第3話 「そうだ 京都、行こう。」

 平日に一泊二日で伊豆半島の真ん中にある修善寺という温泉街に行った。紅葉狩りをして温泉に浸かるだけの旅だ。椿と二人夫婦水入らずで秋を堪能する旅だった。


 紅葉シーズンに山を見ながら温泉に浸かりたいのは日本人の九割に共通する欲求だ。旅館も平日にしては割高だった。


 向日葵は、これはきっと道路も渋滞する、と踏んで公共交通機関を使うことにした。沼津から伊豆に行く道路は国道414号線か同136号線しかない。車で行ったら大変なことになる。


 二人はわざわざバスで沼津駅まで出て、沼津駅から三島駅までJR、三島駅から修善寺駅まで伊豆箱根鉄道に乗った。


 車社会に生きる向日葵からしたら、車ならものの一時間もしない距離を倍近くかけてしまってもったいない、という気持ちと、周囲に注意を払って運転する必要はないので気が楽だ、という気持ちとで善し悪しだ。たまにはいいか。


 まずはチェックインして荷物を下ろし、温泉街を散策し、紅葉を見ながら温泉に浸かる。

 上げ膳据え膳で食事をし、また温泉に浸かり、いちゃついてから寝る。

 起きたらまた温泉に入り、ご飯を出してもらって食べ、またまた温泉に入り、チェックアウトする。


 自由だった。


 向日葵は普段から実家の家族に甘えてのびのび暮らしているが、どんなに深く愛する家族でもまったく気をつかわないわけではない。紅葉は綺麗だし、温泉は気持ちいいし、他人が、それもプロが客から金をとるために作った食事は誰が何と言おうとうまい。


 復路も電車に揺られてのんびり沼津駅に帰ってきた。


 1番線のホームに降り、階段を上がる。上がり切ると南北に伸びる通路があって、右に行けば北口、左に行けば南口だ。


 向日葵は何のためらいもなく南口に向かおうとした。


「あ!」


 椿が突然大きな声を上げて立ち上がった。


「なに? どうした? 何か忘れ物?」


 慌てて振り向いて駆け寄った。


 彼の目は通路の壁を見ていた。そこには鉄道利用客を旅行にいざなうポスターが貼られていた。


「これや!」


 ポスターを見上げて、向日葵も「お」と呟いた。


 どこかの寺だろうか。真っ白な障子と黒い影になっている木枠、そのはざまから見える整った石庭と咲くように広がる紅葉の写真が使われている、美しいポスターだった。


 白抜きで、『「そうだ 京都、行こう。」』と書かれている。


 JR東海の、かの有名な新幹線の宣伝ポスターだ。


「このポスター実在するんか!」


 その京都からやってきた彼にとってはどうやらもの珍しいらしい。


「これめっちゃみんな言うやん! うちの実家に来るお客さんもよそ様はだいたい言及しはったで!」

「実在を疑ってたのか」

「写真撮っとこ」


 ポケットからiPhoneを取り出してかざす。人の往来のある通路の真ん中でそんなことをされるとさすがの向日葵もちょっぴり恥ずかしい。


「駅員さんに言ってもらってこようか?」

「さすがにいらんわ、持って帰ってどこ貼るん?」


 向日葵もしげしげとポスターを眺める。


 秋の京都は本当に美しい。京都に美しくない季節などないが、紅葉のシーズンは特別風情がある。実際に京都で学生時代を過ごした向日葵からすると、見ごろの季節はなかなかやってこない上にあっという間に終わってしまう気がしていたが、京都は山に囲まれた盆地だ、平地の下宿と大学のキャンパスを往復していた向日葵にはわからない山中に紅葉スポットがあるのだろう。


「綺麗だね、京都」

「プロの写真家さんが坊さんに許可取って無人のとこじっくり撮らはったからと違うの。僕が撮ったらこうはならんわ」

「なるほど」


 しかし向日葵は冬の京都が一番好きだった。


 通な人は金閣寺より銀閣寺が良いと言うが、向日葵は張替から少し年月が経ってくすんだ金箔に真っ白な雪が降り積もる冬の金閣寺がどこよりも好きだった。


 白い雪、金の楼閣、緑の松、そういった静かで高貴なものを背景にして立つ和服姿の椿はこの世の者とは思えぬ美しさで、手を伸ばさなければ雪とともに解けて消えてしまいそうだった。


 あの冬からはもうすぐ一年、彼が静岡に引っ越してきてからは三ヵ月になる。この間世界はめまぐるしく変わった。危ういほどはかなげだった椿は太平洋の太陽の光にさらされてたくましくなりつつある。


 今の彼からは生を感じる。


 あの頃の、食事も外出も断ってゆるやかに死に向かっていた彼はもう戻ってこなくていい。そのまま記憶の中に閉じ込めて、二度とよみがえらなくていい。


 食べて、セックスして、寝て、無理のない範囲で働いて、笑って、笑って笑って、能天気に、肯定的に生きていてくれれば、他に何も望むことはない。


「このポスター、関西にはなかったっけ?」

「わからへん。僕の生活、市バスで完結しとったからな。阪急でさえひいさんと大阪遊びに行く時しか使わへんかったのに、JRなんて、とてもとても」

「そういえばそうだったね」


 満足したらしい。椿がバッグのポケットにiPhoneを突っ込んだ。


「お腹空いたー。今日のお昼なに食べるー?」

「昨日の晩と今日の朝が和食だったから昼は洋食にしようかね」

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