三妖妃の真実――ある意味これが全ての始まり

 わが国で金毛九尾と呼ばれるその大妖怪の下界での活動は、商王朝(殷王朝)最後の王・紂王を籠絡し、破滅に追いやったのが初の活動であるとされている。

 紂王が女媧じょかの霊廟に訪れた際にその像に感動し、「女媧様マジで美人。もう俺一目ぼれしちゃったわ。出来る事ならハーレム要員にしたいんだけど(超意訳)」という破廉恥極まりないポエムを霊廟の柱に落書きしてしまったのだ。

 女媧と言えば人間を大量生産し、更には彼らが暮らしやすいように天変地異を収めた偉大なる女神である。当然彼女は紂王の軽はずみな言動に激怒、罰として自分の配下である三匹の妖魔――すなわち九尾狐狸精・九頭雉鶏精・玉石琵琶精の三姉妹である――に密命を出し、紂王を王朝もろとも破滅に追い込んだ。

 伝承ではそのように伝えられ、当時を知らぬ者は人間も妖怪もこの伝承が事実だと思っていた。

 果たしてその伝承は真実だったのだろうか?



「九尾お姉さま、喜媚姉さまっ! 女官たちがおもしろい話をしてたわよ!」


 女媧が運営する洞府の一室に、転がるように入り込んできたのは玉石琵琶精の王鳳来だった。息を弾ませながら駆け込んできた彼女がひたと視線を向けるのは二人の姉弟子、すなわち金毛九尾の蘇妲己(当時はまだ蘇妲己と名乗っていなかったが、便宜上蘇妲己と記そう)と、九頭雉鶏精の胡喜媚であった。蘇妲己と胡喜媚は今日も今日とて道術の件について書物を読み、二人で意見交換を繰り返していたのだ。知的で聡明な彼女たちらしい過ごし方である。

 この三姉妹は若い娘や少女にしか見えないが、かれこれ九百年以上女媧の許で修行を続けている身である。あと百年足らずで本式の妖怪仙人になれる存在だった――真面目に女媧の許で修行を続けていればの話だが。


「どうしたのかしら鳳来。今日はどんな話を聞かせてくれるの」

「そうね、私も気になりますわ、鳳来」


 妲己はもう既に興味深そうな表情を見せている。胡喜媚は冷静な表情を保ってはいるが、それでも口許に笑みが浮かんでいた。


「あなたは色々な話をしてくれますものね。丁度姉様と話していて煮詰まってどうにもならない時とかに、鳳来の話は丁度良いのよ」


 胡喜媚にそう言われ、王鳳来は嬉しそうに目を輝かせた。


「姉さま。今日は女媧様のお誕生日だったでしょう。商王朝の紂王様が女媧宮にごあいさつに行ったんだけどね、その時におかしな落書きを遺したんですって」


 無邪気な王鳳来は、姉たちに促されるままに落書きの内容についても語った。妲己も胡喜媚も妖怪である上に色事が何であるか知っているから、まぁ別に驚きはしなかった。胡喜媚は九頭龍とうそぶく実弟が海龍王の許への縁組を画策している訳だし、妲己に至っては地元に数十匹の子孫がいる位だ。

 従って、紂王が遺したというハレンチポエムについても「所詮は王と言っても人間だから煩悩はあるだろう」と思ったくらいだったのだ。

 だがそれでも、妲己は王鳳来に質問を投げかける。


「その話はもちろん女媧様もご存じなのよね? それで、女媧様は何ておっしゃってるのかしら」

「女媧様はぜんぜん気にしてないのよ!」


 そう言って報告する王鳳来の声や眼差しには、女媧への尊敬の念がこもっていた。


「女官たちや使用人たちは女媧様へのブジョクだとかボウトクだといってオロオロしてたんだけど、女媧様は『別に王と言えども人間のやった事だし、紂王の命運も残り二十八年だから別に大騒ぎするほどの事でもありません』って言って終わったみたいなの。姉さま、やっぱり女媧様はカッコいいよね!」


 妲己と胡喜媚は互いに顔を見合わせてから微笑んだ。王鳳来は女媧の態度にいたく感激しているが、実は妲己たちは女媧がそのような反応をするだろう事は予想済みだった。往古の創世の女神たる女媧は、神々の中でも更に超然とした存在だったからだ。それに人間を作った当事者でもあるから、今更人間の行動に口出しするような事もないであろう、と。


「命運があと二十八年……」


 さて胡喜媚はと言うと、王鳳来が口にした命運という言葉を呟いていた。思案に暮れているようだが、ややあってから聡明な面にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。実際、彼女はいたずらを思いついたような物であった。実を申せば胡喜媚はこのところ、洞府での修行生活に飽き飽きし始めていたのだ。そしてそれは姉弟子の妲己も同じである事を見抜いてもいた。


「お姉様。鳳来。私たち三人で紂王の命運を縮めてみようではないですか。女媧様がどうお思いかはさておき、紂王が女媧様を侮辱した事には変わりありません。その事について弟子である私たちが報復するのが筋ではありませんか」

「あら、胡喜媚も中々面白い事を思いつくのね……でも、姉妹たちの前なんですから、正直に退屈だからちょっと遊ぼうと思ったって言っても良いのに」


 妲己は胡喜媚の発言にさほど驚くそぶりも見せずたおやかに笑っていた。すぐ下の義妹は冷静で理知的であるが、その実気位が高く傲慢である事も良く知っていたためだ。しかしそれは胡喜媚の系譜を考えれば無理からぬ話でもあった。彼女の先祖は遡れば顓頊や九鳳と言った高貴な旧き神に行き着くのだから。更にこの旧き神とは一線を画す、道ヲ開ケル者の血も継承しているのだから尚更である。

 妲己自身は単なる妖狐から出世して九尾になった身分であるが、やんごとなき身分の義妹に対する気後れは特に無かった。妲己は妲己で自分で力を付けて大妖怪になったという気概があったし、何より面白い事が好きだった。往古の血を尊びかつての栄華を求める胡喜媚を見ていると、面白い事が舞い降りてくるのではないかとも思えたのだ。


「まぁ確かに大義って言っても問題ないわよね。考えてみれば、私たち九尾と商王朝には浅からぬ因縁もある訳だし」


 そう言うと妲己はうっそりと笑った。商王朝の前に夏王朝があったのだが、夏王朝の始祖は九尾を妻に娶ったという。時代が下り、夏王朝は商王朝にうち亡ぼされ、取って替わられた。暴力により王朝が亡び、新しい王朝が樹立したのだ。九尾によって繁栄した王朝を亡ぼしたツケが九尾によって支払われる。それはそれで中々愉快な話ではないか。妲己はそのように思っていたのだ。


「姉さま……」


 不安げな声を出したのは末妹の王鳳来だった。朴訥な彼女は姉二人の大それた計画を前に気後れしているらしかった。


「女媧様はべつに気にしてないっておっしゃってたわ。だからその、わたしたちでかってに動くのはいけないと思うの」

「気にしていないというのは上辺だけの話かもしれませんわ」


 王鳳来を前に、胡喜媚は表情を変えずに言ってのけた。


「女媧様も古くからおわす創世の神としての威厳がございます。仮に内心では腹立たしく思っていたとしても、それをおいそれと下々の者たちに見せないのではないか? そのように思いませんか?」

「喜媚がそう言うと説得力があるわよね」


 胡喜媚の主張に妲己も頷いた。


「それにね鳳来。もし私たちが紂王の命運を縮める事が出来れば、それは私たちの凄さを証明できる事になると思わなくて? それこそ女媧様も、私たちをすぐに妖怪仙人にしてくれるかもしれないわ」


 自分たちで命運を縮める事が出来るかもしれない。大それた言葉の前に妲己も胡喜媚も酔い痴れていた。後に九尾は混沌や革命の遣いと見做される事があったが、そう言った事はこんな所から既に顔を出していたのかもしれなかった。

 かくして、三匹の妖怪は女媧を侮辱したという名目でもって商王朝を陥落させる事と相成ったのである。



 妲己たちが女媧の洞府を抜け出してから二十八年後。妲己たちは命運を縮める事はかなわなかった。それどころか姜子牙率いる兵士に追い立てられ、逃亡しようと奮起していた所だ。

 だが逃亡劇自体もつかの間の物だった。何処からともなく姿を現した女媧に、創世の女神にして三妖妃の師範が振るう縛妖索によって捕らえられたからだった。日頃ならば妖力でもって風雲を作って空を飛ぶ事など造作もないが、女媧の従者に捕らえられた三姉妹は、そのままもんどりを打って地面に伏せる他なかった。縛妖索の恐ろしさは彼女らも知っている。ただでさえ大妖怪の妖力をも無効化できる代物なのだ。暴れれば暴れる程消耗するだけでもあるし。


「わたくしの許で修行を重ねるあなた方の裡に魔性が潜む事は知っておりました。ですが、このような大それた事をするほどに愚かだったとは――」


 貴婦人姿の女媧の、弟子妖怪たちを見下ろす眼差しは冷え冷えとしたものだった。

 それこそ、かつて胡喜媚が言ったように裡に潜む烈しい怒りを抑え込んでいるだけである事は明らかだったが。最も、単に腹を立てているだけとは思えぬ憂いの色もその眼には宿っていた。


「あなた方はあと百年足らず大人しくわたくしの許で修行に励んでいたら、晴れて妖怪仙人の身分になれたはず。その修行を抜け出してこんなにかまけていたのはどういう了見かしら?」

「遊びとおっしゃいますか、女媧様」


 ここで声を上げたのは胡喜媚だった。彼女は半人半鳥の異形めいた姿を晒し、ちぎれた首の付け根――これは哮天犬こうてんけんに噛み落とされたものだった――から血を流すのも構わずに女媧を見据えた。


「商王朝の、紂王の命運は二十八年と聞き及んでおりました。それを我らの力によって縮める事が出来れば……我らは命運を超える力がある。その事を証明したかったのです」

「それこそが遊びのような物でしょうに」


 胡喜媚の決死の弁明に対し、女媧は物憂げにため息をつく。


「もう一度言いますが、あなた方に、特に妲己と胡喜媚が魔性を宿す存在である事はわたくしも初めから知っていました。知った上で弟子にしたのです。野放しにしていたら、あなた方は必ずや世をかき乱す妖魔になると……修行を重ね、妖怪仙人としての道を歩むのならばそれは回避できると思いましたが、もはやわたくしとあなた方の縁はこれまで。あなた方は今回の所業の罰を受けるほかありません。

 無論姜子牙きょうしがたちの処刑であなた方が死ぬ事は無いでしょう。ですが――もうわたくしの許へは戻れませんよ。それがどういう意味か、しっかりと噛み締めなさい」


 女媧の言葉に三妖妃たちは言葉もなかった。特に姉たちに便乗してついてきた王鳳来などはすっかり怯え切っている。

 と、そんな一行の前に一陣の黒い風が舞い込んできた。黒い風と思ったのは黒い大きな犬である。この犬こそが哮天犬である。二郎真君こと楊戬ようせんの飼い犬であり、飼い主共々最強と謳われる神犬である。

 その哮天犬は、口許から胸元にかけて黒い毛皮を血で汚していた。全て返り血、胡喜媚の血である。胡喜媚は大妖怪であったし武芸の心得もあったのだが、この犬を前に辛くも敗北したのだ。


「おやおや、ご主人に変わって不埒な三妖怪を追い立てておりましたが、女媧様もおいでだったのですね。いやはや、所を見せてしまい申し訳ありませぬ」


 犬の姿であったが哮天犬は流暢に人語を操った。珍しい事でも何でもない。普通の妖怪であっても人語を操る事くらいできる。ましてや神犬と評される御仁なのだからそれ位問題無かろう。

 哮天犬を眺める三妖妃の眼差しは鋭い。いっそ殺意と敵意に満ち満ちてもいた。胡喜媚の首を噛みちぎり、その返り血を浴びた姿を見苦しいと言い放ったのだから当然であろう。


「どうやら何か話し込んでおりましたが、女媧様とこの畜生共はお知り合いなので?」

「この者たちはわたくしの弟子ですわ。商王朝が亡び、周が興る革命についてはあなたもご存じですよね。わたくしは紂王を堕落させるために彼女たちに密命を持たせ、商に送り込んだのです」

「そういう事でしたか……確かに彼女らであれば良い仕事をなさった事でしょう」


 女媧の言葉に哮天犬は犬らしく舌を垂らして笑っていた。

 何故この時女媧はありもしない密命を口にしたのか? 弟子であり魔性の力を持つ三妖怪をおのれの監督不行き届きで好き放題させた事を恥じていたのだろうか? 或いは、罰を受ける弟子たちにひとひらの情を持ち、自ら穢れ役を買って出たのだろうか? それらの真相については定かではない。


 ただひとつ言える事は、妲己と呼ばれた妖狐が義妹たちと共に各地で混沌をもたらす遊びに興じ始めたという事である。

 妲己と呼ばれた九尾の妖狐は、やがて東方の島国で討伐され、封印される事になる。しかし混沌をもたらし野望を抱く彼女の心は、彼女の娘や子孫に受け継がれていたのである。

 その好例が牛魔王の第二夫人に収まった玉面公主であり、妖狐の血が四分の一まで薄まっておきながら野望を持った曾孫の一人だったりするのだ。

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