第九楽章

 その店はこの街には珍しく木造であった。少し黄色みがかった漆喰の外壁に赤茶けた木の柱が縦、横、斜めに走り、まるでモザイク画のような不思議な風合いを醸し出している。小さめの窓から漏れる温かみのあるランプの光がなんとも優しく、温かみのある田舎の雰囲気を纏っている。


「これはルフランでも北の方のアルカンティーヌ地方の伝統的な建築様式だね。ここまで材木を運ぶだけでも大変だろうに」


 ダリアが感心したように呟く。


「よく知っているなあ」

「アルカンティーヌは私の故郷に近くて建築様式も少し似ているの。それでね」


 そういえば、ダリアの故郷がどこなのか聞いたことがなかった。


「ということは、ダリアの故郷はダルケン?」

「あれ? 言ってなかったっけ? そうだよ」

「初めて知ったよ」


 ダルケン帝国といえば、かの音楽神マスターを輩出した国であり、そして、バンドネオンの故郷でもある。

 

 店の中からは楽しげで明るい音楽が聴こえている。異国情緒溢れる独特のリズムのそれはルフランの民族音楽だ。その音に合わせて客たちが地面を踏み鳴らす音と笑い声が響いてくる。


 隣に立つダリアがそわそわし始める。もう、辛抱たまらんといった様子だ。


 俺は腹を括る。


 今から、この店の扉を無一文でくぐるのだ。


「行こうか」とダリアに声をかけてから、店の扉を押し開く。


 扉が開いた途端、ちょうど曲が終わったのか、客たちの大歓声と拍手が体を揺らした。


 店の中も外観と同じく温かみのある田舎風だった。思っていたよりも店内は広かったが、ほとんど立ち飲みスペースであり、落ち着いて座れるような客席はかなり少なかった。そして、店の正面には少し小さいがそれでも十分な広さのステージがあり、その前には広くスペースが取られて、客たちが踊れる様になっていた。


 ステージの上には、四人の弦楽団カルテットが立っていた。


「おい! あんたたち!」


 声のする方を見ると、あの人の良い親父がいた。


「本当に来てくれたのか! いや、嬉しいよ。ようこそ、黒い森亭へ」


 親父はダリアと俺が持っている楽器ケースを両手で指差してなんとも嬉しそうな顔をする。


「いや! まさか本当に演奏を?」

「もちろん。約束しましたからね」


 俺はそう応えながら「ちょっと」と親父を店外まで連れ出す。


「どうしました?」

「実は今持ち合わせが……」


 そういうと、親父は大きく頷くと「大金を酒場に持ち出して落としてしまったら大変だ」と笑う。


 おそらく、「持ち合わせがない」という発言を「金貨しかない」と理解したようだ。


 当然金貨なんて大きなお金を一晩の飲み代として出そうものならお釣りを用意できずに困るのは店側である。


「それに、演奏してくれるわけだから、今夜のお代はいらないよ。その代わり、出演料は出せないがね」


 親父は「うちもまあ驚くほど儲かっているってわけじゃないから」と禿頭を掻いた。


 願ったり叶ったりだ。


 本気で演奏しようと心に誓う。


 しかし、ダリアの言うとおり本当に何とかなってしまったのが少し悔しかった。


 俺は契約の印に親父と固い握手を交わす。


 店内に戻るとダリアが口を尖らせて「遅いぞ! 何をしていたんだ!」と拗ねる。


 たった今素晴らしい商談をまとめてきた俺にその態度はないだろうと思うが、ぐっと我慢する。


 胸を張って声高らかに商談結果を発表する。


「ダリア聞いてくれ。このご主人のご厚意により、俺たちが演奏する報酬として、今夜の支払いは免除していただけるそうだ!」

「それは本当か!?」

「本当ですよ。お嬢さん」


 親父は満面の笑みで応える。


「よくやったぞ! アポロ!!」


 ダリアはバンドネオンケースを持ったまま抱きついてきた。ケースの角が脇腹に突き刺さり、一瞬息ができなくなった。


 俺から離れると、今度は親父に抱きつく。


 親父は当然驚いていたが、まんざらでもない様子だった。


 ダリアは親父から離れると今度はその手を取り「飲み放題?」と聞いた。


 遠慮という言葉は知らないようだ。


「もちろん」

「ありがとう! その言葉後悔させてあげるわ」


 どんだけ飲むつもりなのだ……。


「望むところです」


 ダリアはあの恐ろしく度数の高いリモンチェッロを一本飲んでも潰れない常人離れした肝臓を持っているのだ。


 ああ、きっと後悔することになるよ、と口には出せなかった。


「さあ、この店で一番良い席を取っておきましたから」と親父は俺たちを右側の一角と案内する。


 窓際のテーブルがひとつ開かられていた。ステージからは少し離れているが、ここからならばステージ前の客に遮られることなく演奏を鑑賞できる。


 しかし、ダリアは何か納得していない様子で店内を見渡していた。


「ねえ、ご主人。あそこは開いているの?」


 ダリアはステージに近い立ち飲みスペースを指差す。


 大きな葡萄酒樽の上に天板を乗っけただけの机である。その丸テーブルの周りには二人ほど先客があった。


 親父はダリアの指差す方を見ると、困惑しながら答えた。


「開いてはいますが、相席になってしまいますよ? こちらの席の方が落ち着いて食事ができるかと……」

「いや、良いんだ。私は落ち着いて食事をする趣味はなくてね」


 ダリアはにっこりと笑う。


「分かりました。では、お二人の楽器だけお預かりします。床に置いていて踏まれでもしたら大変だ。もちろん、丁重に扱いますよ」


 音楽酒場を開くほどの音楽好きである。安心して楽器を任せられるだろう。


 親父は楽器を預かると、宝物を扱うが如く頭上に掲げ、ダリアが指し示した席へと案内してくれた。


 二人の先客は俺たちの、というかダリアの乱入に言葉を失っていた。


 親父が二人の男に親しげに声をかける。


「おい、お前ら。ちょっと相席を頼むよ」


 二人の男は親父と同い年くらいで四十後半といったところだ。一人はがっしりした筋骨隆々といった体型で、もう一人は背が高くメガネをしていた。


「天使か……?」


 右側のがっしりした体型の男が呟く。


 親父は男の頭を小突くと「手ェだすなよ」よ揶揄う。


「馬鹿いえ、こんな美人、見るのも躊躇うぜ」


 今度はメガネの男がダリアをしっかり見つめながら漏らす。


「お二人さん。こいつらは俺の幼馴染で、漁師のカルロ。そんでもって、このメガネのやつが庭師のブルーノです」


 紹介された二人は「よろしく」と小さく頭を下げた。


「よろしく。私は旅の音楽家のダリア。彼は私のパートナーのアポロ」


 二人はそこで初めて俺の存在に気がついたようだ。


「聞いて驚くなよ。このお嬢さんはな、なんと第一級の演奏家様だ」

「まさか……おい! 本当なのかい?」


 親父は誇らしく頷く。


「おい、ルイ、お前破産しやしないかい? ここが無くなるのは嫌だぜ?」


 まあ、確かに第一級演奏家の演奏ともなればその対価は相当なものであり、一回の演奏で田舎にちょっとした家を建てられるレベルだときいたことがある。


「大丈夫ですよ。私たちはただ食事をしにきただけですから。ただ、このご主人のご厚意で、ご馳走になる代わりに演奏させてもらうのです」


 二人は少女のようにきゃあきゃあと互いの手を取り喜ぶ。


「しかし、良いんですかい? こんなむさ苦しい男二人に囲まれて。おい、ルカ! お二人のために、もっと良い席を用意できねえのかよ」

「こちらのお嬢さん直々のお願いだ。ここで飲みたいんだとさ」

「本当かよ?」


 メガネの男が素っ頓狂な声を出す。


「私は上品に食事をするよりも、その街の人や旅人と一緒に楽しく食事がしたいのです。迷惑じゃなければぜひ」


 ダリアは天使のような笑顔を見せた。


「もちろん! こちらからお願いしたいくらいですよ! しかし、お二人さん。今夜はルカの奢りってことなら、ケツの毛まで全部むしり取ってくだせえ」

「もちろん。もとよりそのつもりです」


 ダリアはニヤリと笑った。


「んじゃ、そういうことだから。二人とも頼むぞ。さて、お二人さんは何を飲むかね?」


 ダリアは待ってましたとばかりに手をあげ声高らかに宣言する。


「私は煮た葡萄酒マール!」

「はいよ。ブルニュー産ね。お兄さんは?」


 お昼でお酒の恐ろしさを十分味わった。


「お酒以外だと、何がありますかね」

「待て待て、アポロ。こんな素晴らしい酒場にはそう出会えるものじゃあないよ。ご主人、彼にはリモンチェッロの水割りを」


 リモンチェッロだって!?


 あんな毒薬二度とごめんだ!


 注文を取り消そうとする俺の口をダリアの手が塞ぐ。


「ご主人! 頼んだよ!」


 親父は大きく頷くと、店の裏へと消えていった。


 そして、人生で決して忘れることができない最低で最高の一夜が始まる。

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