ミルダルン

Skorca

第1話

 自分は、ごく平凡な、空域層に暮らす一人の女だった。

 特別な能力もなく、学歴も平凡、容姿もとりたてて美しいということもなく、日々仕事に出かけた夫の帰りを待つ、普通の妻だった。

 少し人と違うところがあるとすれば、それは夫の職業だ。彼は頭脳優秀な科学者であり、技術者であり、政府の重要な仕事に携わっていた。宙域層に関わる仕事、ということ以外、妻にも内容は明かせないのだという。

 宙域層に関係する仕事といえば機密扱いが当然だったので、そのことについて疑問に感じたりはしたことがない。むしろ、ごく一握りの人間にしか携わることを許されない、宙域層の任務を夫が任されているということに誇りを感じていた。それにどうせ、自分には内容を話されたところで一つも理解できなかったに違いない。

 自分は、空域層では最低限の教育しか受けていない、さしたる能力も持たない地味な人間で、まさかあんな優秀な男性に妻にと望まれるなどと、思ってもいなかったくらいだ。もともと身内との縁が薄いらしく、両親は子供のころに亡くなっており、これといった親族もいない。天涯孤独で、もしこれが地上層の生まれだったら最下層民の身分に落とされていたかもしれない。幸いにも空域層民の両親の許に生まれた自分は、公的機関の施設で育ち、一通りの教育を受けることができた。

 成人後、裕福な家庭の使用人として働きながら生計を立てていた。そして働き先に出入りしていた夫に出会い、結婚したのだ。

 まだ子供はいなかったが、夫は自分を大切にしてくれて、幸せに暮らしていた。子供の頃は社会の援助を受けて肩身が狭い思いをしながら育ったものだが、夫が家庭という居場所を与えてくれた。これほど素晴らしいことはなかった。自分は確かに幸福だったのだ。

 あの時までは――。

 突然、夫は自分を置いて一人、逝ってしまった。

 彼は仕事で他の空域層の街に出張に行っていた。そして帰ってくる途中、事故に遭ったのだ。

 しばらくは泣き暮らした。やがて涙も枯れ果てたが、とうてい立ち直ることなどできなかった。また、自分は一人ぼっちになってしまったのである。今までにないひどい喪失感だった。自分自身の人生まで失われてしまった気がした。

 もう、その人の為に生きたいと思える相手がいない。子供もいない。そう、自分は夫が生きた証を残すことができなかったのだ。自分の中にある夫の記憶だけが、彼が生きていた名残。

 それなのに、自分は夫が死の直前まで一体どんなことをして働いていたのかも知らない。何かを研究していたのか、何かを造ろうとしていたのか、それすら知らないのだ。自分自身、それによって生かされていたはずなのに。

 もう、何をする気も起きなかった。自分は何のために生きてきたのだろう。

 そんな折、一人の客が家を訪ねてきた。それはかつての夫の同僚だった。

 彼は、ひどく重々しい口調で自分に言った。

「貴女に、紹介したい仕事があります」

「……私に?」

「ええ。宙域層の仕事です」

 私は驚いた。ごく一部の選ばれた人間しか、宙域層には関われないはずなのだ。

「……そんな、私には夫と違って何の特技も能力もありません。宙域層でのお仕事など……」

「これは特別な能力を必要とする仕事ではないのです。必要なのは、覚悟だけです」

「覚悟?」

 彼は生真面目な顔つきで頷いた。

「ええ。宙域層に、全てを捧げる覚悟です」

「……」

「貴女もご存じのとおり、宙域層は特別な場所です。貴女のご主人が、職務の内容を決して貴女に明かさなかったように、重大な秘密を抱えることになります。そして、この仕事を引き受けた場合、宙域層で暮らしていただくことになります」

「宙域層で……」

「つまり適応手術を受けていただかねばなりません」

 宙域層の各施設の空気は、この星の大気と組成が違うらしい。短時間なら薬の投与で呼吸できるが、長時間滞在するなら、呼吸器系に特殊な機器を埋め込む手術が必要だ。

「いったい、そこでのお仕事とは?」

「身構えるような内容ではありません。宙域層に暮らすある人々の、家政婦的な役割です」

「家政婦……」

 あまりに平凡な内容に、私はほんの少し拍子抜けした。

「お気を悪くされましたか?」

 相手の言葉に、私は慌てて首を振る。

「とんでもない。もともと、私は要人の方のお屋敷で働いておりました。確かに、それであれば私にも務まる内容です。ですが……なぜ、私に?」

「先ほどもお話ししましたが、この仕事には、覚悟が必要です。引き受けた暁には、あなたは宙域層民となり、ここでの暮らしは全て捨てていただきます。失礼ながら貴女は天涯孤独の身の上であると、ご主人から聞いたことがありました」

 なるほど、と私は思った。

「私には、ここに捨てるべきものも残されていない、だから適任ということですか」

「それもありますが……」

 そこで言葉を切ると、彼はひどく優しい表情になって私を見た。

 そして、こう言った。

「ご主人が人生の全てを捧げてきたもの。それを、知りたいと、ご覧になりたいと思いませんか?」

「――」

 私は一瞬、言葉に詰まった。そして、私の目からは涙がぽろぽろと零れ始めた。

「あ……」

 嗚咽が込み上げてきて、私は両手で口元を覆った。

 そう、虚ろになった心の中で、それは、私の最後の望みとも言えるものだった。叶うはずなどないと思って、意識したことすらない、最後の希望。

「……私に、見ることができるのですか? あの人の……成してきたことを」

「できます。ここでの全てを、捨て去る覚悟があるなら」



 私は翌日、指定された場所に向かった。政府機関の職員と思しき面接官が数人待ち受けており、そこで沢山の質問を浴びせられ、その全てに必死に答えた。

 夫の生きた証を、自分の目で確かめられる。その想いだけが私を突き動かしていた。

 その為なら、何を捨てようと惜しくはない。

 私の覚悟が伝わったのか、面接官たちは皆納得した様子になり、一人が最後にこう言った。

「では、一ヵ月後、専用シャトルで宙域層に向かいます。それまでに身辺の整理をして下さい。重ねて申し上げますが、貴女は一ヶ月後から宙域層民となり、空域層からは戸籍を抹消されます」

「はい」

 私は迷いなく頷いた。望むところだった。

 宙域層に関しての具体的な知識は、実際に宙域層に移り住むまで与えられなかった。空域層民に内容が漏れることを危惧しての措置なのだろう。宙域層とは、それほどの場所なのだ。

 一月後、私は自宅を整理し、夫の形見となるものと、自身の思い出の品をいくつか選び、荷づくりした。生活用品は衣類も含め、一切準備の必要はないと言われていた。

 この仕事を紹介してくれた夫の元同僚が、自宅に迎えに来てくれた。彼の職場でもある宙域担当省が目的地だ。

 自家用の飛行艇で向かう道すがら、彼は言った。

「おめでとうございます。きっとご主人も、貴女が新たな一歩を踏み出したことを喜んでいらっしゃると思います。それに彼は、本当は貴女に自分の仕事を見てもらいたかったはずなんです。この星を、ひいては貴女を、守るための仕事だったのだから」

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