(四)

 伊織は静かに呼吸を整えた。

 なにもかもが自分の知らないところで始まっていて、自分が何もできないうちに巻き込まれ、自分の及ばないところで収束しようとしている。


(どいつもこいつも……)


 何か、腹がたってきた。


(いや、落ち着け。


 そう、自分に言い聞かせた。



   ◆ ◆ ◆

 


「三合――とは、また低く見積もったな」


 忠政は声を低めた。

 武蔵は静かに頷いただけである。


「ふむ」と呟き、忠政は小次郎に目を向けた。


「あの構え、身をかがめてからの打ち込み、さぞ鋭く早いものであろう」


 武蔵は「虎切でしょう」と言った。


「虎切? それは岩流の技か。どのようなものだ?」

「真正面からの打ち込みをかけ、怯んだところを踏み込みながら逆袈裟に切り上げる技でございます」


 武蔵は隠すことなくその太刀名義の内容を告げた。

 技――というにしても素朴なものであるが、この時代では複雑なものはそうない。

 とはいえ、素朴であるが故に奥深い。

 打ち込みから切り上げる手首の返し、重心の運びには岩流独特の呼吸と機微がある。

 最初の打ち込みとても侮れない。

 思い切った真っ向からの一撃というのは存外と受けにくいものであるし、それを当てるつもりがなくとも真正面から繰り出された時、格下の使い手では怯むことは必至だ。

 忠政が「ほう」と感心するように声を漏らしたのは、武蔵の説明が簡にして要を得ていたということもさりながら、その厄介さに思い至ったからである。


「なるほど、そればこそのあの大太刀か。間合いもわからぬあの構えから打たれたのならば、届かずといえども反応してしまうか」

「はい」

「円明流の十字留の技があれば、悪くとも引き分けには持ち込めるかと見ていたが……」


 忠政の脳裏に、伊織が小次郎の打ち込みに反応して二刀を十字に合わせ、次の瞬間に下段からの返す太刀を股間の寸前に止めらる……そんな画が浮かんだ。

 ちらりと武蔵を一瞥してから、その画の伊織を武蔵と差し替えた。


「武蔵殿なら、いかに破る?」

「常の如く」

「ふむ……」


 真正面からの打ち込みをするりと進みながら小太刀で受け、同時に大太刀で小次郎の首か内股を打つ――という、毎度の如き演武の画が生じた。

 武蔵流の通常の戦型である。

 しかし、そのためには……。


「前に進めるか? 伊織に? それも相手の呼吸を読みながら先をとれるのか?」


 一人ごちる忠政であるが、武蔵は平然としていた。

 その様子は緊張している風でもない。何処か興味深そうなものだ。

 試合ゆえに死ぬことは万が一であろうが、それにしても養子が危機にあるのにそれほど心配がないというのはどういうことだろうかと忠政は思った。


「武蔵殿、何やら秘策でも授けておられるのか? やけに落ち着いておるが」

「秘策というほどでも」


 と武蔵は答えた。


「伊織の長ずるのは武芸ではなく乱舞、ならば、乱舞が如く振舞えと、そう申しただけでございます」

「それは――」


 さすがに言葉を失った忠政であったが、武蔵はかまわず続けた。


「我は、武芸の理に任せて諸芸を修めました。ならば、逆もあると思ったまでです。乱舞に長ずれば兵法を極められると」

「それは、細川幽斎公のいう謡曲十五徳か――」

「御意。あとこのたびの仕合、どういう策をとるのかは伊織が決めました」

「ほう?」

「なかなか、面白い――が、しかし、上策とて最初の一手を間違えれば下策にも及ばず……さて、どうなるものか」


 そのようにひとりごちる武蔵は、はっきりと伊織を見ていた。



   ◆ ◆ ◆



(こない、な……) 


 立会いが始まってからすでに数分が経過していた。

 伊織は小次郎が仕掛けてないことに不審を感じていた。

 確かに二刀流の円曲は防御の構えとして優れているが、それを破る工夫はすでに小次郎があるはずだった。

 そうでなければ、姫路、そして明石へと武蔵流の本拠近くにて決闘や辻斬りなどを繰り返したりはしていない。彼がこの場に立っているということ自体が、いつでも二刀と戦える用意があるということを明確に示していた。


(ならば、すぐにでも打ちかかって来るやも知れぬと思ったが)


 兵法の試合に、絶対というものはない。

 どんな名人だろうと、油断をしていれば駆け出しの未熟者に負けることだってありえることだ。勝負は時の運ともいう。技だけで勝てるならば、誰も苦労はしない。

 なればこそ戦いなれた人間は無駄なことをせず、早めに勝負をつけようとする。

 時間がかかるほどに、技以外の要因が入り込むからだ。

 少なくとも、伊織はそのように聞いている。

 それなのに。

 小次郎は打ちかかってこない。


(理由があるのだな)


 自分をすぐに負かさない理由――というものに、伊織には心当たりがあった。


(ふん。常盤殿だろうな……なればこそ)


 小次郎がこの数日間接触した人間については、だいたい心当たりがあったのである。



(今、仕掛ければ勝てる……が) 


 小次郎はどうしたものか、と考える。

 剣の試合では絶対というものはない。ないのだが、勝てると思うと欲がでてくる。老獪な兵法者ならばそれを戒めるところだろうが、小次郎はまだ若かった。若いが故に小賢しい思念が脳裏をよぎったのは確かだった。

 

『できるだけ無様に、宮本伊織を打ち負かせて欲しい』


 あの日、ゆうと初めて会った日の夜――宿にしていたところに、常盤藤右衛門の家人が訪れた。

 小次郎のような若輩が調べられる程度のことなどたかが知れているが、それでもうろうろと半月と姫路や明石の辺りで聞いて回れば、伊織という武蔵の養子がかなりのできもので、その伊織をやたらと目の仇にしている常盤何某という者がいるということも聞き及んでいた。

 そういうこともあって、さほど警戒せずに案内されていった先が果たして常盤家であったが。


『新免武蔵に挑む――か』


 常盤藤右衛門は、小次郎の話をひとしきり聞いてから笑った。

 何処か嘲るようであった。


『大した腕前ではあるようだが、まず武蔵殿を引っ張り出すのは無理難題というものだ』

『正面から挑めばいい。兵法者であるのならば無視できぬだろう』


 小次郎はわざと単純なものいいをした。

 そこまで安直なことを考えていた訳ではないが、決闘に持ち込むのにどういう手段をとるのかということについては、漠然としか考えていなかったのは確かだ。

 案の定、藤右衛門は首を振った。


『無理だな。武蔵殿はかつて仕官していなかった頃とは違う。宮本家五百石の後見人であり、隠居だ。その武蔵殿に挑もうと正面から当たれば、宮本家の人間が総出で阻もうとしてくるだろう。腕に覚えありといえど、五百石の動員できる人間を全て切り伏せるほどではあるまい?』


 道理ではあった。

 一騎当千、万夫不当などという言葉はあるが、現実にそれだけの力を戦場で発揮できた武者などというものは軍記の中にもいるかどうかだ。

 かの九郎判官義経と弁慶達であっても、何百何千という追っ手からは逃げるだけで精一杯であった。


『……では、どうすればいい?』


 とここで素直に聞いたのは、決して自分の考えが非現実的だと諦めた訳ではなかった。

 臆したかと声高く挑めば、武蔵が出てこないままでは世間はすませないと踏んでいたからだ。

 仮に宮本家の人間に自分が殺されようが、代わりに天下に聞こえた武蔵の評判は地に落ちるに違いない。その内に下関で叔父を殺したという話も巷間に広まるだろう。

 小次郎は自分が非業の死を迎えることまでも、計算づくに腹を据えていたのだ。

 ただ、他に妙手があるというのならば、次第によってはその手に乗らないこともない。

 常磐藤右衛門は、いとも簡単に、


『宮本家をなくせばいい』


 と言った。


『今の宮本家は、突き詰めれば宮本伊織の家だ。武蔵殿は養父とはいうものの、実際は後見人のようなものだ』


 つまり、決闘の相手としてまず伊織を叩きのめして、宮本家を潰してしまえばいい――ということだった。

 伊織がいなくなれば、武蔵は必然的に一人となる。武蔵には宮本家を維持していくという理由がないからだった。


『まず城攻めをする時は丸裸にすればいい、ということだな。しかし、武蔵にはもう一人養子はいるぞ』

『姫路に移る前に挑めばよいし――姫路でも同じことをすればいいだろう。三木之助は伊織と違ってまま使えるとは聞いているが……それでも五百石の家来の総勢と戦うよりは、生き延びる目はあるというものだ』


 姫路宮本家も七百石あるのだが、そのことについては述べなかった。


『………次は武蔵の弟子が出てくるかもしれんが、同じことだ。正面から堂々と一人一人と相手していけばいずれ武蔵殿がでざるを得なくなるだろう。どちらにせよ、何十人といる家来をまとめて相手をするよりはマシだ」


『………そう思惑通りにいくものか』


 小次郎は搾り出すように、そう言った。

 目の前の男が言っていることが、どうしても誇大妄想の類のようにしか思えなかったからだ。

 そもそも伊織と決闘できるのかが解らないし、決闘できてもそこで伊織を殺したとして、それで宮本家が絶えるとも決まっているわけでもい。

 伊織には実家に弟がいたし、可能性をいえば宮本家存続のために別に人を呼んでくることだってありえる。なんといっても宮本家は伊織を近習としての家格を与えるため、引き立てるためにわざわざ創設したのだともっぱらの噂だった。そうでなければすでに姫路にあるのに、もう一つの宮本家を建てるなどということは道理に合わない。

 それをいうと。


『違う』


 と藤右衛門は断言した。


『宮本伊織は、殿

『それは――』


 どういう意味か。

 藤右衛門はそれには答えなかったが。


『お主は伊織をとにかく打ち負かすことだけを今は考えればいい』


 あとは自分が宮本家を潰すように働きかける、と藤右衛門は囁いた。

 小次郎も段々とそれが可能のような、いや、もっというのなら非常に魅力的な提案に思えてきた。


(力はこちらが上だ)


 小次郎は考える。

 手順を間違えなければ、自分の勝ちは動かない。

 余裕でも傲慢でもなく、純粋な思考の結論としてそれは確かだった。少なくとも、小次郎の中ではそうだった。

 小次郎は考える。


(これならば)


 これならば、あの男の願いどおり、伊織を無様に追い詰めて勝つということも容易なのではないか――

 それは邪念であった。

 兵法者としては、考えるべきではない思考であった。

 それが脳裏をよぎったのはそれこそほんの微かの時間ではあるが、その些細な変化を目の前の男は見逃さなかった。  



(ふん……)


 だいたい、どういう意図を相手が持ったのか伊織は察していた。

 兵法の名人が新弟子をあしらうように、軽々と撃ちかかる自分を捌く――そんなつもりなのだろう。


(常磐殿が後ろにいるのなら……)


 背後関係、というのにも足りないだろうが、恐らくは何某かの今回のこの仕儀に常磐藤右衛門が関わっているだろうということは明らかだった。小次郎がどの程度自分の意思でいるかは別にして、何かの誘導を受けてここにいるのは間違いない。


(なればこそ、予定通りだ) 


 中段に上げていた切っ先を、静かに下段に落とした。

 いや、そんな兵法的な修辞よりも、ただ単純に――ぶらさげた、というような言い方がしっくりするような、そんな動作だった。

 小次郎の目が大きく開かれた。

 伊織がどうしてそういうことをしたのか、まったくもって信じられないとでもいう風に。

 そして。

 歩き始める。

 するり、と伊織は前へと進んだ。

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