第20話


 お風呂から上がり、キャンバスの乾いていない部分にドライヤーをあて、ジェッソの二度塗りを終えると、私はベッドに潜り込んだ。目を閉じてしばらく経っても時計の秒針を刻む音が耳から離れず、私はもぞもぞと布団から這い出ると時計から電池を抜いた。

 グラスにブランデーを注ぎ、ソファに座ってそれを舐めるようにして口に含む。ソファの横の窓からは、いつもと変わらず、ただ雨戸が閉まったままの向かいのマンションが見えるだけだった。あまりの手持無沙汰にパソコンを開くと、メール幾つか溜まっていた。郵送した作品を使ったデザイン物のデータが添付されていたのでそれをプリンターで出力して色味を確認する。私は元々、作り終えた作品を手放した瞬間から、こだわりや興味や信念と言ったものが私と作品から殆ど切り離されてしまうので、たとえ私の絵を手に入れた人が、それを焼こうが踏もうが切り刻もうが、それを作ったのは神初ではなく自分なのだと言い張ろうが、もはやどうでも良かった。それでも、切り離された後にも仕事が続くのであれば、それは義務としてこなすくらいの礼儀は持っている。

 そこそこのプリンターで出力した、かつて私のものだった作品は、思っていたよりシアンが強く出ていた。プリンターの不具合なのか、そもそものデータの問題なのか、紙とパソコン画面を何度か見比べ、普段は「担当のデザイナーさんのセンスに任せたいので」不要だと言っている色校のための出力紙を送って欲しいと返事を書いた。メールの送り主はまだ会社に居たらしく翌午前中に届くようにバイク便で送るが、自宅にいるか、作業場にいるかと確認の返事がすぐに届いた。私がちょっかいを出す事を計算に入れずスケジュールを組んでいた事を思うと申し訳なくなったが「春先の夜明けをテーマに」と言われて描いたものだったので、さすがにこれでは真夏の転寝にタイトルを変えるべきという状態だった。入れられたフォントの黄色も私が想像していた黄蘗色とは程遠く、真夏によく見る水着のロゴの一つに見えた。普段であれば、そこは私のフィールドではないので、口を出さずに弁えるのだが、あまりに私の絵と色々なものが不釣り合いに感じたのだ。それはまるで、私の古臭いこだわりある生活と、現代という世の中の流行そのものを表しているようで、私はたちまちメールを送った事を後悔する。デザイナーは、私のこの流行遅れの絵と、どうにか流行りを取り入れたかった依頼主の間を頑張って縫い合わせた結果がこれだったのだ。そう思うと、水着のロゴの一つのようなフォントの形と色味もすべて納得できた。あれらは態とした事だったのだ。そしておそらく私以外のみんなで寄合をひらき、「あいつの作品を使い、このメンバーで指定された納期にこの仕事を仕上げたいならば、あのテーマはもうどう足掻いても難しい。だからなかったことにしよう」と闇に葬った上で、このデータを送ってきたのだ。間違っていたのは私の方だ。そもそも。大概、いつもそうだ。余計な事をするとこうなる。


 数件残っていた事務作業を終えると、パソコンの下に表示されているデジタル時計が午前三時を告げていた。

 私は飲み途中だったブランデーに、更にスリーフィンガー程を継ぎ足すと、一気に飲み干しベッドに潜り込んだ。

 目を閉じて、布団の冷たさに身を固くしていると《睡魔》という名札を付けた獣が私の前に堂々と現れた。私は軽くお辞儀をし、獣の背中を撫でてやった。睡魔を受け入れる時の合図である。そうして口を開けた睡魔が私の全身を飲み込み始める頃、「今日はごめん」と声がした。私は目を閉じたまま頷くと、布団が軽く浮き、ベッドが軋むと同時、冷たい空気と一緒に田口であろう人間の形をした生ぬるい何かが、私の隣に横たわった気配がした。私は必死に声を絞り出し「おやすみ」というと睡魔という名札を付けた、田口の形をした獣が「おやすみ」と繰り返し、私は深い眠りに落ちた。

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