第9話

 翌朝、いつものように電車に乗り、いつものようにひとつ前の駅で降りると、私は仕事用のマンションへ向かう。途中で煙草屋に寄り、レジ前に並ぶ色とりどりのBIGのライターの中から黄色のものを選ぶとレジに置き、ラッキーストライクのソフトを一つ。と言った。

 レジの前にいたおばあさんはその間一言も発さず、ケースの一つから煙草を引き抜くと、私がお金を出すのを不愛想に待っていた。千円札を出すと「細かいのは?」というので、私の中の記憶の煙草の値段があいまいだったので「ない」と答えると二百六十円のおつりが返ってきた。首を傾げたまま店を出ると、左側に自動販売機が並んでおり、横目でラッキーストライクを探すと六百円というシールが貼られていた。

 学生の頃、友人たちで集まり、そのうちの、長野出身だという子の実家から送られてきた林檎の皮を剥き、学校の屋上で干し、職員室から習字の紙を盗み、煙草のようなものを作った事がある。煙草を買うお金がなく、みんなで煙草を作ろうとしたのだ。それ以外にも試行錯誤したが、どれもまともに吸えた代物ではなかった。それを見ていた先生が「そこまでして吸いたいのか」と笑いながら、皆に煙草を一本ずつくれた。

 あの頃、それでも五百円出せばおつりがあったことを考えると、今の苦学生の喫煙者たちに私は心から同情した。

 私は煙草を鞄の内ポケットにしまうと、マンションへ向かって歩き始めた。線路沿いのゆるい坂道から見上げた空は雲一つなく、冬の日中の空の中で、最もありきたりな色をしている。荷台に新聞を積み上げた自転車が、今にも壊れそうな音を立てながら、よろよろと私の左横を通り過ぎ、それを覆い消すように大きな音を立てながら私の右横を中央線が駆け抜けていく。スウェット姿のまま歩きたばこをしているカップルとすれ違い、二人のホームレスの寝床になっている高架下を足早にくぐる。オーバーサイズのコートに指先まですっぽりしまい込み、大判のマフラーをぐるぐると巻き付けて歩いていると、少し暑いくらいだった。


 相変わらず部屋の中は、ストーブの焦げた匂いの他、胃酸や疲労、アルコール、男の放つ独特な匂いが混じり、私の知っている私の部屋のそれとは違う、何か別の生き物の存在を感じる匂いがした。

 昨日と同じように私は窓を開けようとして、空になったブランデーの空き瓶が転がっている事に気づく。些か飲むペースが速すぎる様に思ったが、そうしないといられない田口の気持ちも分からないでもなかった。

 鞄の中からスケッチブックの切れ端を取り出すと、伊藤さんの指示「田口だとわかる動画を撮影する」等と書かれた幾つかの項目を確認する。平田さんを通してきた話と言う事もあり、端から疑っている訳ではないが、この手の連絡が私だけではない事を理解して欲しいと言っていた。「この手の連絡?」と、一度不思議に思ったが、聞き流した。

 田口が病院を抜け出した事は、まだニュースには出ていなかったが、今日で(私にとっての)あらかたの事が解決するように思えていたので、それさえもう大した問題ではなかった。

 私は作業部屋に行く途中、ベッドで寝ている田口の布団からはみ出した足元に目を配ったが、特に変わったものはなかった。念のため、しゃがみ込んで見ると、左足の親指の付け根近くに、シミのようなものがあった。しばらくそれに目を凝らした後、音を立てないように作業部屋へ滑り込むと、イーゼルをドアの近くに移動させ、携帯電話を取り出すと固定し、ダウンロードしておいた無音カメラを立ち上げると、男が座るであろう、ソファの辺りにレンズを向け録画ボタンを押した。

 指示された通り、はじめにコンビニストアで買ってきた、今日の日付の入ったスポーツ新聞を撮影する。日付と見出しを、ゆっくりとレンズに映す。どこかのチームのどこかの選手がバットを振り被っている写真が、大きく紙面に鎮座していた。スポーツ新聞なんて手に取って見たのは実家にいた頃以来だが、構図も色味も昔から何一つ変わっていないような気がした。

 作業部屋を出ると、ドアをカメラが隠れる程度に閉め、ストッパーを挟むと田口の寝ている部屋の窓を開ける。

 明日から寝ずにやれば間に合うか。と、カレンダーに書き込まれた納期を眺め、朝食の準備を済ますと田口を起こした。


 田口は軟らかく煮た鍋焼きうどんの半分を食べ終わる頃、箸を置くと小さな声で

「自分のこと、ニュースになってませんでしたか?」と訊いた。

 私は、一緒くたになりそうだった、先日見たニュースの内容と、田口本人から聞いた内容を、頭の中に置かれた左右の箱に【田口談】【アナウンサー談】とラベルを貼り、それぞれに分け入れてから、その質問に答える。

「さあ、私もうここ1年程テレビを見てないし……」と言った後で

「でも、そういう種類のニュースって、すぐ消えちゃうし……、あなたが犯人だったら別だけど、入院していた遺族が居なくなったことを態々報道したりはしないと思うけど?」と付け足した後で、そこまで言うのはわざとらしかったかと反省する。昔から私は嘘を吐くのが壊滅的に下手なのだ。

 男はよほど気になるのか、私の言葉を信じていないのか、その両方なのかは知らないが、調べたい事があるので、携帯かパソコンを借りたいといった。

「連絡を取りたい人、取るべき人がいるようであれば、携帯を借すけど……」というと、それはない。というので、保存していないファイルを整理するから、その間にうどんをもう少し食べるように言い、私はパソコンを開き、田口や病衣に関して調べた履歴を消した。

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