第十八楽章
それから数日間、ダリアの命により俺は仕事の休憩時間や仕事終わりにマリオにヴァイオリンの弾き方を教えた。彼の才能は本物で、スポンジのように技術を吸収していった。
「今日はここまでにしようか」
「うん。なんだか疲れたよ」
蒸留所の山側にある小さな葡萄畑が俺たちの練習場だった。
石を積み上げた塀に二人で腰掛けて夕日の沈む海を見る。彼の奏る音はまだ安定はしていなかったが、この夕景のようにどこか郷愁の念を抱かせるとても味わい深いオレンジ色をした音だった。はっきり言って、十歳かそこらの子供が出せる、出していい音ではなかった。これが、彼の才能によるものなのか、それともこれまでの彼の人生がそうさせるのか、俺には判断できなかった。
「そろそろ薔薇祭りだね。アポロは初めてだよね?」
「ああ、初めてだ」
「よかったね。お休みをもらえて」
「そうだな」
ダリアと俺は、ガルリアさんから薔薇祭りの最終日に休みをもらえていた。この間の演奏会のせめてものお礼だと彼女は言っていた。
しばらく続く沈黙の中、一陣の海風が吹く。その風と共に、夏の匂いと土の匂いが微かな潮の匂いがする。そして、どこか遠くで子供たちの笑い声が微かに聞こえた。
俺は咄嗟にマリオの顔をちらりと盗み見みる。
夕日に照らされた妙に大人じみた彼の横顔からは何も読み取れなかった。しかし、休憩時間などにみせる太陽のように笑顔とは明らかに違っていた。
彼の両親はもう、この世にいないのだそうだ。最愛の母は、昨年亡くなったと彼は言っていた。もう、彼には頼るべき身内はいないのだ。
どことなく自分の境遇と重なるマリオに俺は特別な感情を抱いていた。彼の寂しさや、虚しさや、やるせなさを音楽で満たしてやりたいと思うのだ。俺がそうであったように。それはもしかしたら傲慢な考えなのかもしれない。それでも、俺はこの小さな少年の明るい未来を願わずにはいられなかった。
「マリオも薔薇祭りの日は一日休みをもらったんだろう?」
「まあね」
ガルリアさんの前では大袈裟に喜んでいたはずのマリオは、なぜか少し投げやりな声を出した。
「どうかしたか?」
「ううん。なんでもない」
「薔薇祭り、楽しみじゃないのか?」
「楽しみだよ。久々に友達と遊ぶのも」
マリオは自分の組んだ手に目線を落とす。
「本当に綺麗なんだ。街中に薔薇が飾られてさ」
「らしいな」
「ママはさ、白い薔薇が好きだったんだ……」
心臓が鷲掴みにされたような感覚。俺は「そうか」としか言えなかった。
俺はじーちゃんが死んだ時のことを思い出す。ただ一人の肉親だったじーちゃんが死んだ時、俺はもう二度と誰かから優しく抱きしめられることはないんだと、たまらなく寂しくなったことを思い出す。
自然とマリオの肩を抱いていた。
「寂しいか?」
思わず聞いていた。
そう口にした瞬間、激しく後悔する。
寂しくない訳がないのだ。彼はまだ子供だ。本当であれば、母に甘えたいに決まってる。彼はダリアにとても懐いていた。彼女に頭を撫でられる彼は本当に嬉しそうで、ダリアの中に母親の面影を探しているのは明らかだった。
「寂しいよ。でもさ、人生悪いことばかりじゃないんだ。母さんもいつも言ってた。本当だよ? ガルリアさんも他のみんなも優しいし、それにさ、この街は本当に綺麗なんだ。特に夕方がね。僕は寂しくなったらここにきて海を見るんだ。そしたらさ、母さんが近くにいてくれるって思えるんだよ」
マリオの音がオレンジ色なのは、ここから見えるナポレアーノの夕景が心象風景として刻み付けられているからだ。そして、彼の母への想いで満ちているのだ。
俺は、どうにもならない侘しさを感じた。
「僕にはさ、確かに母さんもいないし、他の人から見ればもしかしたら寂しい子供なのかもしれない。でもね、僕は一度も自分のことを可哀想だって思ったことはないよ。だってさ、なんとか食べることだってできているし、遊ぶ友達だっている。それに、こうしてアポロや、ダリアとも友達になれたしね。僕は幸せなんだ」
彼は、恥ずかしそうに鼻の頭を掻いていた。
俺は、彼の強く美しい心に感動していた。彼は、俺よりもずっと小さいにもかかわらず、決して腐らず、前を向いて生きているのだ。一人の人間として掛け値なしで尊敬できた。
「マリオは強いな」
「強くなんかないよ。でも、母さんの『何があっても生きていれば良いことがある』っていう言葉を信じているんだ。だから、生きていける」
「そうか。その教えは本当かもな」
マリオがはっと顔をあげる。その目には何か希望のようなものが見てとれた。
「俺もな、八つの時に唯一の肉親だったじーちゃんを亡くしたんだ。それからは、生きるのに必死さ。楽しいことなんて何にもなかった」
「それは、大変だったね……」
「ああ。そうかもな。でもな、音楽の神様が俺をダリアに引きあわせてくれたんだ。俺とマリオを引き合わせてくれたようにね」
「そっか、音楽の神様か……。ねえ、その音楽の神様ってどんな神様なの?」
「さあ、俺にも分かんない。元々俺には信じる神様がいなかったんだ。でも、ダリアと出会ってなんとなくそういうものを信じたくなったのさ」
マリオは「そっか」と呟くと、目を閉じ静に俯いた。それは、何か祈りの姿に似ていた。
「ねえ、アポロ」
「ん?」
「もしさ、僕がアポロやダリアに出会えたのが不思議な力のおかげって言うならさ、それがなんなのかは自分で決めてもいいのかな?」
「良いんじゃないか? 何を信じるかは自由さ」
「そっか。じゃあ、僕は母さんのおかげだって信じることにするよ」
葡萄畑が海風でさらさらと鳴く。
「そうか。それもいいな……。なあ、マリオ、君のお母さんの名前はなんて言うんだ?」
「マリア。母さんの名前はマリアだよ」
そう呟いた彼の言葉には愛おしさが溢れていた。
その言葉はゆっくりと、湿り気をたっぷりと含んだ海風の中へと消えていった。そして、頭上には一番星が輝き出していた。
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