(二)
(勝てる)
気負うでもなく、小次郎はそれを確信できた。
目の前に立つ新免武蔵の養子・宮本伊織は、本来土豪の子でありながらも近習へと選ばれた俊英と聞いていた。
なるほど、兵法の修練をしていないにも関わらず、その立ち方はまっすぐとして隙がない。
だが、硬い、とも見えた。
(どれほど鍛えようとも、実戦に際しての心構えができていない)
一年、――それだけの間、小次郎は武蔵流の研究に時間を費やした。
武蔵の弟子という者は、多い。
武蔵が兵法者として名を上げたのは二十代の前半であり、すでに二十年も前だ。
半ば伝説中の人物であるその武蔵に弟子入りして学んでいた者は、全国に散らばっている。
特に武蔵は播磨に在住していただけあって、西日本にはかなりの人数がいた。
また九州の方は武蔵流の原型である新免流の使い手もまだいる。
小次郎がそれらと対峙し、二刀使いとの対策を練るには十分であった。
何人かの兵法者の試合を見た。
何人もの兵法者と試合をした。
結果として、小次郎が得たのは技ではなく心である。
自信、というべきであったのかもしれない。
数多の経験が、この前髪のままの若者に余裕をもたらせていた。
道場での強さなどどれほど誇ろうとも無駄だと、小次郎は断じる。必要なのは殺し合いに際して動揺することのない心根であると。
もとより、死んでも同然と覚悟の上で出奔した身でもあった。
だから惜しむ命でもなく――
(虎切を仕掛ければ、勝てる)
だが、ここで簡単に勝負を終わらせるべきか、それを小次郎は考えた。
津田小次郎は剣士の家に生まれた。
父は岩流の多田善右衛門の門人で印可を得たという名人で、母はその多田善右衛門の妹である。
父は早くに妻を亡くし、その後添いとして入った。その理由については後々に知るのだが、小次郎の知る限り二人は仲睦まじい夫婦に見えた。
小次郎が剣士としての頭角を幼少の頃から顕したのだが、それも血と環境のなせるものであったのだろう。十三歳の時には大人に負けぬ体格になっていた小次郎に、岩流の大人たちのほとんどが勝てなくなっていた。
古参の門人たちは、そんな時によく口にしていた。
「なるほど、この強さ、あるいは岩流先生の生まれ変わりやもしれぬ」
岩流先生というのが、多田善右衛門の弟であり、彼が生まれる何年か前に敗死した多田市郎のことであるということは、聞けば解った。
兄と違って岩流門下に入るでもなく剣術を倣い覚え、自ら巌流を称したという名人であると。
負けた人間の生まれ変わりであるといわれるのは小次郎の自尊心を些か傷つけたが、その倒した相手というのが今をときめく大名人、新免武蔵であるということと知れると、ひとつの目的を彼に抱かせることとなった。
「いつか、武蔵をも倒せる剣豪になろう」
年齢的に、自分が一人前になった頃には武蔵は老いている――ということには気づいてない。
彼の中では武蔵というのは偉大なる叔父を倒した強大な存在であり、いつまでも彼の中では話に聞いたままに若い剣豪の姿であり続けた。
一種、小次郎は武蔵に憧れていたといえなくもなかった。
このまま何事もなく精進し続ければ、あるいは小次郎はそのうちに元服をしてから正式に岩流の門下に加わり、印可を得てから腕試しとして播磨の武蔵を訪れていたかもしれない。あるいはそこで武蔵に感服し、弟子入りすることだってあったかもしれない。
そうはならなかった。
幾つか理由があるが、その理由のひとつとして、いつの間にか舟島の決闘の話が再燃して、そしてどういう経緯か周防へと伝わっていたいたということがあった。
下関の沖にある、舟島――通称を岩流島と呼ばれるこの島での武蔵と多田市郎との決闘に関しては、どういう経緯があったのか、どういう試合であったのかということは誰にも解らなかった。当時も、今もである。
多田市郎の親族の誰一人としてそのことについては語らなかったし、武蔵もこの試合については特に何もいっていない。
当時からして武蔵が卑怯な手段で巌流を倒したのではないか――という噂はあった。
しかし、そんな噂は長続きせずに消えた。多田市郎は地元でこそ有名であったが全国的には無名であったし、武蔵が有名になるのは少し後である。
武蔵が有名になってから、そして小次郎が強くなって、多田市郎の強さを古老が語りだしたことによって、新たな伝説が生じた。
そう。
伝説はいつでも、どういう理由でも生まれるものなのである。
近年に生まれたのは、武蔵が舟島に弟子を先にいかせ、よってたかって騙し討ちにしたというものである。
冷静に考えれば、あるわけがない。
武蔵はその当時は何人も弟子がいるような年齢ではないし、そもそも舟島は中州のような小島であり、人を隠すようなところはない。
弟子を何人も渡すためにはやはり船頭を何人も用意しなくてはいけないだろう。当時でそのようなことを証言している人間は誰一人としていなかったことを考えると、そんなことは根も葉もない話であるとわかりそうなものである。
――という客観視できる者は、この時代には一人もいないのが現状である。
小次郎は自分の存在が生み出した要因になったにも関わらず、その話を半ば信じた。若かった、というのもあった。武蔵に憧れていた分、冷静ではいられなかった。
そして、その頃にまたひとつの戯れ歌が伝わってきた。
新免武蔵は天下無双
六十余たびと戦えど
一度も負けたことはなし
その業殿様褒められて
いかになしてその強さ
聞かれて武蔵が答えるに
我が強いとさにあらず
相手がみんな弱いだけ
自分が強いのではなく、相手が弱かっただけだ。
それは本来は諧謔の言葉なのであろうが、小次郎はそうはうけとれなかった。
相手が弱い――つまり、叔父が弱かったということにされた。
それが全てだ。
かつて聞こえた卑怯な振る舞いをしたという話が、より小次郎を激怒させた。また、種々聞こえる武蔵の卑怯な、勝つためには手段を選ばない戦いの仕方が、憎悪をより強くさせた。
「許さない」
父に、伯父に、訴えた。
なんでこんな風に言われても武蔵をほっておいているのだと。
誰もがうまく説明できなかったのだが、二十年も前に死んだ多田市郎の仇を討とうなどということは誰も思わなかった。今でこそ郷土の悲劇の剣客ということになっているのだが、当時の親族にしてみれば、多田市郎という人間が厄介とまではいかずとも、かなり面倒な部類の人間であったということは記憶に残っていた。
それに、彼らはその当時に武蔵が卑怯なことをしたのかということは解らないが、決闘の経緯にもある程度の見当はついていたのだった。
彼らは小次郎に問い詰められながら、話を小出しにしたのだが――
それがまたいけなかった。
小次郎は親族に見切りをつけ、故郷を出た。
それが一年前の話だ。
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