第15話 三輪山へ行きました(^^)ノ

今日は、三輪山と箸墓古墳と石上神宮を巡って、出雲へと向かう予定らしい。


朝、早く目が覚めてしまったので、宿から徒歩で近くの龍泉寺へお参りに行く事にした。


龍泉寺の伝承によれば、 大峰山で修行していた役小角(えんのおづぬ)が、この地に泉を発見し、龍の口と名づけて、その側に小堂を建て八大龍王を祀ったのが起源と言う。


八大龍王とは法華経に登場する龍族の八王で、仏法を守護する護法善神だそうである。


朝の冷たい空気と、湧き出る泉の美しさが相まって、龍泉寺は神秘的な雰囲気を醸し出していた。


宿で朝食を食べ終わり、私達は、車に乗り込んだ。


しばらくして、夫は、今から行く、大和の三輪山の話しを始めた。


夫は、古代の日本の中心地は、大和の三輪山であり、三輪山を知る事は、日本を知る事であると言った。


元々、三輪山では太陽神と大地神の二柱が祀られていた。


一柱は、高御産巣日神(たかむすび)を原形とした太陽神で、この神は九州を中心に奉斎されていたが、やがて天照大神として伊勢神宮で祀られるようになった。


もう一柱は、大己貴神(おおなむち)を原形とする大地神である。


大己貴神(おおなむち)の神格は二つに分かれ、一つは出雲で倭大國魂神(やまとおおくにたま)として祀られた。


三輪山に残った神格は、大物主神(おおものぬし)となり、大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神となったと言う。

  

九州から天孫族が本州に攻め入る前は、この太陽神を祀るグループと、大地神を祀るグループは、元々同じ三輪山の神を崇めていたと言う事もあり、兄弟姉妹の様な関係であった、と夫は言った。


何で争う事になってしまったんだろう。


私がそう思っていると、不意に夫が、あれが三輪山だよと前方の山に目をやった。


山梨の御室山に雰囲気が似ているかも知れないなと思っていると、夫が、シンメトリックな山容が尊ばれるのは、それが、とぐろを巻いた蛇の姿を連想させるからであり、ここが日本の蛇神信仰の中心地だと語った。


人は土から産まれて土に還るよね。


古代の人々が崇めた地母神ってのは、あらゆる生命を産み出す代わりに、その命を奪う存在でもあったんだ。


まだ世界が、陰と陽に別れてない時代。


朽ちていく亡骸を見た人々は、地母神に対し、命を育む姿だけでなく、容赦なく人々の命を奪い、それを貪り喰っていると言う、恐ろしい側面も同時に見ていたと思うよ、と夫は語った。


大昔の人々は、命を産み出しながらも、その命を奪うと言ったような、相反する性質を持った存在こそが、神であると言う根本的な理解を持っていたんだと思うんだよね。


私は、ふぅんと頷いた。


それから、しばらくして私達は大神神社(おおみわじんじゃ)に到着し、車を降り拝殿へと向かった。


大神神社(おおみわじんじゃ)も三輪山を神体とする古い信仰を持つ神社なので、本殿が存在しない。


神木を眺めながら、恐らく、角が生えた神の原形は、硬く尖ったものに宿ると言う蛇神なんだと思うと、夫が語り始めた。


世界的に見ても、最も原初的な大地神って蛇なんだよね。


聖書でも、イヴを唆(そそのか)して知恵の実を食べさせ、人類に原罪をもたらしたのは蛇だよ。


しかし、一方では邪悪な象徴でありながらも、脱皮を繰り返す蛇は、キリストのように、死と再生の象徴でもあるんだ。


ただ、人類が人格を持った神を獲得すると、こうした前時代の超自然神は、悪魔として弾圧されていったんだよね。


素戔嗚尊(すさのお)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話は、生け贄を終わらせたと言う、ある意味、宗教改革でもあった訳だよ、と夫は言った。


私は、神武天皇が東征を行った理由は、もしかしたら宗教絡みだった可能性もあるのではないか、と言ってみた。


それは、具体的にどう言う事なの?と、夫は私に説明を求めて来たので、私は、かいつまんで、紀元前に日本へとやって来た徐福一団は国家を築いたが、信仰していた神は前時代的な神だった筈だと言う事を話した。


どうやら極東に同胞が作った国があるらしい。


イスラエル国家が建国されたと言う噂が、ユーラシア大陸に流れ、黄金の国を目指し、徐福の後を追った同胞達が日本へ渡って来て驚愕する。


先に土着した彼らは、何と蛇神を原形とした角の生えた悪魔を信仰していたからだ。


こうして、聖書を知っている人々と、各部族に伝わる神を信仰していた人々との間に争いが起こった。


私は、確か、そんな話しをしたと思う。


夫は、大喜びしながら、私の話しを聞いていた。


なるほど、その説は、日本神話の内容が何故、聖書に類似しているのか、と言う説明に繋がっていくかも知れないね、と夫は笑った。


何だか照れ臭い。


私は、大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿付近で、ふと目の端に白い襷(たすき)をかけた人達を捉えていた。


よくよく見てみると、彼らは、三輪山へと登る人達のようだ。


中には、三輪山に靴で登るなんて畏れ多いと、裸足で登る人も、ちらほらといる。


私は、奈良の三輪山は、今も昔も日本の聖地なんだと改めて思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る