交わした。

 

 三人がキッチンに入ると、俊とメラニーはもうテーブルについていて、ホットチョコレートのマグカップを前に話に興じていた。といっても話しているのは主にメラニーで、早口でバレエのことをあれこれ話していた。

 春花はお父さんの絵本を手に、窓際に立ってホットチョコレートを啜っているエルザにそっと近づいた。できればメラニーにはこの本を見せたくないと思った。メラニーのおしゃべりの邪魔にならないように声をひそめて言う。

「これ…ありがとうございました」

「どういたしまして」

 エルザはにっこりして大事そうに絵本を受け取った。

「素敵な絵本でしょう」

「はい。あの…この本、父も持ってるはずですよね」

 当然だろうと思いながらも一応訊いてみると、意外な返事が返ってきた。

「持ってないかもしれないわ。あの時潤が言ったの『これ、引っ越しで無くすと困るから預かっといて』って。大学を卒業して他の町に引っ越す頃だったわね。…ここに来なくなってしまう少し前だった」

「…そうだったんですか」

「もちろん、他にもコピーを持っていたかもしれないけど、でも…」

「ねえエルザ叔母さん、私がコンクールで二度目に優勝した時のこと、覚えてるでしょ?」

 メラニーが声を張り上げてこちらを振り返った。

「え?ええ、覚えてるわよ」

「審査員の中にね、ジェン・メリウェザーがいたの。世界一のダンサーよ。彼女が私の将来が楽しみだって言ったの。そうよね?」

 早口で俊に説明し、また振り返ってエルザに相槌を求める。

「ええ、そうね」

「私はまだ9歳だったけど、ジェン・メリウェザーにそんなことを言われるのがどういう意味か、ちゃんとわかったわ…」

 俊に向かって滔々と自分の偉業を話し続けるメラニーを見て、エルザが眉をひそめてため息をついた。エルザの隣に立ったユマが春花に向かって目をぐるりんと回してみせる。 

 マグカップを持ったリオが寄ってきて、

「六時半でいいんだよね?」

「うん」

「了解。…あ、それも潤さんの作品ですか」

 エルザの手にしていた絵本に目をとめる。

「ええ」

 エルザが絵本を差し出したので、リオはマグカップを調理台の上に置いてから受け取った。

「いい絵ですね。とても綺麗だ」

 そっとページをめくっていく。

 その隣でおいしいおいしいホットチョコレートを少しずつ啜りながら、春花はこちらを向いて座っている俊の顔をちらちらと伺っていた。メラニーの話を時折相槌を打ちながら熱心に聴いている。感心したり、微笑んだり、真剣な顔をしたり。

 メラニーの話は主にコンクールや発表会やオーディションのことだった。すごいな…と春花は素直に感心した。小さい時からそんなにたくさんのコンクールに出て優勝したりしてるなんて。私なんて、なんのコンクールに出たこともない…   

「あのね、ママ、春花の朗読ってほんっとにすごいの!」

 ユマが突然大きな声で言ったので、春花はびくっとしてバレエの世界からキッチンに戻ってきた。

「あんな朗読聞いたの初めて。ほら、アンナが読むの聴いたことあるでしょ?あんなわざとらしいのじゃないの。もっと静かで、柔らかくて、聴いてるとすうって物語の世界の中に入っていっちゃう感じなんだよ。春花の声を聴いてるだけなのに、物語の中の色んな場面が見えて、色んな声が聞こえるの」

 まあ、とエルザが顔をほころばせ、へえ、とリオが微笑んだ。

「それは是非聴きたいな」

「ほんと、是非聴きたいわ。どんなお話を読むのが好き?」

「ええーと…」

 どんなお話を朗読するのが好きかなんて考えたこともなかった。

「リクエスト!『ピーター・パン』聴きたい!」

 テーブルの向こうから俊が言って、エルザとユマとリオがいいねいいねと頷く。ちらりとこちらを見たメラニーと目が合って、春花はびっくりした。

 睨んでる。

 メラニーはすぐにまた俊の方に向き直ったので、それはほんの一、二秒のことだったけれど、でも確かに春花を睨んでいた。

「いいけど…でもそんなふうに言われるとなんか緊張しちゃうな」

 ちょっと笑ってみんなにそう答えながら、心の中で春花はユマがよく言うように「わお」と呟いた。本当に俊ちゃんのこと独占したいんだ、この子。なんだか…性格悪そう。気をつけよう。

 しばらくして六時半になったので、みんなでぞろぞろと『敷石』の置いてある居間に移動した。メラニーは俊の隣にぴったりくっついて歩きながら、後でまた来るんでしょ、何時に来るの、今日は午前中は大事なレッスンがあるけどランチタイムだったら会いに来れるわ、などと早口で喋っている。その甲高い声に隠れるようにして、ユマがひそひそ言った。

「さっき、春花のこと睨んでたよ」

「うん、気づいた。びっくりしちゃった」

 こういう経験は初めてだった。物語でも、現実でも、そういうことを見聞きしたことはあるし、陰口なら言われたことがあるけれど、こんなふうにダイレクトに誰かに敵意を向けられたことはなかった。

 帰り際、メラニーが春花のすぐ隣に立っていた俊にぎゅうっとばかりに抱きついたので、春花はギョッとなった。名状しがたい感情が湧き起こって混乱した次の瞬間、ユマが負けじと盛大に春花をハグしたので、春花は笑い出してしまい、温かい気持ちが不快な混乱を消してくれた。


 また今夜十時にという約束をしてリオが帰った後、春花と俊は靴を入れたビニール袋を手に、そうっと階段を降りた。あたりにトマトソース系のいい匂いが漂っていて、キッチンからはお母さんが料理をしている音とビートルズが聞こえてくる。

「いい匂い。腹減ったー」

 玄関の戸をそっと閉めて外に出ると、俊が胃の辺りをさすりながら言った。

「町、どうだった?朝市行ったの?」

 本当はメラニーのことを訊きたかったけれど、春花はまずそう尋ねた。

「いや、朝市に行く途中で、駅の前を通りかかったらちょうどメルが出てきてさ、それでそこでしばらく立ち話して、そしたらメルが湖のほうに行きたいっていうから、そのまま一緒に戻ったんだ」

「ふうん」

 早速メラニーの言いなりになってるんだ。しかもメルだって。

「残念だったね、朝市行かれなくて」

「まあ、いつでも行かれるしな。メルが今度一緒に行こうって言ってた」

 一緒に、って、つまり俊ちゃんとメラニー二人きりでってことでしょ。

「ずいぶん喋るの好きみたいね、メラニーって」

 さりげなく皮肉を言うと、俊はおかしそうに笑った。

「そうなんだよ。駅で会ってからずっと喋りっぱなしでさ。リオなんてちょっとうんざりしてるみたいだった」

 俊ちゃんは?うんざりしなかったの?

「そんなにいっぱいなんの話してたの?」

「んー主にバレエの話かな。三歳で始めたんだって。誰にも教わらないのに、音楽をかけるといつも踊ってたから、それで親がバレエ教室に連れてったら、最初のレッスンからどんな動きも完璧にできて、先生が天才だって驚いたんだってさ」

「ふうん」

 本人曰く、ね。

「楽しくて夢中で、どんな練習もトレーニングもちっとも苦にならないって。小さい頃からたくさんコンクールに出場して、いつも上位入賞、ほとんどは優勝だってさ。すごいよな」

 そりゃ他の子達が学校に行って勉強してる時間もバレエばっかりやってればいいんだから、勝てたって当たり前なんじゃない?フェアじゃないよね。

 そう言いたくて口がむずむずしたけれど、

「ほんと、すごいね」

 と言っておいた。さっき、湖の家のキッチンでは素直にすごいなあと思えたのに、今はちっともそんなふうに思えなかった。

「でも、なんていうか…、ちょっと痛々しいような感じもする」

 門の脇の塀に寄りかかって、俊はポケットに手を突っ込んだ。星のきらめきはじめた空を見上げる。

「あんなふうにいっぱい昔の自慢をするのは、きっと今不安だからなんじゃないかなって。怪我のことは詳しくは聞いてないけど、まだリハビリ中だっていうし…。辛いんじゃないかと思うよ」

「…そうだね」

 温かいオレンジ色の玄関脇の明かりに半分照らされている俊の整った顔を眺めて、春花はそっとため息をついた。

 俊ちゃんは優しい。わんこにも人にも。

 でも、もしかして…もしかしてメラニーに優しいのは、それとちょっと違うのかな。

「で?そっちは?ボート」

「え?…ああ、うん、ユマさすがだったよ。きれいなフォームで、ぐんぐんスイスイ。すっごく気持ちよかった」

「そっか。なんの本読んだの」

「お父さんの絵本。昨日見たのじゃなくて、大学のサークルかなにかで作ったらしい本。『春のおはなし』っていうの。絵は昨日の絵本とちょっと違う雰囲気だった。水彩で、もっと透明な感じ。お話も、ちょっと詩的な感じでね、いくつかの違うお話が書いてあるの。絵もお話も、昨日のより少し大人っぽい感じかな」

 俊が微笑む。

「へえ…読んでみたいな」

「その中にね…」

 春花は木と花の会話のことを話した。

「それとほとんどそっくり同じ会話を、小さい時にハルとしたことがあるの。びっくりして、読み終わった時にぼうっとなっちゃった。どういうことなんだろうって。ハルはこれ読んだことあったのかな、って」

 泣いたことは言わずにおいた。俊は黙って聴いている。

「それでエルザに念のため訊いてみたの。お父さんも同じ本持ってますよね、って。そしたらエルザは、持ってないかもしれないって言ったの。お父さんが、大学卒業して引っ越しする頃にその本を持ってきて、引っ越しで無くすと困るから預かっておいて、って言ったんだって。来なくなってしまう少し前だったって」

「……」

 俊がまだ黙っているので、春花はちょっと息をついて続けた。

「でも…家に同じ本があったに決まってるよね。偶然だなんて…」

 突然遮るように俊が言った。

「何歳くらいの頃?それ」

「幼稚園の時」

 俊は大きく息をついた。そのまま黙って俯く。陰になって表情が見えない。

「…どうしたの」

 おずおずと訊くと、俊は「いや」と小さく笑って、また大きく息をついた。

「……そんな小っちゃい頃から、そんなこと言ってたのか、って…」

 言葉を探すようにして視線を宙に浮かせる。

「…なんていうか、やっぱり兄妹って特別な…絆みたいのがあるんだろうなって今改めて思った。ルカとハルはその中でも特別なのかもしれないけど。…なんか、すごい…眩しいっていうか、到底かなわないっていうか…。羨ましい」

 俊の目が春花の目をじっと見つめた。

「ほんとに羨ましい」

 俊の眼差しに吸い寄せられるような気がして、身体がふっと揺らいだ。

 と、急に門に近づく足音が聞こえ、あっと声にならないような息をのむ音がした。柔らかい光が、門に手を伸ばしかけたお父さんを照らしていた。灯りを背にした俊を凝視している。

 春樹。

 お父さんの声が聞こえたような気がした。

「お帰りなさい」

 二人の声が重なる。一瞬ストップモーションになっていたお父さんの顔に、ちょっとぎこちない笑顔が浮かんだ。

「ただいま」

 そう言って門を開け、改めて俊を見て嬉しそうに目を細める。

「俊ちゃん、今日はうちで食べてってくれるんだって?」

「はい、ご馳走になります」

「前みたいにちょくちょく寄って。春花もいるし。…ああ、でも受験生だね。忙しいね」

「いえ、全然。ちょくちょく寄らせてもらいます」

 俊がおどけて頭を下げた。



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