第2話 沙希

 朝の混雑する浜松町駅の改札を出てから、十分程歩いた所に遥のオフィスはあった。八階建ての光沢のある大理石風の概観のビルが目の前に見えてくる。以前はおしゃれに見えたビルも、最近は地味な感じに思えてくるようになった。エレベータのボタンを押す。いつもの仕事が待っている五階にあるオフィスの席までのカウントダウンが始まる。

 遥の座っている席からは、東京タワーが少しだけ見えた。経理の仕事は楽しくも面白いとも思った事はないが、会社にいる気心の知れた何人かの仕事仲間と話したり、さわいだりするのは楽しかった。パーティションに区切られた前の席の沙希は、この会社の先輩にあたるが、同い年なのですぐに仲良くなった。出社する時間がほとんど同じである二人だが、今日は沙希のほうが早く出社しているようだ。モニタにスクリーンセイバーが写っている。たぶん休憩室で他の人と話でもしているのだろう。遥はバックを机の横に置いて、パソコンのスイッチを入れた。

「おはよう!」

 沙希が席に戻って来るのを見計らって、遥は元気に声をかけた。

「おはよう! 昨日は遅かったの?」

 軽くウェーブした前髪からのぞく沙希の瞳はいつも好奇心に満ちている。メイクのせいもあるが、同じ二十四歳でも沙希はまだ高校生くらいに見える。

「そうでもないよ。あの後、十五分くらいで終ったから」

「なんだ、それくらいなら待っていればよかったね」

 沙希が席に着いた。

「ねえ、昨日面白いメールが来たんだけど見てみる? ほんと笑えるのよ!」

 遥は削除せずに残しておいたスパムメールを、すぐにでも見せたい衝動に駆られていた。

「どんなの? 見せて、見せて!」

 沙希の声のトーンが高くなった。

「昨日の夜に来たスパムメールなんだけど、他のメールとなんか違うのよ。なんか、あやしいでしょ?」

「どれどれ、見せてみなさい!」

 遙のスマホの画面を沙希が覗き込んだ。

「えーっと、必ず十人の中から当たる? 伊香保温泉で豪華なランチを食べながら現金三千万円を当てよう? はずれた人にも交通費三万円渡します? すごい事書いてあるね」

「やばそうなメールでしょ?」

「そうねえー、で、どうするの? 行ってみるの?」

 すぐ隣にある沙希の横顔に無邪気な笑みが浮かぶ。謎のメールを楽しんでいる証拠だ。

「まさかー! すっぽかされるだけだと思うし。これ絶対にひっかけだよ」

「まあ、面白いメールだけどね。ちょっとお笑いが入っているのはいいけど、あまりヘンな事に巻き込まれるのは遠慮したいよね」

「そうそう、最近いろんな事件が多いしね」

 仕事がはじまる前にちょっとした事で盛り上がれるのは気持ちがいい。得体の知れないこのスパムメールも冗談のネタとしては大いに役に立った。

「参加しない時は『参加しない』を押してくださいだって。もう押したの?」

「それが、まだなんだよねー。なんか気になって。今日の夜、家に帰ったら消すことにするわ」

「とか言って、消すのがもったいなくなったんでしょ?」

「そんなんじゃないけどさ。珍しいし、面白いメールだからもう少し楽しんでから消してもいいかなって……」

「あさっての日曜日楽しみだね。三千万円当たったら何かおごってね!」

「もう、行かないって言ってるでしょ!」

 揺れる気持ちを見透かされているような気持ちになった遙は唇が尖らせた。

「この話はこれで終わり。さあ、今日も仕事がんばりましょっ!」

 キーボードに向けて遙は両手を伸ばした。

「また、ウケるメール来たら見せてね!」

「うん、いいよ」

 前の席に沙希が戻っていった。キーボードをタイプする音が間もなく聞こえて来る。沙希の途切れのないキーを叩く音は、いつ聞いてもなめらかで安心感がある。これから先、タイピングがいくら上手になっても沙希には敵わないだろうと遙は思った。青く澄み渡った空のおかげで東京タワーが良く見える。遙は『プレゼントメール』のことはしばらく忘れて仕事に集中することにした。

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