第24話

 タクシーを降りると、ちょっとした坂を下り、私は平屋建てのドアを開けた

「え?鍵は?」

「馬鹿ね、この町で盗みを働くのなんて山から来る猿ぐらいよ。それが出ない時期は鍵なんて閉める必要ないのよ」

「それはいつもの冗談?」

「まさか、本当の話よ」

 私は靴を脱ぎ、部屋に上がると、居間の電気をつけ、掘りごたつの電気を入れた。押し入れから座布団を出すと田口に好きな席に座るように言い、奥の部屋に向かうと、祖父と祖母の写真が並ぶ仏壇に線香を立てた。

「お腹空いてる?」そう訊くと「割と?」というので「ちょっと待ってて」と言い残し、私は台所へ向かった。おばちゃんが「用意したから食べるように」と言っていた、こんにゃくの煮物を火に掛け、冷蔵庫を開けると、豪勢すぎる刺身の盛り合わせと、馬刺しが入っていた。冷蔵庫には「ビールも日本酒もお好きにどうぞ。でも倒れるまで飲んじゃだめよ」と書いた紙が貼ってあった。幼稚園の頃、この家で一人留守番をしていた時、勝手にキリンビールの中瓶を飲み干し、泥酔して倒れていたことを、おばちゃんは未だに覚えているのだ。

もう一枚のメモに「朝ぬか漬けを入れておいたから、忘れないで食べてね。蕪、茄子、胡瓜、一個ずつ」と書かれていたので、冷蔵庫脇の土間に置かれた大きな壺から糠に漬けられたそれらを取り出し、軽くすすぐと包丁で切った。

「ねえ、ビールと熱燗どっちがいい?」と、声を張ると「熱燗!」と返事が返ってくる。

 あらかたの用意が終わると、大きいお盆にそれらを乗せて居間に運んだ。

「何やってるの?」

「写真を見てたんだよ、これ、君?」

「それはここの家の主のおばちゃんね」

「すごく似てる」

「そうなの、私、父にも母にも似てないけれど、何故かおばちゃんにそっくりなの。それよりねえ、手伝って」

そういって、お盆の上のものをテーブルに並べてもらっている間に、私は台所に熱燗を取りに行った。戻ってくると、田口は立ち膝のまま、料理を眺めている。

「すごい豪華……、これは?」

「馬刺しよ」

「赤いね」

「信州やこっちの方の馬刺しは赤身が多いわよ。私は九州のサシが入った物よりこっちの方が好きだわ」

 そういって、千切りにした生姜と大葉、細かく刻んだ葱、すりおろした大蒜に、七味唐辛子を振りかけた器を指差し。

「ここに醤油を入れて、これを付けて食べて。それとこっちは刺身用ね」そう言って、からの小皿に指先の向きを変えた。


 私たちが四本目の熱燗を手酌しだす頃

「ところで、あのテレビ台の下のやつは何?」と田口が訊いた。

「ああ、あれ? あれは私が作ったの、オブジェ」

「道理で」

「どういう意味?」

「大抵こういう田舎の家に来るとさ、テレビ台の下とかに、お手玉の生地みたいな布で出来た、誰かの手作りの人形だったり、お土産の変な小さいやつが沢山並んでる記憶があって。でもあれはどこからどう見ても、そういうんじゃなかったから」

「そういうんじゃないって、どういうのに見えたの?」

「なんか、君のあのマンションっぽかったんだよ」

「古臭くて変なこだわりに偏ってるってこと?」

「違うよ、お洒落というか、意味がわからないというか」

「それ……、」

「褒めてるよ、褒めてる。もうああいうのは作らないの?」

「もう、作れなくなっちゃったのよ。元々は、あれを作りたくてはじめたのにね。情熱ってこんな簡単に行方不明になって戻ってこないものだなんて思ってもみなかったわよ」

 私は頬杖をつきながら、テレビ台の下を眺めた。裏隣の家で子供たちの駆け回っている足音が聞こえ、田口は掘りごたつの中で私の足をつついていた。「なんか、こういうところでのんびりするのって、悪くないなと思ってたんだけど」

「けど?」

「あれを見てたら、あのマンションがすごく恋しくなってきた」と、言った。

 古い時計が、ぼおん。と、間延びした音を八回鳴らし、私たちは茶碗を洗い、歯を磨き、おばちゃんが用意してくれた新品のパジャマを来て、お客さん用のふかふかした布団の用意されている(と言っていた)部屋に移動した。

「学校や旅館で見た事はあるけど……、変わった家だね。コの字になってるの?」と田口は言いながら、それに沿って作られた窓張りの廊下から暫く庭を眺めていた。何の手も施されていない中庭は、苔と雑草がのびのびと暮らしており、もう何年も誰の邪魔も入っていないという風貌だった。岩や石などにへばりついた苔が夜露に濡れ、月明を浴びて艶めかしさを増しいていた。風で流されているであろう雲の影がなめらかに形を変える度、苔がずるずると這い出し、こちらに襲い掛かってくるのではないかと思った。「駄目ね、私、酔ってるみたい」と言うと、田口を置いて先に布団に入った。布団の中には電気あんかが入っていたので、私は自分の分と田口の分の布団に入れられたあんかのジャックをコンセントに刺した。暫くして田口が戸を開け部屋に入ると「寝た?」と訊いてきたので「寝た」と答えると、田口はくつくつと笑いながら私に覆いかぶさった。私が「重い」と文句を言うと身体を横にずらし、布団ごと私を抱き締めて田口は言った。

「俺はね、もう少し君と暮らしたら、そのコンシェルジュだかなんだかのいるマンションにでもどこにでも住んであげますよ」

 私の心臓は私のものとは思えない程大きな音を立て、どうにか「知ってたの?」と、声を押し出すと、田口は首を振りながら「いや、いいんだよ。この間、君の携帯を借りて伊藤に電話しようとして番号を押したら、伊藤の名前が出表示されたからさ、可笑しいなと思って。悪いとは思ったけど、勝手にメールも見た。ごめん」私がそれに対して黙っていると、「詳しくは読んでないけどね、マンション案内とかが添付されてたから……、なんとなく分かるよ、あいつがしそうなことなんて」そう言うと、田口は私から体を離し、涅槃の座の姿勢をとると、話を続けた。「目の前で泣かれたりした? 普通、常識があって分別のつく大人の男はそういう事をしないんだよ。でもあいつは違う。君も伊藤に絆された内のひとり?」

それに対しても黙っていると

「ねえ、君はどこからどこまでが本当で嘘か全然わからないよ」と言った。

「これからは、あなたが嘘か本当か聞いたら、全部答えてあげるわよ、それは嘘です、これは本当です。って」

「役に立つかな?」

「さあ、それを決めるのはあなたであって、私ではないから」

「別に俺は北海道だかなんだかでもいいんだけどね、でもまあ寒いのは苦手だし、孤独を愛するような男でもないから、できれば東京で窮屈に暮らせた方が良いよ」というので、ふ。と、伊藤さんとそれを話したのはメールではなく電話だったのではないかと思い返していると「そもそもね、換気だかなんだかで窓を開けたまま家の前で電話をしてたら聞こえるんだよ」と田口が言った。私は「ああ」と言うと「俺はね、君のそういうところを気に入っているんだよ。でも」そう言い淀んだ後、「言い訳ぐらいしてくれないかな、そうしないと僕には本当に君が何を考えているのか、まるで分りもしないじゃないか」と言った。

そこで私はやっと「ごめん」と言うと「あなたの事を知らなかったのは本当。あなたを拾った翌日、久しぶりにテレビを付けたら、あなたに関するニュースが流れたの。そこで初めてあなたが田口だってことを知ったわ。それから……、私は私なりに考えて、大っぴらにならない方法で伊藤さんを紹介してもらい、あなたを預かっている事を伝えた。誰にも言わないと言いながらこそこそして悪かったとは思っている」そう掻い摘んで説明した。

「別に謝って欲しい訳じゃないよ。実際君にはとても良くして貰ったしね。それに考えて対応してくれたのも分かる。伊藤への連絡のメールもさ、言うべきことと、言わなくていいことをちゃんと分けてくれていたしね」

「ところで君のおばさんって、とても親切だね。誰にでもこうなの?」

「そうね、元々親切な人よ。旅行に行くと親戚全員一人残らずお土産を買ってわざわざ郵送してくれるような人よ。兄弟が結婚して出て行って、親も死んで、おばちゃんが一人この家に残ったもんだから、親戚の皆で代わる代わる様子を見に来るの。その度こうやって、もてなしてくれるの。でね、親が言うのよ。おばちゃんがお前たちに良くしてくれるのは、親の自分たちがおばちゃんに良くしてる、そのお礼だって事を忘れるなよ。って。

 勿論それもあると思う。でもね、私、一人を長くやってるから分かるの。張り切るのよ、誰かが来るって分かると。特に親に嫌々連れて切られてきた子供になんてね、申し訳なくなっちゃうものね」

「でね、あなたは私にがっかりしたのかしら。それとも恨んでる? 私はあなたを傷つけたのかしら」

「良く分からないな。恨んでもいないし、がっかりするほど何の期待もしてない。むしろ期待してないながらに良くしてくれた方だと思うよ、信じられないくらいに。さっきも言ったけどさ。それに、傷つくとかそういうのは別問題だよ。だって俺たち、信用し合うとかそういう関係以前の問題じゃないか」そう言うと田口は、その話はもう興味がないという様に、自分の両手を天井に掲げ意味もなく掌を翻したりしながら「ああ、じゃあ君の親切さもおばさんに似たんだな」と言って笑った。

「そういえば、あなたって、身寄りは居ないの?」

「どうしたの、唐突に。そういう事は伊藤から訊かなかったの?」

「またそういう……」

「冗談だよ。

 そうだな、うちは中学の頃に親父が癌で死んで、俺が高校二年生の頃、学校が終わって帰ると風呂場で死んでたんだよ、母親。心筋梗塞だって」

「まさか」

「そう、伊藤と一緒にいてさ。伊藤の方が泣いちゃって。何でお前がそんなに泣くんだよってくらいに泣くもんだから、俺もう泣けなくなっちゃって」

 私は学生服を着た、その場面の田口と伊藤さんを想像した。想像の中の伊藤さんは確かに泣きじゃくり、田口はただ茫然としていた。

「腐れ縁?」私がそう訊くと「そういうのになるんだろうけどね。ちょっと違うよ、伊藤が頑張ったんだ。じゃなきゃ俺みたいなタイプは、そういう種類の友達も、その関係も、この歳まで維持できないよ」私の横にいる、大人になった田口は、そっと目を閉じてそう言った。

「そうだ、最初の質問だけど、絆されてはいない。と、思う。けど、歳を取るとね、ああいう人の方が好いのよね。致命的な影が染みついちゃってるような人より。面倒ごとは骨身に染みるのよ、北風みたいに」

「めちゃくちゃだな」そう言って田口は口の端を少しだけ持ち上げた。


「ねえ、風邪ひいちゃうから布団の中に入りなさいよ」そう言って私は電気を消すと、よほど疲れていたのか、田口はすぐに寝息も立てずに眠り込んだ。私は上手く眠れず廊下に出ると、段ボールの中に入っていたビールを一缶取り出して飲んだ。部屋の中にいるのに、吐きだした息は白く、ビールは冷蔵庫に冷えていたそれより遥かに冷たかった。

中庭を眺めながら、そうか、自分はあっけにとられていたのか。と気づく。


 中庭の苔も、昼間に聴いた知らない鳴き声をした鳥も、チョコレートをくれた老夫婦も、裏手の家の子供も、方言まみれのタクシーの運転手も、私以外のすべての生き物がしかるべき場所に戻り、寝静まってしまったように、あたりはとてもしんとして、耳鳴りがするようだった。

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