弐拾肆)鬼、海の外より来たりし事2

 フランス南西部――船の停泊する港。

 膝を突き、頭を垂れて出迎えるナポレオンの前を優雅に通り過すぎるカーミラ。

 白い肌と黒いドレス。そして頭に頂いた金色の髪が、月明かりに煌く。

 誰もが目を見張るような美姫。

 しゃなりしゃなりという足取りと共に、ふくよかな腰が左右に揺ゆれる。


 自然な王としての覇気を月の光が強くし、誰も何も声を発することができなかった。5人の部下たちは、誰もしっかりと女王を見ることはない。彼女はいつも自由であった。

 彼女を視界に収めること自体が、罪となる。

 忠実な部下と女王とは、天と地ほどかけ離れた存在だった。

 彼女は船に乗ると、そのまま自分の部屋へと籠ってしまった。

 船室の連なるフロアの奥の奥へと。


 すぐに船は出航する。

 フランスの海岸からは、スペインとポルトガルを回り込み、南下する。そのままアフリカ大陸・喜望峰を越こえ、インド洋を渡り、極東日本へと針路をとる。

 船が進む間、彼女は思い出していた。

 愛する人との馴初を。


『カーミラ・ドラクル』は、ただのカーミラで。

 ただの少女であった。



     ☽



 14世紀初頭、東欧の深い森。

 森の近くに住む人々には古から不思議な言い伝えが残っていた。

 発祥の時期も分からない古い言い伝え。その文面は、至って単純で分かりやすい。たぶん深い森に敬意と恐怖を持ち、昔の人間が作りだしたものだろう。

 言い伝えとは、こうだ……。


 決して森には近づいてはいけない。

 森の中には怪物が棲む、と。

 確かに、森にはとある人に近しい一族が暮らしていた。

 白い肌、金色の髪。欧州の伝承に詳しい人が見れば、それはエルフや妖精と例えただろう。その生物は、水と果実のみを口にする高尚な一族であった。そして、彼らは日の光に弱く、夜のみに活動する。それが近くにすむ人間には、恐ろしく見えたのかもしれない。

 夜目が利き、鼻もいい。

 そして何よりも長寿であった。

 若いうちは人と同じように成長するが、20歳前後に差し掛かるとそこで成長・老化が滞る。そのまま1000年~2000年ほど生きて、死の直前に急激に、花が枯れるように老化して死ぬのだ。

 これだけで人とは違うと分かる。

 長寿で身体能力の高い不思議な一族。

 彼らは、特殊な血筋の人類なのだ。

 人を殺し、表の世界から追放された一族の末裔。

 それが20人ほどのコロニーを作り、森で暮らしている。

 個体数が少ないのは、仕方がないことだった。長い寿命ゆえに繁殖するという欲求が彼らには少ない。頻繁に子どもを作り、遺伝子を残す必要がないからだ。そんなわけで、少人数の集落となっていた。

 そんな村にも一つの掟が存在する。

 肉や血を、口にしてはいけない。恐ろしい災いが起き、村は死に絶えると伝えられて。

 唯一の掟以外には守るもののない、自由で平和な暮らし。

 それは幸福でありながら、どこか味気なくてつまらない生活だった。

 

 

 その一族に、久しぶりの子どもが生まれた。

『つまらない』

 たぶんその感情を初めて村に持ち込んだ存在が彼女だ。文化的なものを持たず、日々をただ受動的に過ごす一族に嫌気はおろか、怒りさえ覚えていた。

 それが若き日のカーミラである。

 つまらない。

 ツマラナイ。

 詰まらない。

 つまらない。

 つまらない。

 つまらない……。

 永遠に呟き続けそうだ。

 延延と繰くり返す不幸の呪文に、彼女の気持ちは沈んでいく。

 おかしくなりそうだ。狂ってしまいそうだ。

 このまま永劫生き続けると考えたとき、彼女の中の何かがプツリと切れた。

 完全に何かが壊こわれた。

 手始めに、彼女は肉を喰らった。

 禁じられていたものに手を出した。

 森にいた小動物の肉。

 その血の味は、甘かった。

 美味かった。

 もっと、欲しくなった。

 大きな獣を喰い、家畜を奪って喰い、

 最後に人を喰った。

 人の血を啜った。

 血が欲しくてたまらない。

 血を啜るたびに、彼女の心は満たされた。

 血を飲むたびに、彼女の体は生まれ変わった。

 全てが変わって行く。

 力が満ち、心が躍る。

 体はさらに頑丈になり、感覚は鋭敏になった。軽い跳躍で国を2つも飛び越え、大きな傷を負ってもすぐに回復する。

 その力はまさに、鬼。

 

「血を、我に与えよ」


 森が、人を喰らう。

 そんな話が始まったのは、彼女が人の血肉を啜るようになったころだった。

 

 

      ☽

 

 

 ある日、不思議なことが起きた。

 夜、狩った人間を洞窟への連れ帰り、その血を飲んだ後の翌朝のことだった。

 ガサ――。

 カーミラは物音で目を覚まし、朝の眠い時間帯ながら渋々体を起こした。

 そこで彼女は見た。

 首筋を噛み切り、血を飲み干した死体。

 その体が再び動き始めたのだ。

 彼女自身も何が起こっているのか分からなかった。だが、彼女の目の前で確実に死んだはずの死人が起き上がったのだ。これはどういうことだろうか。彼女にも全く分からなかった。

 襲い掛かる死人。


「gluuuuuuuu……」

「主は、何者だ」


 彼女は驚いた。

 曇ったの死人が、自分に襲い掛かってくる恐怖。

 恐ろしくなり、一声叫んだ。

 

「止まれ」

 

 虚ろな目の死人は、急に動きを止めた。

 相変わらずグルグルと唸るだけの知識の欠片もないモノだったが、カーミラの声だけは聞き、動きを止めつづけた。

 

「下がれ」

 

 指で方向を示し、命じる。

 死人はゆっくりと後退する。

 

「遠く」

 

「どこまでも」

 

く」

 


 彼女の命令を聞き、その死人はどこまでも下がって行った。

 洞窟の出口の方へ。

 恐ろしい叫び声が聞こえたと思えば、すぐに静かになった。

 その死人が朝の光を浴びて、灰にとなって消えた断末魔であった。

 彼女はその最期を知り、笑った。

 死ぬことでさえ命じることができる。

 そんな奴隷を生み出す力。

 退屈した日々を覆す力。

 

「キャハハハハ」


 なんでもできる。

 彼女は外へと飛び出した。

 日の光が肌を焼く。

 だが、そんなものは関係なかった。

 焼かれ、皮膚がただれてもその瞬間に回復する。

 もう彼女は『一族』とはかけ離れた存在。

 東欧の鬼――血を吸う鬼だ。

 これは、進化。

 大いなる生物の誕生だった。

 嬉しかった。楽しかった。

 世界が輝いて見える。

 

「キャハハ」


 少女のように。

 歓喜かんきに酔よいしれた。

 彼女の実験は続いた。

 

 

      ☽

 

 

 人を喰い、奴隷を作り続けた。

 喰われてもなお自我を保ち続ける者にはルールがあった。

 殺人という罪を犯した者。

 人を誑かした者。

 人を堕落させる者。

 人が「人」であるための規則を犯した者だけが、生きていたころの意識を保ちながら、カーミラに忠誠を誓う鬼となった。それはたぶん彼女たちが、人類初の殺人者の一族であることに起因するのだろう。

 堕ちた人間を好む。

 だから、彼女は惹きつけられた。

 悪魔に町中の少年の血を捧げた男に。

 今、まさに死刑台の前に連れ出される男。

 その男を死刑執行人の前より連れ去る。


「そちの名は?」

「ジル。――ジル・ド・レ」


 彼女は、男の頭に手を置き、撫でる。


「殺しの快楽に魅かれし者、我の仲間となるか?」

「はい」


 ジルはカーミラの手を取ると、その手の甲にキスをした。

 彼を配下に加え、さらに凶暴になった。

 だが、そんな彼女も、愛には勝てなかった。

 

 

      ☽

 

 

 1456年のことだった。

 彼女は飛び、とある国へと辿りついた。

 ワラキア公国という国であり、当時ヴラド三世の治世下にある。

 王であるヴラド三世とは、今なお串刺し公と名高いヴラド・ツェペシュであった。ツェペシュというのは姓ではなくあだ名であり、その元となる串刺しを行うのは1459年にオスマン・トルコとのいざこざが起きた時であるため、この時点での彼はただのヴラドであった。

 ヴラドは目の大きい、堀の深い美男子だ。

 その弟も、後に美男公と呼ばれる美しい相貌そうぼうの持ち主でもある。

 家系として美男の血筋であったのだろう。

 その彼に、カーミラは目を奪われた。

 すぐに心を魅かれた。

 彼が醸し出す、冷徹な雰囲気。

 冷酷無比な残忍さ。

 彼の背後から臭う、血の気配を感じた。

 すぐに分かった。彼こそが自分の夫に相応しいものだと。

 だから、すぐに彼女は王に取り入った。

 王のもとに跪き、乞うた。

 

「妻にしてくださいまし」


 彼女も、麗しき吸血鬼。

 ヴラドは一目で魅かれ、すぐに結婚の約束を交わした。

 妻となり、肉体やあらゆる快楽を差し出して篭絡する。ただ彼女は唯一ヴラドを噛むことだけはしなかった。それからも彼女はヴラドの最初の妻として連れ添った。

 女王となっての、最初の仕事は戦争だった。

 いや、戦争とよべる生易しいものではない。

 虐殺。

 一方的な殺戮だった。

 国の兵士を率いて、彼女は自分の両親とその一族すべてを根絶やしにした。長寿の一族から、たったひとりの伝説の吸血鬼の始祖に昇華した瞬間だった。

 吸血鬼と化した国の兵士を、思い通りに操って剣を震わせる。

 最後に彼女自身がしたのは、自分の父の血を1滴残らず吸い尽くし、森の端の木に括りつけ放置することだった。

 朝の太陽が上る時、一族の血は途絶えた。

 その後、彼女はヴラドとともに甘い時間を過ごす。

 それも6年しか続かなかったが……

 1462年にヴラドが隣国の王に捕えられ、幽閉されるまでの6年だけ。

 その年、最初の妻は塔から身を投げ死んだことになっている。

 だが、真相はただ塔の窓より彼女が飛んで逃げたということだ。

 カーミラは窓から飛び出し、ひっそりと街の郊外へと隠れ住んだ。

 トランシルバニアの外れで、ずっと彼女は生き続けた。


 1477年の戦争の折、ヴラドは死んだ。

 戦争の最中の暗殺と言われている。

 カーミラは地球を震わすほどの声で哭き、悲しんだ。

 そして、彼女は悲しみにくれながらも、何とかヴラドの遺体を持ち出した。

 

 

      ☽

 

 

 カーミラの部屋の奥、最新鋭の機械が静かに電子音を奏かなでている。

 今もなお弱々しく動き続けるヴラドの心電図の計器の音だ。

 サン・ジェルマンの組み立てた「死人の生命維持装置」。

 死人の生命維持装置というのもおかしな話だが、それはある意味事実である。

 ヴラドは死後首を切られ、塩漬けの首を晒された。

 それが吸血鬼となったカーミラに多大な影響を与えてしまう。

 塩が吸血鬼の力を阻んで、ヴラドの蘇生は不完全に終わった。

 塩は、魔を退ける。

 吸血鬼の力も、消してしまう。

 カーミラはヴラドの体を噛み、吸血鬼の力で首をくっつけ蘇らせようとした。だが、塩に漬けられた首のせいで力が上手く行き渡らなかった。吸血鬼の力をもってしても、半死半生の状態となり、未だ目を覚ますことがない。

 彼女の望みはひとつ。

 もう一度ヴラドに会いたい。


 あれからおよそ600年。

 サン・ジェルマンの力を得て、ヴラドの状態は大きく改善。

 大量の塩を体から抜くことには成功したが、まだ彼は目覚めない。

 意思を曲げてヴラドを吸血鬼としたのに――彼女は後悔に苛さいなまれている。

 だからこそ、何としてでもヴラドを生き返らせようとしていた。


 それには、あの猫の起き上がりの力が必要だ。

 サン・ジェルマンの言うとおりに、過去に猫又を連れ去り、跨いでもらったが彼の復活はなされなかった。

 猫の力。

 それが鍵なのは間違いない。

 そして、もう一つの鍵を見つけていた。

 布石は、すでに打ってある。

 日本に行き、すべてを掴つかむ。

 

 

「あの人――ヴラドの命を、もう一度ここに!」

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