第三楽章

 彼女を店主に紹介すると、とんとん拍子に話は進んだ。

 

 普段なら飛び込み営業などほとんど受けない店主だったが、彼女を見るなり演奏も聞かずに出演を快諾したのだった。


「それじゃあ、今晩よろしく頼むよ」

「ええ。よろしくお願いします」


 彼女と店主が握手する様をホールのセッティングをしながら、ちらりと盗み見る。


 店主は彼女を、特にその豊かな胸をいたく気に入ったようで、ずっといやらしい目で見ていた。


 そんな店主の下品な視線に晒されても、彼女の美しさや気品は少しも揺らぐことがなかった。


 結局、俺は帰ることは許されず、面接という名の店主と彼女のどうでもいい雑談に付き合わされた。付き合うと言っても、茶や菓子を準備したりといった給仕役だったが。


 そうこうしているうちに、開店準備の時間になり、こうしてあくせく働いていたわけである。


「おい! アポロ! マエストロを楽屋にお通ししろ!」


 店主に呼ばれ、ふらつく足で彼の元に向かう。


「おい、しゃきっとしろ。失礼だろ!」

「大丈夫ですよ。疲れているようですし、もう、帰らせてあげては?」


 彼女は心配そうに俺を見つめる。


「いやいや、こいつは頑丈ですから! お気遣いなく。さあ、アポロお連れして」


 俺は、彼女の顔を見れなかった。こんな惨めな姿を晒すのが死ぬほど恥ずかしかった。

 

 俺の手を美しいと、演奏家の手だと褒めてくれたのに。


「こちらへ」


 目を合わせないように、逃げるように彼女に背を向けて楽屋へと歩き出す。


 楽屋に入った彼女は、こちらを振り向くと何か言いたげそうにしていた。


 彼女から憐れみの言葉をかけられるのではないか? そう思うと恐怖でいてもたってもいられなかった。


 急いで扉を閉めようとした。


「待って」


 真の通った力強い声に、思わず扉を閉める手が止まる。


 彼女の口からは意外な言葉が飛び出した。


「今夜、私の演奏を聴いて」


 スポットライトを浴びる彼女はきっと美しい。そんなものを見たら、今度こそ人生に絶望してしまいそうで怖かった。


「仕事がありますから」


 立ち去ろうとする俺の腕を彼女の大きな手が掴む。


「今夜は、君の……アポロのためだけに弾くから。お願い」


 それからのことはよく覚えていない。なんて答えたのかも、どうやってその場を立ち去ったのかも。


 気がついたら、いつものように厨房の裏手でじゃがいもの皮剥きをしていた。


 皮剥きをしていると余計なことを考えずに済んだ。ただ、ひたすらに手を動かす、動かす、動かす……。


 ある瞬間、ものすごい歓声が上がった。


 その歓声に驚いて、手を滑らせる。芋の上を滑った刃が左の親指に食い込み、鋭い痛みが走った。


 その痛みでほとんど眠っていた脳が覚醒する。


 悪態をつきながら右手で親指を強く握り締める。

 

 手を洗おうと立ち上がった時、音楽が聞こえた。


 その音は、この世のあらゆる哀愁を含んでいた。聞きなれた楽団員たちの音の中、あまりに異質なその音は、この世の嘆きを饒舌に、美しく歌い上げる。


 この音! 俺はこの音を知っている!


 気がついたら駆け出していた。


 厨房の料理人たちは、口をぼんやりと開けて放心したように音楽に聴き入り、俺の突然の侵入には全く気がついていないようだ。


 厨房を駆け抜け、ホールへとつながるドアを乱暴に押し開く。ほとんど転がるようにホールへと出た。


 視線の先、そこにはスポットライトを浴びたダリアがいた。


 彼女の両手には箱型の蛇腹式の楽器。その楽器の両面には無数のボタンが付いている。そのボタンの上を彼女の長い指が寸分の狂いもなく行き来し、それと同時に彼女は優雅に、時に激しく蛇腹を伸縮させ、空気を送り込む。すると、楽器からは、他に類を見ない憂いを含んだ音色が響く。音と音の合間、蛇腹を押し縮める際に独特な吸気音がする。それが人間のブレスのようで、まるで歌っているかのようだった。


 その楽器は、あまりに複雑なボタン配置で、習得にとてつもない時間を要るすことから、いつしかこう呼ばれるようになっていた--


 悪魔が発明した楽器と。


 彼女が音を奏でるたび、大気が、魔素が震える。魔素の共鳴によって生じる魔力、そのうねりが徐々に大きくなり、鼓膜だけでなく全身を揺らしていく。そして、ついにそれは起こった。


 大気に満ちた魔力が一斉に励起し発光したのだ。高位の、それも第一級相当の大演奏家のみが起こしうると言われる魔力の大共振。


 足元からものすごい量の魔力が湧き上がり、無数の青白い光の粒が舞う。ホールは音楽と魔力の奔流に飲まれていき、それと同時に、頭の中の何か大切な扉がぐっと開くような感じがした。


 目を閉じ、一心不乱に演奏していた彼女が顔を上げ、目を開ける。その恐ろしいほど研ぎ澄まされた眼差しと、俺の目線が一瞬交わる。


 その刹那、バチンと何かが弾けたような感覚、そして強い光を感じて、思わず目を閉じた。


 気がつくと、俺はヴァイオリンを手にしていた。


 優しく、そして懐かしい声。


「さあ、アポロ。弾いておくれ」


 目の前にはじーちゃんがいた。じーちゃんの手にはダリアと同じ楽器。


 じーちゃんがまだ生きていた頃。貧しかったけれど、何の不安もなく、幸せだったあの頃。両親はいなかったけれど、俺にはじーちゃんがいた。


 じーちゃんと毎晩のように一緒に合奏をしていた。じーちゃんが伴奏をして、俺が主旋律を奏でる。二人だけなのに、俺の頭の中には色々な楽器の音が鳴ってたっけ。


 本当に楽しかった。


 俺は音楽が大好きだったんだ。


 魔法が発動しなくたって、誰かを感動さることができなくたって、楽器から音が鳴るだけで、それだけで楽しかったんだ。


 なんでこんな大切なこと忘れていたんだろう。


 その時、ダリアの声が聞こえたような気がした。


「ねえ、アポロ。音楽は好き?」


 必死になって、何度も、何度も頷く。


 目から涙が溢れて止まらなかった。


「ああ……! 好きだ……大好きだ。俺は、やっぱり、音楽が好きなんだ!!」


 いつの間にか、曲が終わっていた。


 しんと静まりかえるホールに俺の裏返った叫び声がみっともなくこだまする。


 ダリアはにっこりと笑って、そして頷いた。

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