第8話 ゼロ

 北大路通りに架かる賀茂川を跨ぐ橋。その名も北大路橋。まんまである。


 繁華街の四条通や、ビジネス街の御池通、京都大学や同志社大学近くで大学生の多い今出川通り。

 それらの喧騒からは離れたこの辺りの賀茂川は落ち着く。

 中高生やお年寄りの姿が増える気がする。


 北大路橋の東側に大きな丸の形をしたモニュメントがある。

 正式名称は知らないけれどわたしたちは「ゼロ」って呼んでいる。

 だって大きなゼロの形をしているから。


 その足元に腰を下ろして、私は約束の相手が現れるのを待っている。

 空には少し雲が出てきて、夏の暑さは和らいだ。

 賀茂川の上を走る風が、河原から吹き上がり、私は思わずスカートを押さえる。

 急に生まれた空気の流れ。まるでゼロの輪が風を吸い込んでいるみたいだ。

 振り向くとそこには変わらず、よく分からない表情をしたモニュメントが立っている。


 昨日の昼、リビングでソファに座ってボケっとしていると眞姫那からLINEメッセージが届いた。


 曰く、昨日のことで一年生の楡井くんを呼び出して、キャストの先輩の立場からひとしきり説教したらしい。なんだか余計ややこしくなってそうで、思わず腕組みしてしまった。


 でも、眞姫那なりの気遣いだとわかるから、やっぱりそれはそれで嬉しかった。

 ただ、眞姫那の行動力は、そこで止まってはくれなかったわけであり。


『やっぱり、絵里と楡井くんは二人でちゃんと話した方がいいと思うから、キューピットの眞姫那様が、ちゃんとセッティングしてあげたよ! 明日、昼の一時。賀茂川沿いにあるゼロの前で待ち合わせ。そこから二人でどこに行くのも自由だから! ヨロシク!』


 予定の確認もないままに、約束をセッティングされてしまったのだ。

 それにしても集合場所が何故ゼロなのかがわからない。

 楡井くんの家が近かったりするのかな?


 そんなことを考えていると自転車のブレーキ音が鳴った。我に返る。

 視線を上げると、ポロシャツ姿の黒縁メガネ男子がいた。

 自転車から降りて、ハンドルに両手を掛けたまま。

 楡井新だった。

 意外なことにシュッとしてお洒落な私服姿。本当に意外なことに。


「おはようございます。楡井くん」

「おはようございます。――先輩」


 昼を過ぎた時間でも「おはようございます」って挨拶しちゃうのが業界かぶれの演劇部だよね、って思ったりしつつ。


 *


「川添先輩にめちゃめちゃ説教されました」


「だろうね」と思うけれど、ちょっと「ごめんね」とも思う。

 二人で賀茂川の河原に下りる。

 日曜日の昼。走り回る子供たちや散歩するカップル。

 ちょっと北にはサックスの練習をする女の子がいた。

 もしかしたらうちの高校の子かもしれない。吹奏楽部の。


「金曜日はごめんね。練習止めちゃって。みっともないところ見せちゃて」


 人差し指に髪の毛を絡ませる。

 無意識だったけど、自分でもこれが癖だって分かっている。

 困った時に、ついつい出ちゃう奴だ。


 どっちにしても、こういう時は先に謝るに限る。

「ごたごたが生じてお互いがそれを修復しようとしている時って、先に謝ったもん勝ちってこともあるのよ」って、お姉ちゃんも言っていた。


 紺のポロシャツにチノパンを穿いた楡井くんは、私の一歩後ろを歩いている。

 隣に来てくれた方が話しやすいのだけれど、後輩だから遠慮しているのだろうか。

 でもこうして近くを二人で歩くと、彼の身長の方が高いってよく分かる。十センチか、それ以上。一つ下の後輩だけど、やっぱり男の子なんだよね。


「あ。まぁ。大丈夫っすよ。あんまり気にしてないんで」


 あれ? そこは「僕の方こそ、ごめんなさい」が正解じゃないかな? 後輩よ。

 私だけが悪いってわけじゃないよね? むしろ悪いの、楡井くんの方だよね?


「――座ろっか」

「はぁ。いいっすよ」


 ちょうどベンチが空いていたので、指をさすと、彼も頷いた。

 やっぱり立ち話じゃなくて、ちゃんと腰を据えて話さないといけなそうだから。


 それにしてもつっけんどんな返事。

 彼は今日、私に謝ることがあって来たんじゃないんだろうか?


 ――やっぱり私、この子とは、仲良くなれないかもしれないなぁ。


 ところで、並んで座ると、頭の位置は少し彼の方がたかった座高はそんなに違わなかった。

 つまり私の足が短いってことでしょうか。……閑話休題。


「ねえ。楡井くんはさ。もっと私に言うこと無いの?」


 賀茂川の水面を眺めながら、私はそう切り出した。


 透明な流れが、いくつものより小さな流れを作っていて、その一つ一つが重なりあい、どこか複雑な模様を作っている。複雑だけど透明で、それが夏の光を反射している。


「どれを喋ればいいんですかね。なんか今日、呼び出されたのもよくわかんなくて」

「『どれを喋れば』――って」


 楡井くんは、前を見たまま、少し顎を突き出した。デフォルトの仏頂面。


 なんだか思っていたのと違う流れだ。

 眞姫那ってば、どう言って、彼を連れ出したんだろう?

 まさか私が一方的に謝る流れなんかじゃないよね?


 ふと脳内に眞姫那の顔が浮かんだ。

 頭の中の仮想空間・眞姫那ヴァーチャル・マキナが話し出す。


 ――まぁ、とりあえず呼び出しといたからさ。後のことは、絵里、ヨロシクー!


 そう言って脳内の眞姫那は小さく舌を出した。

 だよね。きっとそういう感じだよね。

 友人に気配りの効いたセッティングを期待した私が愚かでしたよ。


 でも、なんだか、そう考えると、逆に肩の荷が下りるような感じがした。

 だって、いつも通りだから。逆に、等身大の自分で居られる気がするから。


「そういえば、宮藤先輩のこと聞きましたよ。川添先輩から」

「え? いきなり何? そこから?」


 突然飛び出した名前に、思わず彼の横顔を二度見してしまう。

 だって今日は彼の演技と素行の話がメインじゃないの?

 宮藤先輩のこととか話すとしても、その流れで、くらいのはずで。

 しかも、あらためてその名前を出されると、――どことなく気恥ずかしいというか。


「だって先週、リハーサルで先輩が止まっちゃった時を除いて、一番、先輩が取り乱したのって、俺が宮藤先輩のことを知らないって言った時じゃないっすか」

「ええ? そんなこと、――ないわよ?」


 いや、あるかもしれない。私は演出のことで彼に指摘するよりも、彼の勝手な振る舞いを注意するときよりも、宮藤先輩のことで取り乱したのだ。うん、恥ずかしい。やめて、思い出すと辛い。


「村越先輩の大事な人なんですってね」

「いや、まぁ、うん。それは否定しないけれど、楡井くんの口から聞くと、そこはかとなく誤解を覚えるというか――」


 眞姫那に「大事な人」と言われても、「そうそう」ってなったけれど、違う人の口から出ると、なんだか違和感がある。

 大事な人って、恋人とか、家族とか、そんな意味に聞こえてくるよね?

 もちろんそういうのじゃないからね?


「楡井くんは、去年のWEB SOUBUNに出した先輩たちの全国大会作品の動画ってもう見たんだっけ?」

「いや、まだです。見ないといけないとなぁ、とは思っているんですけど」


 正直「入部するなら、それくらい見ておいてよ」と言いたいけれど、そこはグッと堪える。

 そういうのは、やっぱり自由なはずだから。


「うん、そっか。だったら知らないよね。良かったら今度、動画ファイルのコピーをUSBか何かで渡してあげるよ」


 楡井くんは、「はぁ。どうも」と頭を前に小さく出して、返した。

 こういうリアクションの一つ一つが、コミュニケーションに不真面目さを感じてしまう。

 だから、なんだか、苛立ってしまうのかなぁ、私。


「宮藤先輩は、この春に卒業した私の2つ上の先輩で、全国大会に創部以降初めて進出したうちの演劇部を脚本・演出で引っ張った――私の憧れの人なんだ」


 *

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